2018/9/22

シンテイショウ  
沖浦氏の斬り返しはなかなか鋭いものがあって、不勉強の人には対応困難かもしれない。かく言うわたくしも不勉強であり、ひじょうに困ったことになった。

 重須学頭・三位日順『本門心底抄』貞和5年に以下の記述があります。

「行者既に出現し久成の定慧・広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し・戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定後難を招くあり寸尺高下注記するに能へず。」
(富士宗学要宗第2巻34ページ)

 重須学頭である三位日順ですが、日興さんに学頭職を譲られた日順が「本門の戒壇」について述べています。

 「仏像を安置すること」

 について述べていますが、「本門の戒壇」に安置すべき本尊として戒壇本尊が当時存在しているなら、このような発言が出てくること自体が不自然ですね。

 更に知行に従うとか、最後には今決めておくと本当に建てる時に困ると言っています。

 日興さん門下の秀逸の日順が書いていますので、日興さんにも確たる本門戒壇構想はありません。


これについて正確を期すと、本門戒壇構想はあった、しかし、その内容には疑問符が付く、ということになるだろう。平たく言うと、日蓮正宗が主張する戒壇義とは異なっている、これはいったいどういうことなのか、といった感じである。

当然、これには日蓮正宗側の公式見解のようなものがあるはずだが、わたくしは不勉強なものだからそういうことすら知らないのである。そこでワガママを言わせてもらうと、法華講の諸氏でこの問題に詳しい人がいらっしゃればぜひとも教えていただきたい。とは言え、日蓮正宗の戒壇論をデタラメ呼ばわりしているわたくしに助け舟を出してくれる法華講員がいるとも思えないので、最後は自力で何とかしないといけないのだろう。

以上、この件に関しては宿題ということでよろしくお願いしたい。

さて、いろいろとやることがあって大変ではある。まず、いつものごとく顕正新聞を読んでいかないといけない。これが面倒臭い作業ではあるものの、拙ブログの主要な目的になっているのも事実だ。これをやめることはブログをやめるに等しいだろう。ようは顕正会経験者として顕正会の行く末を見届けるのが拙ブログの役目なのだ。

そこで今日は顕正会の話題を外部から拾ってみたい。

というよりも、たまたま巡り合わせがそうなっていて、ごく最近、興味深い情報を二つほど見つけたので紹介したいと思う。

<速報>現役・第5女子部幹事・第74区長 脱会&即日除名&夜、自宅にK沼副男子部長突然来る

http://blog.livedoor.jp/ishinikoganewokae/archives/28635662.html

わたくしがヘタな説明をするよりもリンク先をご覧になったほうが早いだろう。どうやらご主人も男子部幹部だったらしく、夫婦そろって脱会した模様である。そこに副男子部長がやってきて一悶着あったわけだが、そのやり取りも先方のブログに紹介されている。執筆者もなかなか直截な表現をしていて、ようは慰留が目的ではなくニセ本尊を回収するためにやってきたのだと書いている。

                        平成30年9月 日
顕正会本部 御中

 本日、顕正会本部から貸与された日寛上人御書写の御本尊様を
〔    〕氏に託して顕正会本部へ返納いたします。
                              以上
              住所

              氏名              ㊞


これは先方のブログに掲載されている画像を書き写したものである。ここに顕正会本部の慌てぶりが見える。

ハッキリしているのは急ごしらえの書面ということだ。

おそらくはこれまでにも自宅拠点を構えている人が脱会するようなことが起こっているはずである。実際、自宅拠点の御本尊と思しき物が法華講員の手に渡って、さまざまの検証をした結果として顕正会の本尊はニセ本尊であると、そのように伝えているサイトも存在する。つまり、水面下では同様のケースが相当数あると考えられるのだ。

ところがである。上掲は平成30年9月と印字されている。これは取りも直さず返納のための書式が存在しなかったことを意味するのだろう。

もっとも顕正会側の感覚からすると、返納はイコール組織の縮小を意味するので望ましくない、ゆえにあらかじめそのような書式を作成しておくのはよろしくない、ということなのかもしれない。

それにしても二百万を謳う大組織なのだから、脱会についても正式な書類を作って相手に選択肢を与えるような度量が必要であり、本尊の返納やその他もろもろについても同様にすべきである。それでこそ本物と言えるのではないかと思う。

いずれにしても二百万達成直後にこのような事態を招き、顕正会としては大変である。

そして世間に目を向ければ、安倍三選が実現してしまい、これもまた顕正会的には痛いところである。

宗教マニアが教える入ってはいけない宗教ランキングベスト5【2018】

https://www.youtube.com/watch?v=2dIRvPzH35o

これがまた興味深かった。顕正会も有名になったものだというのが最初の感想であるが、チャンネル主の話を聞いてみると、やっぱ顕正会はダメだな、と思わざるを得ないところである。

わたくしなりに翻訳すると、成果至上主義丸出しの会員たちの姿にウンザリ、というのが彼の言っていることである。

それではダメなのだ。ずいぶん前にも書いたことだが、急がば回れ、である。

残された時間がどうのこうの言っても仕方がない。急いては事を仕損じる、という言葉もあるわけだから、今からでもしっかりと立て直しを図っていく必要があるだろう。

2018/9/28  9:31

投稿者:沖浦克治
 本題です。

 何故日蓮正宗の方々は功徳が書けないのか??
 それは書ける功徳がないからです。
 では何故功徳が出ないか?

 『御いのりの叶い候はざらんは弓のつよくしてつるよはく太刀つるぎにてつかう人の臆病なるやうにて候べし、あへて法華経の御とがにては候べからず、』
 (王舎城事)

 いくら他宗を謗って自らの宗派の正しさを訴えても何の役にも立ちません。

 私は以前書きました。
 座談会で新聞推進の成果や、選挙活動の状況を話してもそれは内輪話に過ぎません。
 ですが、

 貧困を克服した。
 絶望的は病を完治させた。
 極度の家庭不和を解消した。

 この種類の事は人類に共通の悩みです。
 その共通項での体験がないなら、世間は見向きも致しません。
 
 法華講さん方、頑張って強い祈りをなさいませ。

2018/9/28  7:51

投稿者:沖浦克治
 巌虎さん、おはようございます。

 顕正会への名誉棄損が高裁で否定された。
 それで浮かれ騒ぎする人もおられます。
 情けないですね、そんなこと法の正邪と関係ないです。
 本門戒壇の続きです。

 戒壇本尊は身延で日法が彫刻して漆で仕上げ文字の部分へ金箔を貼った事になっています。
 然しながら当時の身延には漆塗りの技術がありません。
 ですので、何処かに運んで行ったことになります。
 あれほど大きなものを運ぶのは大変ですし、お金もかかります。
 更に金箔を貼るには相当の費用がいります。
 これは大聖人にはむりです。

 『又日蓮を不便と申しぬる弟子どもをもたすけがたからん事こそなげかしくは覚え候へ。
 いかなる事も出来候はば是へ御わたりあるべし見奉らん山中にて共にうえ死にし候はん、』
 (乙御前御消息)

 経済状態はこのようなものでした。
 不可能です。

 日精さんの富士門家中見聞下に以下の起債があります。

 ある時日法御影を作らんと欲す、【七面大明神に祈願し給ふ】、感応の至りか、浮木出来せり、乃至大聖戒壇院の本尊を書示し日法、之を彫刻す。今の板本尊、是なり。

 日法が大聖人の御影を作りたいので、七面大明神に祈念したら浮き木が浮いてきてそれで掘った。
 戒壇本尊もこの木に彫刻した。
 日法は彫刻が上手かったので、大聖人は戒壇本尊の文字を掘らせた。

 これって滅茶苦茶ですね。
 
 七面大明神に祈念????????????
 
 あほらしい。

 兎も角戒壇本尊って最初から出鱈目なんです。
 そのありもしない戒壇本尊を入れるため本門戒壇????

 あるわけないわ・・・・

2018/9/27  4:43

投稿者:大沢克日子
テレ朝番組「名誉毀損に当たらず」 東京高裁、
宗教法人の請求退ける
2018.9.26 18:35
産経ニュース
(略)
顕正会は「内容を精査して対応を検討したい」、
テレビ朝日広報部は「当社の主張が認められたもの
と考えている」とコメントした。

2018/9/27  4:36

投稿者:大沢克日子
「テレ朝が逆転勝訴=顕正会への名誉毀損認めず−東京高裁
2018年9月26日 18時29分
時事通信社」

ライブドアニュースに報じられていました。

2018/9/26  22:18

投稿者:沖浦克治
 巌虎さん、皆様方今晩は。

 どうも戒壇建立が大聖人の御遺命だと勘違いしている方が多いようですね。
 大聖人はそう言う事は言われていません。
 二箇相承は偽書です。
 先ずこの点をキチンと弁えないとダメですね。

2018/9/26  10:36

投稿者:沖浦克治
 巌虎さん、皆様方おはようございます。

 戒壇建立などは、この大先輩の体験の前に霞んでしまいます。

2018/9/26  10:34

投稿者:沖浦克治
 雪子さんにとって、「戦死」という二文字には、誇りも誉れもない。
 戦争に殺されたという事実と、終わりのない遺族の悲しみがあるだけだった。

 “なんで戦争へ行ったんだろう”。

 答えのない問いを、雪子さんは繰り返した。
 そんな思いの中、価値ある生き方を示してくれたのが、誰よりも平和を願って広布に生きる母の姿だった。 その背中が、雪子さんの心を導いてくれた。
 「父のいない人生」を嘆くだけではなく、「父がくれた命」を世界平和のために使おう――と。
 雪子さんが結婚し子育てをするようになった時、同居する母に促された。

 「私は戦後、貧しくて、生活に必死だった。私の分も、地域の中で皆さんに貢献していってね」

 PTAや町内会など、地域で友好を広げる活動に励んだ。

 「身近な友情や家族・郷土への愛情から出発し、地球大の平和の連帯を拡大するのが創価の『人間革命』即『世界広布』の運動であります」

 池田先生の言葉通りに、地元で草の根の平和運動を貫いてきた。
 雪子さんは現在、町内会の相談役。
 毎日のように来客がある。
 椅子に腰掛けた角田さんと言葉を交わすと、皆、笑顔になる。
 角田さんは80歳の時、東京牧口記念会館で体験発表をしている。

 「こんなにも幸せにしていただき、今は夢のようです」「さらに信心に磨きを掛け、100歳まで元気いっぱい、池田先生と共に戦って戦って、“広布の証明役”として、頑張ってまいります」

2018/9/26  10:33

投稿者:沖浦克治
  宗教遍歴の末、近所の人から信心の話を聞き、54年に創価学会と巡り合う。
 角田さんが38歳、雪子さんが11歳を迎えた春、入会した。

 「宿命は転換できる」

 その言葉に人生を懸けた。
 電車賃を捻出しては、戸田先生が出席される会合へ出掛け、指導に聞き入った。
 一人も不幸のままにはさせまいとする確信の響きが、明日への希望をくれた。
 母の変化を感じていた雪子さんも、勤行・唱題に励むように。
 入会から1年後のこと。角田さんは娘にお願いした。

「学会活動のために自転車に乗れるようになりたいの。教えて」

 リウマチの痛みは引いていた。
 近くの小学校で、親子は練習に励んだ。
 角田さんは、やがて自転車に乗って、八王子の町を仏法対話に駆け回るように。

 56年8月23日、池田先生が八王子を初めて訪れ、座談会に参加する。
 その場に居合わせた角田さんは、勝利の人生を誓う。この日は、40歳の誕生日だった。
 父を知らずに育った雪子さんは、寂しい時には、近くにある父の墓を訪れた。不思議と安心し、座り込んでは読書をして過ごしたという。
 母は、父のことを「戦死」という以外、何も語らない。
 そんな母が近所の人に、

 「祭りの時、父親のいる家族を見ると、つらいんだよ」

 と漏らしていたと知ったのは中学生の頃。
 悲しみを背負う母の心中を思いながら、娘は成長していく。
 父親の豊さんは、どんな最期だったのか。
 知りたいという思いに駆られ、雪子さんは、ニューギニア戦線に関する本を開いたことがあった。
 だが、あまりの悲惨さに、途中からページをめくれなくなった。
 連合国軍と戦った日本軍は、壊滅的な打撃を受ける。銃撃のほか、マラリアによる病死、飢え死にも相次いだ。
 戦地に送られた15万人の将兵のうち、戦死者は12万人以上。

2018/9/26  10:30

投稿者:沖浦克治
 ◇ 
 1942年(昭和17年)、紹介で豊さんと知り合った。
 優しい人柄に引かれ、結婚。やがて妊娠する。だが、その年の秋。
 召集礼状、いわゆる“赤紙”が届き、豊さんは陸軍として戦地へ赴くことに。
 おなかの子には、男と女のそれぞれの名前を決めて旅立った。
 戦争を賛美する異様な風潮の中にあっても、角田さんは出征を祝う気にはなれなかった。
 年が明け、特に寒かった2月3日。
 雪子さんが誕生した。
 産声を聞いた時の喜びは今も、はっきりと思い出される。

 「でも、悔しかったんだ」。

 一番見てもらいたい人はいなかったから。
 “無事に生まれました”“女の子です”“あなたに似ていますよ”
  夫への思いを、手紙に乗せた。何通も何通も書いた。
 戦地から何度か返事が届いたことがある。
 43年9月。生後7カ月になった雪子さんと写した写真も送った。だが、夫からの手紙はそれっきり途絶えた。

 45年8月、八王子の町が空襲に遭う。
 雪子さんを背負って逃げた。
 命は助かったが、自宅は全焼。大切にしていた夫の服や手紙も灰になった。
 8月15日、隣家のラジオから流れる玉音放送を聞いて、終戦を知った。

 戦後、待ち続けた夫は、復員しなかった。届いたのは戦死公報。ニューギニアのウエワクで44年6月22日に戦死していた。 
 角田さんは織物工場で働きながら、母一人子一人の生活。
 貧しさには耐えられても、夫を失った悲しみを前にすると、死の誘惑に駆られた。
 娘の手を引き、線路まで歩いていったことは何度もある。

 「お母ちゃん、帰ろう」
 
 そのたび、娘の声で正気を取り戻した。
 衣・食・住のどれも満たされない時代にあって、夫が残した娘の存在が生きる全てだった。
 仕事で酷使した体は、多発性関節リウマチに襲われる。
 次第に歩くこともままならなくなる。

2018/9/26  10:29

投稿者:沖浦克治
〈信仰体験 いま想う 戦後73年〉7 ニューギニアで戦死した夫を胸に 2018年9月26日
 戦争を嘆く心は 平和への情熱へ

 近くに住むひ孫たちとの時間。
 夫を胸に生き抜いてきた角田さん(右端)は「今、本当に幸せ」と


 【東京都八王子市】「ニューギニア」。南洋に浮かぶこの島のことを、どれほど思い続けた人生だっただろう。
 角田秀子さん(102)=富士森桜花支部、地区副婦人部長=の胸に残る夫の顔は、今でも二十代の青年のまま。1942年(昭和17年)、夫は生まれてくる子と会える日を楽しみに、戦地へと旅立った。だが、太平洋戦争の激戦地から戻ることはなかった。
 出征から76年。
 どれだけ時を重ねても、戦争のことは思い出したくない。

 「戦争は嫌だ。もう嫌だ」。

 同じ言葉を繰り返した。
 遠くを見つめるような目で何度も、何度も――。

 「ひいばあば! おめでとう!」

 先月の誕生日、ひ孫たちからのお祝いに、角田さんは目を細めた。
 孫が3人、ひ孫が5人。戦時中に生まれた原田雪子さん(75)=婦人部副本部長=を女手一つで育てた。今、家族は笑い声にあふれている。

 居間には、夫・豊さんの遺影が。
 この団らんを見てもらいたかった。
 結婚して、共に生活したのは1年たらず。
 家族には、夫の話はほとんどしていない。
 思い出には、固くふたをしてきた。
 過去への話題を投げ掛けられると、「思い出しても、しょうがねえよ」と口調が強くなった。
 深いしわを刻んだ顔は悲しみに包まれ、目に涙がにじむ。
 七十余年が過ぎた今も、夫婦を引き裂いた戦争と向き合い続けている。そんな表情だった。
 現在、102歳。足腰が弱り、できることは少なくなった。それでも「池田先生が好きな歌だから」と、「武田節」を意気揚々と同志に披露し、鼓舞している。(光)

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ