2019/12/20

ケイモウ  
どなたか知らないが、動画のリンクを紹介している。開いてみると、けっこう長い動画だった。とりあえず通して視聴した。還暦前後と思しき男性が独演している動画である。興味深い人物だと思った。よって、いずれ感想のようなことを書くかもしれない。この人物も沖浦氏に負けないくらい独自性の強い教学を打ち出している。

さて、その沖浦氏である。

氏はこのところ多忙だったらしく、拙ブログへの投稿も相当に少なかった。しかし、理由は別にもあって、どうやらパソコンの調子が悪くて投稿に難儀していたらしいのだ。最近、七十四歳の誕生日プレゼントに新しいパソコンを買ってもらったそうである。ならば今後はかつてのような旺盛なるコメント投稿が行なわれるのかもしれない。

 日興さんの門流は伝統的に御書の理解がありません。
 戒壇で義となるものは全ての伽藍ですし、私どもの仏壇も同じです。
 では、事の戒壇とは何か?


ひじょうに面白い文章である。言っていることがすべて正反対なのだ。この点、法華講員への啓蒙の意味でも、好都合の題材と言えるだろう。

 書いてありますね、宝塔の住処!!!
 戒壇です。


この間に阿仏房御書の引用があるけれども、煩瑣になるので省略させていただいた。

 仏法の基本中の基本ですが、戒壇に事も義もありません。
 私共が唱題し戦う所が全て戒壇です。


引用が前後して恐縮だが、同じく沖浦氏のコメントである。

基本がわかっておらない、もしくはわかっていながら逆のことを言っている、それが沖浦氏の所論である。ようするに氏の言いたいことは、戒壇に事も義もない、強いて言うなら伽藍が義であって信仰者の所在が事なのである、というような感じになるだろう。まさに逆さまである。

ここからは法華講員への啓蒙である。

・・・戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。

・・・本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。


大聖人の御遺命である。ここに明確なごとく、沖浦氏の伽藍を義とする考え方は大聖人の仰せとは真逆なのである。将来、建立される本門寺の戒壇こそが事なのであって、それを義とすることは道理に反する。まさか阿仏房御書が大聖人の御遺命を打ち消すようなバカな話はあり得ないだろう。沖浦氏の完全なる誤読である。

一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。

これで無知蒙昧な法華講員も理解できるはずである。本門寺の戒壇に安置せられる御本尊、それが弘安二年の大御本尊すなわち本門戒壇の大御本尊である。ゆえに時至らざる今現在、本門寺の戒壇は存在しないけれども、戒壇の大御本尊まします処は義理において事の戒壇に相当する。平たく言うと、戒壇はまだ建っていないけれども戒壇の意義が存する、というような感じになるだろう。

さて、大沢氏はなおも歴代上人の御指南に拘泥するかのごとくである。

これについては上述の、沖浦氏への破折ないし法華講員への啓蒙、ここに尽きるのであってこれ以上の贅言は避けたい。この際、乱暴なことを言わせてもらうと、歴代上人も間違いを犯す、ただそれだけの話である。いや、実際にはそれぞれの御指南について前後を含めてよく拝さないことには何とも言えないところであって、今は暫定的に上人も間違いを犯すと申し上げているに過ぎないことをお断わりしておこう。

さらに浅井先生の過去の発言について触れておくと、例えば池田会長への破折書において日達上人の法体に約しての事の戒壇の定義を肯定する文言が残っている。これを法華講員たちが得意になって取り上げる。さて、どのように理解すべきか、という問題がある。

模範的な顕正会員であれば、当時は日達上人の御徳に傷がつかないように配慮しつつ池田会長を破折していたのであのような形になった、今はその足枷が取れたので上人の間違いをも含めて正義を述べているのだ、というような感じになるのかもしれない。

今度はわたくしの番である。足枷という意味ではわたくしがいちばん自由であるから、言いたいことが言える。

ようするに浅井先生も未熟だった。ただそれだけの話である。

おそらくは平成二年の諫暁書あたりが最高の到達点だったのだと思う。その意味では前にも後にも問題が存する。前においては未熟だった。後においては行き過ぎちゃった。何しろ御高徳の上人たちを呼び捨てにしちゃっているのだから、どうしようもないのである。

わたくしは宗門の戒壇論をデタラメ呼ばわりしているものの、日達上人と日顕上人に対して呼び捨てにすることもなければ、ましてや御相承の断絶などという取り返しのつかない発言をすることもない。この点は今後も一貫不変のつもりである。

大沢氏にとっては不満の残るところかもしれないが、何しろ顕正新聞の話題もやらないといけないので、とりあえず次回以降はそのつもりでお願いしたい。

2019/12/25  7:53

投稿者:沖浦克治
 池田先生のご指導から。

 『真剣な祈りは、必然的に、行動を伴う。行動しない祈りは遊びである』

2019/12/25  6:55

投稿者:沖浦克治
ガンコさん、、
おはようございます🎵
昨日は大きな功徳を出しました。
世界初のワックス滑走面の板が、二台売れました‼️

歴史に残る出来事です。

仏陀ハンドの能力が最近凄く強くなりました。
折伏したからです。

功徳ってどんどん出て来ます🎵

2019/12/24  7:57

投稿者:沖浦克治
ガンコさん、、
おはようございます🎵
現在の創価の教義は大きく変わるでしょう。
数年で変わると思います。

大聖人本仏は無くなって、本師のような位置付けとなるでしょう。
SGIには大聖人本仏はありませんし、日興さんもありません。

世界宗教への王道を創価は進んでおります。
良い時代になりました。

破門を勝ち取られた池田先生の凄さを思います‼️

2019/12/23  7:45

投稿者:沖浦克治
 嚴虎さん、おはようございます。

 自分が駄目だと思う人は、自身が南無妙法蓮華経の当体と信じることが出来ない人です。
 御書には明確にそのままの自分南無妙法蓮華経如来だとあります。

 『第二量の字の事
 御義口伝に云く量の字を本門に配当する事は量とは権摂の義なり、本門の心は無作三身を談ず此の無作三身とは仏の上ばかりにて之を云わず、森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意なり、是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり云云。』
 (御義口伝巻下)

 これを疑わずに信じることが、最も大事だと思います。
 自分自身が駄目だと思う事は、南無妙法蓮華経如来が駄目だと決めることです。
 謗法なんですね。

 来年は自身が南無妙法蓮華経如来だと更に強く決めて生きて行きます。

2019/12/20  19:34

投稿者:沖浦克治
 嚴虎さん、今晩は。

 戒壇に関して大きな誤解があるようですので、少し整理して説明致します。
 先ず御書には以下の文がございます。

 『戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王帝釈等も来下して・給うべき戒壇なり、此の戒法立ちて後延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に』
 (三大秘法禀承事)

 この戒壇は伽藍の事を示しています。
 最後に延暦寺が出てきますから理解できます。
 
 戒壇には2種類あるのです。
 シンボルとしての伽藍と、法華経である衆生の命を持つ肉体です。
 この身体を宝器と言います。
 南無妙法蓮華経を持つ入れ物です。

 この入れ物が戒壇で、殊更、事と義に分けるなら、宝器である身体が事、私共の命を写し取った曼荼羅本尊安置の場所が義。
 こうなります。

 曼荼羅本尊はいわゆる戒壇本尊(そう言う物は日蓮仏法にはありませんが)含めて仏の当体ではありません。
 象ったものですね。
 仏像と言います。

 『是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る、正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。』
 (如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

 大聖人のご本尊は仏像ですから、仏を象ったもので仏そのものではありません。
 仏の本体は私どもの命です。
 これも御書にあります。

 『我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、』
 (法華初心成仏抄)

 この通りです。
 日蓮正宗の誤りは、この仏の当体ではない曼荼羅本尊である、戒壇本尊を仏そのものとしてしまった事です。
 
 ここが一凶です。
 ここから抜け出さない限り、日蓮正宗は仏法ですらありません。


 『

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