2020/1/9

アシザマ  
沖浦氏から反論が寄せられた。仏像について、辞典にはこれこれこのように書かれており、大聖人もそのように認識されていた、違うと言うなら反証しろ、というような感じである。

おそらく沖浦氏は開眼のことを度外視しているのだろう。単純に言えば、開眼された仏像は本物の仏と異ならない、ということなのだ。これを現代人がどのように考えるかは別問題で、大聖人の時代においてはそれが常識だったのだ。

また、少し余談になるものの、御書には中国という表記がわりとたくさん出てくる。現代人にとって中国はチャイナのことであり、他の用法はほとんど存在しないはずである。ところが大聖人の仰せられる中国は意味が違うのである。つまり、現代人が現代感覚だけで御書を読んでいると間違うことになる。この点、沖浦氏は認識を改めるべきである。

さて、今日も顕正新聞の続きを見て行こう。

大師子吼

副総男子部長である。いつまで言い続けるつもりだろうか?

平成二十六年の元旦勤行において先生が「国難元年」と銘打たれてより間もなく六年。

第二十七女子部長(九州)はなかなか鋭い。わたくし自身、この顕正会式年号については注目し続けていたものの、ウッカリ失念していた。さて、本年は国難六年? いや、七年? いよいよわけがわからなくなってきた。

先生が東北の地に赴かれるのは本当にこれが最後では・・・

婦人部片瀬支区部長(神奈川)の発言である。これが最後というフレーズは先生の年齢的限界を意味するのだろう。不謹慎なようだが、それが事実である。

 経済的な理由で火葬のみとなりましたが、臨終より一週間も経っているにもかかわらず綺麗な遺体・・・

婦人部多摩支区総班長(首都圏)の記事には、組長の娘さんが透析中に亡くなったことが書かれている。火葬のみ云々は経済的理由とわかるが、一週間云々の理由がわからない。あるいは透析中に亡くなったことが、いわゆる医療事故に相当するのかもしれない。その場合、司法解剖のようなことが行なわれるので、火葬までに時間を要したのかもしれない。

この記事ではもう一人、八十四歳の人の臨終について書かれている。しかし、どうやら家族は誰も入信しておらず、総班長は後になってから亡くなったことを知ったらしい。当然、顕正会で葬儀を挙げたわけではないのだろう。にもかかわらず良き臨終と書いている。そこが釈然としないところである。

ともかく臨終の話題が多い。上掲は六面の記事だが、七面には三本の体験発表が掲載されており、いずれも母親の臨終について書いている。

一方では幹部たちが、日達上人や日顕上人の臨終について悪し様に書いている。まったく困った人たちだ。

2020/1/12  12:28

投稿者:名無し
>おそらく沖浦氏は開眼のことを度外視しているのだろう。

法主絶対論から産まれた見苦しい御都合主義な開眼に執着していあたり、ツマラナイブログ主に信心がないのかよく解るww

開眼を用いて宗門の正当性を主張することで法の本尊、御本尊様を物扱いして不敬を働いていることに徳の無い僧侶も法華講の馬鹿キチガイは気づいていない。
日蓮大聖人=歴代上人<現法主とご都合主義な権威付けされた法主絶対論は歴代上人への冒涜、人本尊日蓮大聖人への不敬でしかないことも解っていない。
法主の開眼で異流儀を非難しているが、やっていることは著作権や商標登録でパクリ業者を相手取って訴訟を起こしているのと同じである。だから物扱いして不敬を働いている言うのだ。
日如上人に至っては、過去の夏期講習で開眼で異流儀破折説明の付け足しで、日蓮宗の御真筆御本尊は謗法だからさらに開眼が必要というような誤解を招くような支離滅裂ことを言っている。だから御都合主義と揶揄するのである。
日蓮大聖人=歴代上人<現法主の方程式を振りかざした法主絶対論の根拠はなんなのか説明してほしいものだ。
説明はせず権威で脅すことしかできないから徳の無い僧侶と馬鹿にするのだ。
これを誰も説明できるはずもない。これは説明するものではなく示す表す実証するものだからである。
日蓮大聖人=歴代上人<現法主というのであれば、主師親の三徳が日蓮大聖人様と同等の徳に溢れたお振舞い、御説法、絶大威力を現法主が実証しなければならない。
我々法華講もこんな不敬で御都合主義な開眼で自己正当化するのではなく、しっかり信心して功徳や体験を積み広宣流布に役立つ立派な仏弟子になって異流儀よりも優れている事を実証していくしかないのだ。

2020/1/10  6:40

投稿者:沖浦克治
ガンコさん、おはようございます🎵

昨年11月18日、創価学会創立記念日に私の紹介で入会した若者が、この度副所長に昇進し、給料も大幅に増えました。

功徳〜‼️‼️

2020/1/9  21:32

投稿者:沖浦克治
 嚴虎さん、今晩は。

>おそらく沖浦氏は開眼のことを度外視しているのだろう。単純に言えば、開眼された仏像は本物の仏と異ならない、ということなのだ。

 そういう思想は大聖人に関しては自身ご図顕のご本尊にはございません。

 『此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。』
 (日女御前御返事)

 書いてあるでしょう。
 ご本尊輪円具足だと。
 輪円具足とは全てが備わっていて欠けた所がない状態です。

 開眼がないならダメ。

 これは輪円具足ではありません。
 開眼など、大聖人のご本尊には必要ありません。

 少し御書お読みなさいませ。

これを現代人がどのように考えるかは別問題で、大聖人の時代においてはそれが常識だったのだ。

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