2019/7/12

テンスウ  
まず、前回の拙稿を修正したので、そのことを報告しておく。具体的には引用文を太字にするのを忘れていた。それを太字にした。ただそれだけのことである。逆に言うと、そのために修正前の痕跡がまったく確認できない。拙ブログでは己のミスをすべて可視化しているので、こうしてわざわざ説明を加えさせていただいた次第である。

さて、同一人物から再びコメントを頂戴した。

2019/7/11 18:36
投稿者:めぐちゃん
先日、北東北大会ビデオ放映に北坂戸に行った時の事です。
真後ろの席の男性が『俺よ入信勤行4回した』等と話してるのです。述べ人数5人の入信に成ります!そんな実態直に聞いてしまいました。


https://white.ap.teacup.com/ganko/322.html#comment46618

貴重なコメントではあるものの、相変わらず判然としない部分がある。ようするに四回がなぜに五人云々になるのか、そこが不明なのである。わたくしの推測は前回記したごとくであるが、可能ならば証言者からの補足説明がほしいところだ。

次に沖浦氏について書くと、いずれは教学委員が来訪するだろう。ただ当面は来ないと考えられる。なぜならば今は宗門僧侶を駆除する活動がメインとなっているからだ。そちらのほうが片付いてからの話である。永遠に片付かないかもしれないが・・・

謗法に付いての考えを付記したいと思います。お釈迦様の時代に謗法の概念自体無かったと考えています。後世の教団都合で出来た任意法と考えます。自然法とは、お釈迦様が三宝印で、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静と説かれ、2番目の意味は諸々の法は我が無い。えこひいきしないと言うものです。エゴの影が有る所に謗法の概念は成り立つでしょう。似た例は幾つも有りますが。自然災害は、当てはまらないと思います。罰では無いからです。

部外者氏は法華経を非仏説とする立場なのかもしれない。だとするとこれ以上の議論は不毛かもしれないが、大聖人の仏法では苦空無常無我ではなく常楽我浄を説く。ここでの我とは仏の御心であって、仏の御心はよき心なるゆえに云々と大聖人は仰せられていることからわかるように、我=エゴではない。つまり、我=エゴだとすると、部外者氏のご指摘通り、まさしく我=謗法ということになる。今の末法濁悪の世相を見れば、まったくおっしゃる通りであり、そうした我を捨てることが優れた境地への直道なのだろう。しかし、それは次善手であって最善手ではない。すでに明らかなごとく、一人ひとりが仏の境地を体現することによって、我=エゴからの脱却が可能となるのだ。それこそが最高の理想であることは疑い得ないだろう。

部外者氏からは引き続き多岐にわたるコメントを頂戴しているのだが、ここでは略させていただくことにしよう。

 当時の学会は、今の政権の犬となり果てた体たらくとは全く違う、戦時中の軍部のごとく驕り高ぶり飛ぶ鳥を落とす勢い・・・

教学部長の発言である。どのような文脈で言っているかは度外視しよう。すると上掲はじゃっかん不正確なところがなきにしもあらずと思う。

ようするに宗門内で驕り高ぶっていたのであって、外部においては少し弱腰だったフシもあるわけである。

御遺命守護の歴史を学んだ顕正会員ならばよく知っているだろう。国立戒壇についての政府照会に対する創価学会の回答をである。
もう一つの事例は言論出版妨害事件での対応である。この時、事態の収拾を図るために、自民党の田中幹事長に泣きついた。これなど、何たるテイタラクかと思う。
つまり、当時から権力にすり寄ろうとする動きを見せていたわけであり、今に始まった話ではないのである。

もちろん本心では自分たちが天下を取りたいという野望がある。しかし、現実的にはかなりハードルの高い話なので、今のポジションに甘んじているのだろう。いずれにしても当時から与党の有力者と裏でつながっていたのだから、上掲の認識はやや不正確と言わざるを得ないだろう。

宗門のあがきに鉄槌

このタイトルで登壇しているのは副教学部長の藤村雄大氏である。もちろん鉄槌は譬喩表現であって、まさかカナヅチで叩いたりはしないと思うが、それにしても顕正会では好んで多用される表現のようである。

阿部日顕直属の謀略部隊「妙観講」が点数稼ぎのために蠢き出し・・・

それにしてもこの部分が解せない。御隠尊の直属とは何を根拠に言っているのか、それが問題である。点数稼ぎにしても同様で、具体的にはどのようなメリットがあるのか、それが不明である。そもそも点数稼ぎになっているのかどうか、それすらアヤシイところだ。

ようするに点数を稼ぐためであれば御当代の指示を仰ぐべきであり、その線で活動すべきが道理なのである。それとも御当代は傀儡であって、実質的な権力はすべて御隠尊が掌握しているとでも思っているのだろうか?

・・・妙観講員たちはこの文証を知らなかったようで、急に慌て出しました。

煩瑣になるので省略したが、ようするに昭和四十年代前半の宗門高僧の発言の数々には御遺命違背に相当するであろうものがたくさん含まれている。それを突き付けられて慌て出したという話である。

ここがひじょうに解せないところで、わざわざ顕正会の会館まで来て法論を吹っ掛けている人たちが、なぜにそうした史資料に不案内なのかがまるで理解できない。顕正会同様、妙観講員もその多くが不勉強なのだろうか?

思うに、これは宗門中枢の責任でもあるだろう。

自分たちの過失について、オブラートに包んで説明しているからいけないのだ。もっとハッキリと言ってしまえばいいのだ。ここで雑駁ながら提案させていただくと、昭和四十年代前半のこれとこれは間違い、これとこれは不適切、みたいな感じである。四十年代後半においても創価学会を慮っての発言がなきにしもあらずであり、それも具体的に挙げておくべきかもしれない。さらにそれ以降、今日までの発言の中にも問題があるとすれば、挙げておくべきだろう。

何を言っているかわからないといけないので重ねて言おう。

後年、創価学会を破門にした。正本堂も取り壊した。この点、細かい経緯は省いて、結果的には妙信講が言っていたことが正しかったという話にはならないのだろうか、ということなのである。

この点をハッキリと認めてしまえばいいのである。

その上で、その妙信講も今ではおかしくなってしまったという厳然たる事実があるわけだから、今度はそこを逆にハッキリさせればいいのである。ここで顕正会員が逆上し、浅井無謬論を振りかざすような挙に出れば、それが一つの答えとなるのだ。ああ、やっぱりね、顕正会も昔はマトモだったけど、今ではこのテイタラクなんだ、もはや浅井教だよね、というふうに片付けることができる。

ともかく顕正会員にしても妙観講員にしても、現場で戦っている人たちの多くはヘタをすれば生まれてもいなかった時代の話をしているのである。今は当時の関係者がまだ少数ながらも存在する。しかし、そのうちに誰もいなくなる。かく言うわたくし自身、当時をリアルタイムで経験しているわけではない。ただ、そのわたくしから見ても、ほぼほぼ結論は出ているのである。それを立場の違いから自分たちの主張を押し付け合っている。これではいつまでも解決しないだろう。解決の道筋はすでに書いた通りである。差し当たっては宗門側の対応が注目されるところで、単に顕正会側の過去の発言をあげつらって、ようは自語相違を責めるような手法を繰り返しても埒が明かない。このことは宗門側の論客もすでにわかっているはずなのだ。

話が長くなった。副教学部長の記事には他にも興味深い部分があるけれども、これで終わりにしよう。

それにしてもまた顕正新聞が溜まり始めた。ヘンな話、拙ブログは永遠にネタが尽きない。顕正新聞が続く限り、拙ブログも続く。もちろんわたくしが生きている限りのことだ。

2019/7/12  13:30

投稿者:部外者ですが
厳虎さん、コメントありがとうございます。昨日のテレビで郵便局員の保険料の二重取り問題が露呈しました。苛烈なノルマ有る所に、不正が行われると言う事でした。さて、お釈迦様の言葉を月刊一個人2014年8月号より書いてみます。※今であれ、私の死後であれ、君自身を、暗闇を照らす灯とし、自らを拠り所として他を拠り所とせずにいるように。自然法則を灯とし自然法則を拠り所として他を拠り所とせずにいる者は、私の最良の弟子ということになるでしょう。※アーナンダよ、私には「弟子たちを支配しよう」とか「弟子たちに依存されたい」という、欲望はないのですよ。だから、死にゆく私にすがり依存するのは、おやめなさい。※「無限の安らかさ」と「うるさい生存」を比べて、私は生存の力を捨てた。内面において満ち足りて心を静かにし、鎧のように固い「我」の牢獄を打ち破った。*この三つを書いておきますが、お釈迦様は自然法則を説かれていた事が解ります。

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