2019/6/15
ダイフシギ
顕正新聞の続きを見ていこう。副総合婦人部長はまだ懲りずに言っている。
大師子吼
浅井先生の発言をご覧のように表現するのはダメだろう。
「最後の大不思議」への大確信
大を付けるのが好きな人たちである。ちなみにここでの不思議の意味は広宣流布のことである。今まで不思議なことが三つあって、これを先例として最後の不思議も間違いないと確信しているわけなのだ。勝手にすればいいだろう。
もう一人の副総合に注目である。
されば、二〇年代の決戦場到達まで、残る法戦はあとわずか・・・
本年初頭からずっと注目し続けているフレーズである。半年経ってほぼ消滅したと思いきや、まだ使っている幹部がいるのが驚きである。引き続き注目したい。
第二十五婦人部長も大師子吼が好きである。彼女の登壇には他にも注目すべき文言があるので紹介しておこう。
先生こそ、大聖人様が国立戒壇建立の「願主」として遣わされたお方・・・
何を言っておるものかと思う。
本ご講演は、顕正会員に対してと共に、まさに宗門全僧俗に対する先生の「最後に申すべき事」であることにハッとし・・・
なるほど、である。「最後に申すべき事」を書いてから十年以上も経って、今さら何をウダウダ言っているのかと思ったが、上掲はそれに対するなかなかうまい回答である。とは言え、今後も言い続けるのだろう。顕正会の存在意義はそこにしかないからである。結局、最後最後と言いながら、それを何回も繰り返してきたのが顕正会なのである。
ただ、もう少しだけ深読みすると、顕正会員に対してと共に云々がイミシンであって、もしかしたらこれが顕正会員に対しても最後となるのかもしれないのだ。浅井先生は御遺命守護の歴史を繰り返し語ってきた。いわば今回はその最新版に相当するわけだが、これが最終版になるかもしれないのである。
あれまあ、次のページを見たら婦人部第八総部長も大師子吼と言っちゃっている。
第四十四女子部長の発言では次が注目である。
正系門家の歴史的転換の背景となる大折伏を・・・
なぜ今なのか、である。ようするに平成十年の出来事を不思議の還御と顕正会では呼んでいるわけであり、まさにあの年こそが歴史的転換点となるべきはずだったのだ。そのように考えると、なぜに今がそれに匹敵ないし凌駕する時なのかが不明であり、しょせんは行き当たりばったりに過ぎないのではないか思わざるを得ないところなのである。
ところで男子部第五総部長の記事に目を転ずると、先の副総合婦人部長と同趣旨のフレーズが出てくる。
明年の決戦場を見据えた大陣容・・・
明年の決戦場を見据えた様変わりの大前進・・・
これはある意味で浅井先生にプレッシャーを掛けていることになるだろう。明年、もし何もしなければ、いったい決戦場とは何なのか、ということになりかねない。ようは有名無実ということだ。
断末魔の悪書を再発刊した宗門・・・
それにしても凄いことを言う人である。教学委員の中でも武闘派として住職たちに恐れられているだけのことはあると思った。
第四十四女子部長の発言はやや疑問である。
すべて勝ってこられた先生・・・
何をもって勝利とするか、そこが問題である。負けるが勝ち、という言葉もある。わたくしの思うに、例えばスポーツの世界であれば数字であらわすことができるので、そこから勝った負けたを判断することが可能である。しかし、世の中の大半のことはむしろ数字ではあらわせない混沌としたものなので、そこで勝利を云々してもしょせんは個人の主観に過ぎないだろう。
そうすると最終的には顕正会の主張する広宣流布も国立戒壇も個人の主観の域を出ず、実際問題として客観的には広宣流布も戒壇建立もまだ見えてこないというのが真実に近いだろう。つまり、顕正会の言っていることは主観であり、より刺激的な言葉を使えば、妄想ないし幻想ということになるのだ。
大師子吼
浅井先生の発言をご覧のように表現するのはダメだろう。
「最後の大不思議」への大確信
大を付けるのが好きな人たちである。ちなみにここでの不思議の意味は広宣流布のことである。今まで不思議なことが三つあって、これを先例として最後の不思議も間違いないと確信しているわけなのだ。勝手にすればいいだろう。
もう一人の副総合に注目である。
されば、二〇年代の決戦場到達まで、残る法戦はあとわずか・・・
本年初頭からずっと注目し続けているフレーズである。半年経ってほぼ消滅したと思いきや、まだ使っている幹部がいるのが驚きである。引き続き注目したい。
第二十五婦人部長も大師子吼が好きである。彼女の登壇には他にも注目すべき文言があるので紹介しておこう。
先生こそ、大聖人様が国立戒壇建立の「願主」として遣わされたお方・・・
何を言っておるものかと思う。
本ご講演は、顕正会員に対してと共に、まさに宗門全僧俗に対する先生の「最後に申すべき事」であることにハッとし・・・
なるほど、である。「最後に申すべき事」を書いてから十年以上も経って、今さら何をウダウダ言っているのかと思ったが、上掲はそれに対するなかなかうまい回答である。とは言え、今後も言い続けるのだろう。顕正会の存在意義はそこにしかないからである。結局、最後最後と言いながら、それを何回も繰り返してきたのが顕正会なのである。
ただ、もう少しだけ深読みすると、顕正会員に対してと共に云々がイミシンであって、もしかしたらこれが顕正会員に対しても最後となるのかもしれないのだ。浅井先生は御遺命守護の歴史を繰り返し語ってきた。いわば今回はその最新版に相当するわけだが、これが最終版になるかもしれないのである。
あれまあ、次のページを見たら婦人部第八総部長も大師子吼と言っちゃっている。
第四十四女子部長の発言では次が注目である。
正系門家の歴史的転換の背景となる大折伏を・・・
なぜ今なのか、である。ようするに平成十年の出来事を不思議の還御と顕正会では呼んでいるわけであり、まさにあの年こそが歴史的転換点となるべきはずだったのだ。そのように考えると、なぜに今がそれに匹敵ないし凌駕する時なのかが不明であり、しょせんは行き当たりばったりに過ぎないのではないか思わざるを得ないところなのである。
ところで男子部第五総部長の記事に目を転ずると、先の副総合婦人部長と同趣旨のフレーズが出てくる。
明年の決戦場を見据えた大陣容・・・
明年の決戦場を見据えた様変わりの大前進・・・
これはある意味で浅井先生にプレッシャーを掛けていることになるだろう。明年、もし何もしなければ、いったい決戦場とは何なのか、ということになりかねない。ようは有名無実ということだ。
断末魔の悪書を再発刊した宗門・・・
それにしても凄いことを言う人である。教学委員の中でも武闘派として住職たちに恐れられているだけのことはあると思った。
第四十四女子部長の発言はやや疑問である。
すべて勝ってこられた先生・・・
何をもって勝利とするか、そこが問題である。負けるが勝ち、という言葉もある。わたくしの思うに、例えばスポーツの世界であれば数字であらわすことができるので、そこから勝った負けたを判断することが可能である。しかし、世の中の大半のことはむしろ数字ではあらわせない混沌としたものなので、そこで勝利を云々してもしょせんは個人の主観に過ぎないだろう。
そうすると最終的には顕正会の主張する広宣流布も国立戒壇も個人の主観の域を出ず、実際問題として客観的には広宣流布も戒壇建立もまだ見えてこないというのが真実に近いだろう。つまり、顕正会の言っていることは主観であり、より刺激的な言葉を使えば、妄想ないし幻想ということになるのだ。
2019/6/15 22:06
投稿者:沖浦克治
2019/6/15 13:37
投稿者:名無し
2019/6/15 13:36
投稿者:名無し
>つまり、顕正会の言っていることは主観であり、より刺激的な言葉を使えば、妄想ないし幻想ということになるのだ。
主観である事は論を待ちません。
そもそもが、宗教って始まりは主観です。
戒壇本尊本懐も主観ですし、法主の血脈も主観です。
私共の創価思想も主観ですし、大聖人仏法も主観から始まっています。
要は、そのそれぞれの主観を行者が真理だと行動を以て証明出来るかどうかなんです。