2018/3/12

セイダク  
ニャンコ氏は元正信会で現在は正宗の末寺に所属する法華講員だそうである。氏は浅井先生顔負けの予言をしている。

『妙観講』の残された時間は、『御隠尊』の残された寿命と、ほぼ同じなんですが。せいぜい、がんばってください。

これは遅かれ早かれ答えの出ることである。妙観講が放逐されればニャンコ氏の予言が当たったことになる。

しかし、これは創価学会系の謀略者たちが盛んに言っていたことで、御隠尊から御当代へ代替わりになった頃、これで妙観講もオシマイだ、みたいなことをネット上で言い触らしていたのである。ようは過去の経緯からして、御当代は妙観講に恨みを持っているということらしい。しかし、実際にはどうだろう。あれからすでに十年以上が経過しているが何も起こっていない。

すると今度は、まだ御隠尊の睨みが利いているうちは手が出せないのだ、御隠尊が遷化されればその時こそ放逐されるだろう、などと不謹慎なことを言う。

わたくしの思うに、政治の世界などでも純化路線という表現が使われることがあるが、その行きつく先はジリ貧だろう。何だかんだ数の論理が物を言う世界なのだ。宗教の世界は違うと思うかもしれないが、むしろトップに立つ人間は清濁併せ呑む懐の大きさが求められるわけである。もっともこういう書き方をすると、まるで妙観講を濁だと言っているみたいだが・・・

ともかくわたくしが宗門の内情に疎いのは事実である。ゆえに宗門の内部において不平不満が渦巻いていることを、ウソだと断言はできない。逆にさもありなんと思うところもなきにしもあらずである。

ただし、それはいついかなる時代にもあることであって、今が特段に異常というわけではないだろう。例えば、かつては管長選挙のようなものがあったそうだが、当然そこには虚々実々の駆け引きがあったはずである。ごく単純に、自分の支持していた人物が落選すれば不満に思うだろうし、当選した人物に対しては何かとイチャモンをつけたくなるものだ。何しろ大聖人・日興上人の時代ですら、離反があったくらいである。特に日興上人の時代はベラボウな頻度で離反があった。事情はさまざまだろうが、しょせんはそんなものなのである。

会社になぞらえてもいいだろう。上司に不満を持つ人は多い。ウチの上司は百点満点だと言える人が、はたして何割いるだろうか? それは欲張り過ぎにしても、単純に不満か満足かの二択にしたらどういう結果が出るか、興味深いところである。わたくしの感触では七三ないし八二で不満が勝っていると思う。

いずれにしてもニャンコ氏は宗門事情に詳しいようなので、引き続きご教示をたまわれれば幸いである。

さて、今日は昨日の続きである。

 内証成仏だから生きている時は自身も確たる自覚がない、人も知らない。だが「死すれば光を放つ」と。臨終に成仏の相が現われるのです。これを「外用の成仏」というと、お示し下されている。

浅井先生は一念三千法門を引用した上で、上掲のごとく説明している。わたくしは思うのだ。では、御生骨はどうなのか、と。

顕正会ではこの御生骨のことを盛んに指導している。広宣流布の時には光を放つのだと。それがいつだったか、六千万で光を放つという話になった。その辺の細かいことはどうでもいいだろう。問題は本当に光を放つのかどうかである。むしろ上掲の説明のごとくならば、光を放つというのは譬喩になるはずである。この点、浅井先生はどのように考えているのだろうか?

『黒皮隠々として骨甚だ露わる』と申して

神国王御書の引用である。今回の顕正新聞には当該御書の御真蹟が掲載されている。その直下に解読文と呼ぶのだろうか、御真蹟の行に合わせる形で、ようは原文を忠実に書き起こしているのだ。

黒皮隠々骨甚露焉と申て

いつも言っていることだが、わたくしは御真蹟を読めない。恐れながら言えば、ミミズののたくったような字にしか見えないのだ。それで活字化された御書を拝読しているわけだが、当該御文は顕正会の表記と平成新編の表記で異なっている。後者は次のごとくだ。

黒皮隠々として骨其れ露はると申して

ようするに「甚だ」と「其れ」の違いである。はたしてどちらが正解だろうか?

幸いに今回の顕正新聞には当該部分の御真蹟写真が掲載されているので、読めないながらも頑張って読んでみた。するとわたくしには「そ」に見えるのである。ひらがなの「そ」だ。そして次の行にも「そ」がある。ほぼ同じ字体である。顕正会ではそれを「其」と表記しているのだ。

だったら前の行の「そ」も「其」だろうが、と言いたい。

わたくしの勝手な想像を書くと、浅井先生は誇張表現が好きである。すると当該御文も「其れ」よりも「甚だ」のほうが意味的にインパクトが強いので、浅井先生好みということになる。

しかし、どうだろう。そんなことで御書の読みを捻じ曲げてもいいのだろうか?

実際には大差ない。これで文意が大幅に違ってしまうことはないので、さしたる問題ではないのだろう。とは言え、そういう問題ではない。これは浅井先生が恣意的な解釈をすることの傍証となる話なのだ。

以上、顕正会側の言い分を聞いてみたいものである。

2018/3/14  15:01

投稿者:ニャンコ
投稿者:マイケル
>トップに立つ人間は清濁併せ呑む懐の大きさが求め
られるわけである。

>厳虎さんと同じで僕自身、猊下様がそこまでお心の
狭いお方だとは思いません。

>器の小さいお方が、猊座に登られるのは難しいでし
ょう。

>何らかの形で妙観講を切ったとしても、インパクト
が大き過ぎるんじゃないですかね。

>宗内外から、一斉に批判が寄せられるでしょうから
難しいのではないか、僕はそう思います。

マイケルさんの表現をお借りすると、日達上人は、「妙信
講を切って(解散命令)」います。

日顕上人は、「正信覚醒運動に参加した多数の僧侶を切っ
て(擯斥処分)います。更には、自らの過去の教導・発言
を真逆に翻して、「創価学会を切って(破門)」います。

マイケルさんの表現をお借りすると、「清濁併せ呑む懐の
大きさ」「そこまでお心の狭いお方だとは思いません」の
『猊下様』には、これらの前例・前歴があります。

『妙観講』どころの「インパクトが大き過ぎる」騒動では
なかったですよね。
宗門の歴史を俯瞰すると、本当に、大笑いです。(呵呵)

2018/3/14  10:45

投稿者:晋三
骨と死相は別の話では?

2018/3/14  7:59

投稿者:マイケル
>厳虎さんは、御生骨を拝観された事はありますか?

昨夜気付いていたのですが、訂正が今朝になって申し訳ございません。
ないですよね。

厳虎さんは、御生骨を拝観されたいと思われますか?
また御生骨に関する様々な伝説を、信じていらっしゃいますか?

2018/3/13  16:36

投稿者:マイケル
厳虎さんは、御生骨を拝観された事はありますか?
拝観という表現が、適切でない場合は御容赦下さい。

2018/3/13  6:23

投稿者:晃
広宣流布はもう終わってるんで
王仏冥合の時に御生骨は光を放つんではないでしょうか

https://hokkevxage.com

2018/3/12  14:33

投稿者:マイケル
>トップに立つ人間は清濁併せ呑む懐の大きさが求められるわけである。

厳虎さんと同じで僕自身、猊下様がそこまでお心の狭いお方だとは思いません。

器の小さいお方が、猊座に登られるのは難しいでしょう。

何らかの形で妙観講を切ったとしても、インパクトが大き過ぎるんじゃ
ないですかね。

宗内外から、一斉に批判が寄せられるでしょうから難しいのではないか、僕はそう思います。

2018/3/12  13:03

投稿者:大沢克日子
>はたしてどちらが正解だろうか?

御宗門の平成校定御書には
「又死する時は黒皮隠々(トシテ)骨(D)其露(ハ
ル)焉と申(シ)て無間地獄の前相其の死骨に」
とあって、その注釈に
「D其=甚(満)(昭定)」
と記されていますから、「本満寺本」と身延の「昭和
定本」は当該部分を「甚だ」としています。

>そして次の行にも「そ」がある。ほぼ同じ字体である。

毛筆の文字に関して我らよりはるかに素養があるはず
の昔の僧侶も、龍が飛翔し鳳凰が舞うが如き大聖人様
の御筆勢から、文字を見誤ることもあったのでしょう。

本件は巌虎さんのお見立て通り「其」なのかもしれま
せんね。

2018/3/12  12:48

投稿者:マイケル
>末寺に転籍した妙観講出身者は多いんですよ。彼らの複数の証言が物語ってる通りです。

そうなんですか?

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