2018/8/21

ナツヤスミ  
顕正新聞第1447号の一面は御書要文拝読である。これはプチ御書講義とでも表現すべきもので、ようは短い御文を掲げて解説を加えている、もちろん浅井先生が、である。そして今回の要文は報恩抄の次のくだりである。

 「法華経をよむ人の、此の経をば信ずるやうなれども、諸経にても得道なると思うは、此の経をよまぬ人なり」

図らずも沖浦氏を破折している御文である。

同じく一面の下段には郡山会館の新本館のことが書かれている。どうやら先週の日曜日から運用が始まったらしい。いずれその折の会長講演が掲載されることだろう。

さて、二面以降の各種記事を拾ってみよう。まずは副総男子部長だ。

 そして道念なき池田大作を相手に、二度も誑惑を文書で訂正せしめ・・・

おそらくは創価学会の代名詞として池田氏を挙げているのだろう。その意味では間違ってはいないのだが、不勉強の人はあたかも浅井先生が池田氏と相対して訂正せしめたかのように誤解するかもしれない。

 そこに、二百万達成と安倍政権崩壊が重なるこの重大法戦・・・

同じく副総男子部長であるが、これは一ヶ月以前の発言だと考えられる。では一ヶ月後の今現在、同じことを言えるのかどうか、そこが気になるところである。

 第五男子部におきましては今月一日、誓願三九〇名を達成突破・・・

数字が悩ましい。なぜならば、かつての隊レベルでも同様の成果を上げていたからである。たぶん、こうしたことは現役の活動会員たちがいちばんわかっていることであって、このテイタラクで本当に広宣流布が可能なのかと考えるのが普通の感覚ではないかと思う。

本特集号の発刊直後に起きた、西日本を中心とした豪雨災害に、諸天の強き諫めを実感・・・

この際、本特集号がどの特集号を意味するかはどうでもいいだろう。問題は豪雨が諸天の強き諫めだとするならば、なぜに西日本中心なのかが気になるところである。この合理的な説明をぜひとも聞いてみたいものだと思う。

 私たちは無二の師匠・浅井先生のご信心に引っ張り上げられ、大聖人様がお待ち下さるゴールに向けて驀進している・・・

第三婦人部長の発言も悩ましい。大聖人が待っている云々は譬喩表現だと理解することにしよう。それならばわからなくもないが、すると今度はゴールの意味が問題となる。ゴールは譬喩ではなく具体的な意味が存在するはずなのだ。ところがである。大聖人が待っている云々の譬喩に引っ張られて、ゴールのほうも何となく譬喩っぽくなってしまっているような雰囲気が感じられるわけである。

なぜならば、現実的な意味でゴールは遠い先のことに思えるからである。つまり、そうした冷静な視点を持っている人にとっては、すでにしてゴール云々が現実離れした話にしか思えないわけであり、だからそれは譬喩なのだと結論してしまったほうが収まりがいいわけである。

しかし、そうすると、そこにはいったいどのような実利があるのかが問題となってくる。もし何のメリットもないと思えば、一気にやる気が失せてしまうだろう。難しい話ながらも、これが顕正会の構造的な欠陥と言えるのかもしれない。

ドブ板踏んだ戦い・・・

これは男子部第三十一隊長の記事であるが、古い表現である。ようは譬喩表現なのだろう。こうした表現は好みの問題であって、悪くはないと思う。

「種子法廃止」「水道事業民営化」の本質 誰も知らず
在野の諫暁団体≠フ使命かみ締める


婦人部宮崎支区部長の記事に付された見出しである。彼女はひじょうに活動的であり、あちこちの役所に乗り込んでいって折伏している様子がよくわかる記事である。

宗教と分かった時点で目が泳ぎ・・・

それはそうだろうと思う。役所は行政サービスの一環として市民からの要望に耳を傾ける。当然、聞ける話と聞けない話がある。残念ながら顕正会の話は聞けない話なのだ。

いや、もちろん、彼女の主張も相当であって、見出しにある種子法だとか水道事業の問題は深刻である。ゆえに役所側がそれに対してどのような見解を持っているのか確かめる必要があるし、それが間違っているとすれば正しい方向に向かわせるべく意見を言うのは悪いことではないだろう。

ただし、一職員の立場ではどうすることもできないのが現実であり、かつまた役所側から見ればしょせんは形を変えた宗教団体の勧誘に過ぎない、というふうに思われても仕方がないところではある。

「県で種子を守る活動をしている。美味しくないお米を誰が買おうか!もっと勉強してこい」

これはJA宮崎の育苗センター長が放ったセリフのようである。結局、この人は地元においてはそれなりの名士であるものの、しょせんはそこまでの人物である。こう書くとバカにしているように思われるかもしれないがそうではなく、ようは中央政府が決めたことに対しては従うしかないのが普通の感覚なのである。

ところで少し話が脱線するけれども、上掲を読んでわたくしはタイ米のことを思い出した。もう二十年くらい前になるだろうか、めずらしく冷夏の年があった。日本ではコメが不作だった。そこで政府が緊急措置としてタイ米の輸入を決めたのである。ところが日本国民は贅沢にもタイ米はマズイと文句を言ってあまり食べなかったのである。
しかし、これはじゃっかんの誤解があることで、ようは食べ慣れていないから違和感があることが第一の問題であり、第二の問題はそもそもコメの品種が違うのだから同じような炊き方ないし調理法では美味しく食べられないという、当たり前のことが忘却されていたために起こった齟齬なのである。
わたくしの拙い見聞を書けば、タイ料理はどうか知らないが、近年はインド・ネパール系の飲食店がけっこう存在する。そこで出されるコメがタイ米かタイ米に近い品種のようなのである。実際にはナンを食べる人のほうが多いのだが、当然、ライスを頼む人もいる。わたくし自身、ナンを食べる機会が多いものの、ライスも悪くないと思っている。

思えばタイ米をマズイと言っていた頃の日本人は、一億総中流社会と呼ばれる時代を生きていたのである。そこそこ豊かであり、食べ物の味を云々する余裕があった。

しかし、今はどうだろう。かなり貧困層が増えてきて、わたくし自身も決して他人事ではなくなってきた。つまり、ウマいマズいではなく高い安いが選択基準にならざるを得ないという現実に、今は直面しつつあるのだ。

センター長ともなれば、それ相応の収入を得ていると考えられるので、まだそこまでの深刻さを感じていないのかもしれない。それが上掲のセリフにあらわれているのかもしれないと思う。

話が大幅に脱線してしまったようだが、結論は簡単である。

近年の顕正会はわりと政治案件に口出しすることが多い。それに対して宗教団体としてどうかと疑問を呈する人もいる。しかし、わたくしの印象は案外に悪くないのだ。けっこう鋭いところを突いていると思うし、活動会員たちの教養にもなることなので、今後も続けていくべきだろう。

2018/8/26  8:02

投稿者:沖浦克治
 巌虎さん、おはようございます。

 昨日チャイムがなって出て見ると、

 私たちはキリスト教の布教に来ました。

 それでお話しました。

 私は創価学会員で仏教をやっています。
 以前は貴女と同じクリスチャンでした。
 今でも主の祈りを覚えています。

 天にまします我らの父よ、願わくは御霊を救いたまえ。
 我らが我らの罪をも許す如く、我らの罪をも許し給え。

 諳んじると驚かれました。、

 実は私の両親も創価学会員です。
 私も創価学会員として育ちましたが、今は聖書に出会ってキリスト教の布教をしています。

 そうですか、それはご苦労様です。
 暑い中ですがお体に気を付けて頑張って下さいませ。

 そうしてニコニコ笑いながら帰って行かれました。
 
 ああ、時代は変わったな。
 実感した次第です。
 
 他宗を認め、そこで頑張る人も創価学会員が布教するのと同じに称える。

 創価学会も、仏法本来の姿に戻りつつあると感じました。

2018/8/25  10:47

投稿者:通りすがった
顕正会員相手に日蓮正宗をディスっても意味ないのだがな

2018/8/25  6:30

投稿者:沖浦克治
 巌虎さん、 おはようございます。

 私は、日蓮正宗時代に活動した数が少なくなって来た創価学会員です。
 そのころ、御書を読んでも他宗の攻撃する部分が主でした。
 本当の大聖人思想は理解できません。

 今は、御書を生き様のお手本として拝します。
 最近法華講の方がよく言います。

 御書に何でも書いてあるわけではない。

 池田先生の指導にあります。

 オール・イン・ゴショ!

 日蓮正宗と創価学会、同じご本尊に同じお題目と唱えながら、私共は大聖人を人間のお手本として捉え、生き様に共鳴しています。

 あちらは、人間を超えた尊い存在として祭り上げ、その威光を利用して威張るボンさんが沢山いて、信徒を食いものにして生活をしています。

 創価学会にも本部職員もいますが、ボンさんとの根本的な異なりがあります。
 私共の職員は、会員に嫌われたらそこで御終いになります。
 何故なら創価学会には聖職者がいませんし、そういう思想がありません。

 所が日蓮正宗には、大聖人と信徒の間に色々挟まっています。
 御法主上人猊下様、御御尊能化様、御住職様、エトセトラ、エトセトラ・・・・・・

 驚いたことに、お寺にまで様付けなんです。
 妙本寺様、法恩寺様・・・・・・

 これで日蓮思想がわかる道理がありませんね。

2018/8/24  8:02

投稿者:沖浦克治
 おはようございます。

 師匠の入会記念日です。
 一昨日私の地区でも記念座談会がありました。
 座談会は可能な限り出ます。
 隣に座られた私より少し上の女性が言われました。
 
 何時も何していますか?
 司会者が質問されたのです。

 お題目を毎日3時間唱えます。
 それから御書を読みます。
 御書は一年で全ページ読みます。
 大白蓮華も聖教新聞も、隅から隅まで必ず読みます。
 守られていて、何不自由なく生活していて、毎日が楽しくて楽しくて仕方ありません。

 声も若くて姿勢も良くて、70代後半には見えません。
 私の番になって言いました。

 世界で何回勝っても、お隣さんには遥かに及びません。
 
 本気で思っています。
 師匠も言われました。

 『皆様方も、海外に指導に行った、などと聞くと素晴らしいと思うでしょう。
 それは違うのです。
 人生の幸不幸なんてそんな所にはありません。
 何気ない日常に功徳が薫る。
 そういう人が栄光勝利の人なんです。』(主意)

 私は、まだまだ先が長いから頑張れる、、と思った次第です。

2018/8/23  9:41

投稿者:沖浦克治
大沢さん、おはようございます。

 インド応誕でしたね。
 変換ミスでした。
  
 一切衆生が南無妙法蓮華経如来と言うのが日蓮思想の極意です。

 そして、全ての仏の覚りはこれだと説きます。

 ここまでご理解出来ますか?

2018/8/23  7:50

投稿者:大沢克日子
沖浦さん

>インド横誕 は誤入力でしょうか?

色々おっしゃっていますが、
「久遠一念の南無妙法蓮華経」
ですよ?

2018/8/22  22:19

投稿者:沖浦克治
 今晩は

 釈迦はインドに生まれ、19歳で出家30歳で成道したとされています。
 五時八教と言う概念がありまして、現在は私どもはこれを採用し、釈迦仏法の基本としております。
 ですが、近い将来これは否定されると思っています。

 釈迦は3000年以上前の人で文字がなかった時代です。
 現在私共は天台の構築した教えに従っていますが、釈迦がこの通り説いたという証明はありません。
 それはさて置きます。

 釈迦はインドに生まれて修行によって仏法を悟った。
 
 インド横誕の釈尊と申します。
 インドで生まれてインドで初めて覚り、その後始めて弟子たちを教えた。
 これに対し、如来寿量品では、

 自分は久遠実成と言う長遠な過去に既に仏に成っていた。
 
 と説きます。
 久遠実成の釈尊と言います。
 私共は当然久遠実成の釈尊を採用しております。

 インドで生まれる遥か昔から仏であって、娑婆世界で説法教化をして来た。
 方便として死んで見せた。

 するとインドで生まれる以前から仏だったのですから、30歳で初めて覚ったのではないですね。
 然しながら、30歳で覚る以前の釈迦と、覚った以後の釈迦には明確は差異があります。

 双方が同じ釈迦ですが、以前は自身が仏であることを忘れています。
 対して以後はそれを思い出している。
 その思い出す助縁として様々な苦行をしています。
 当然その修行は仏法に依りません。
 ここまでご理解頂けますでしょうか?

2018/8/22  8:42

投稿者:沖浦克治
 極めて基本的な事ですが・・・・

 釈迦は仏法によって悟っておりません。

 彼は悟ってから仏法を説きました。
 歴史上の事実です。
 釈迦が悟ったものは、

 一切衆生が久遠からの南無妙法蓮華経如来である。

 でした。
 この点は御書に明確です。
 
 彼は南無妙法蓮華経を悟るために、南無妙法蓮華経を唱えてはおりません。

 この事実を認識出来る能力を身に付けないと、仏法は理解出来ません。

 これが理解出来ると、戒壇本尊本懐などとの与太話には惑わされなくなりますし、日興さんの唯受一人などは笑い飛ばして相手にしなくなります。

 先ず本質を理解した上でと次へ進む。

 物事の基本でございますね。

2018/8/22  8:05

投稿者:この習い損ないが
何いってんだか

2018/8/21  21:52

投稿者:沖浦克治
 巌虎さん、今晩は。

>「法華経をよむ人の、此の経をば信ずるやうなれども、諸経にても得道なると思うは、此の経をよまぬ人なり」

 私は別にこの御文に異議は唱えていませんよ。
 報恩抄は師匠の道善房への追善の書です。
 当然法華経第一を前面に出されます。
 道善房は唱題をしないで亡くなられた。
 この背景を知らねばなりません。
 大聖人自体、法華経で悟っておられません。

 『而るを日蓮は安房の国東条の郷清澄山の住人なり、幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云、虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき、』
 (善無畏三蔵抄)

 以上のように幼少にして仏法を悟ったと仰せです。
 更に、

 『日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑しなり今謗法の酔さめて見れば酒に酔る者父母を打て悦しが酔さめて後歎しが如し歎けども甲斐なし此罪消がたし、』
 (佐渡御書)

 出家後暫くは念仏を唱え法華経を否定していた。
 書かれてあります。
 
 私は常に書いております。
 南無妙法蓮華経に勝る法はありません。
 ですが、持つ人の振る舞いが最も大事です。
 
 日蓮正宗は他宗を否定し、他宗の信徒や会員の功徳を全く認めず攻撃を繰り返す宗派。
 怨嫉謗法の塊です。
 ですから、この宗派の唱える題目は、同苦の念仏遥かに及びません。
 
 私は物の道理を書いております。

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