2020/1/23

ライデン  
文証を示すべきは沖浦氏のほうだろう。

大聖人は抜け殻になる・・・

ようは開眼を行なうとその一回きりで抜け殻になってしまうという文証である。だとすると直近の半世紀ないし一世紀の間に下付された日蓮正宗の御本尊はおよそ一千万を数えるが、猊下一人に付き一幅しか開眼されていないことになる。日達上人以降であれば開眼済みの御本尊は三幅しか存在しないことになるだろう。もっとも沖浦氏は開眼そのものを否定しているので、そこで議論はネジ曲がってしまっているわけだが・・・

raiden氏は久々の来臨である。長々と書いておられるが、文末だけ紹介しておこう。

浅井会長の僧侶軽視の姿勢が判明しているので、賛同して駆けつける僧侶はいないでしょう。

この点、顕正会の活動会員はあまり自覚がないのだと思う。ようするに浅井先生は偉くなり過ぎてしまったのだ。その様子はあたかも新興宗教の教祖のごとくである。しかも御相承についてイチャモンをつけてしまった。もはやこうなると、猊下を取るか浅井先生を取るかの選択になる。すでにしてこのこと自体がおかしな話であって、まさに別の宗教・別の教団になってしまったのと同じことなのだ。ゆえに正宗の僧侶で顕正会を支持することは、いわば宗旨替えをするようなことになるので、そこまでして顕正会を支持する積極的な理由は、普通には見い出せない。

前回と重複するが、正信会系の僧侶は話が違う。彼らはジリ貧状態であり、そこから脱出するためには思い切った行動を取る必要がある。その一つの動きが顕正会への接近なのだろう。

故光安日康御尊能化(妙縁寺住職)は松本日仁御尊能化の只一人のお弟子さん。

これは光安ではなく、光久であろう。

そこで拙ブログを検索してみたところ、出てきた。長くブログをやっていると書いているわたくし自身もすっかり忘れてしまっているわけだが、ありがたいことに検索を掛けるとそれが出てくるのである。ブログは備忘録として優れたツールなのだ。

https://white.ap.teacup.com/ganko/896.html

当時、光久の乱と呼ばれることがあった。ただそれは大袈裟な表現であって、敵対勢力が針小棒大に騒いでいただけの話である。浅井先生もそれに乗っかって発言していたわけである。

さて、顕正新聞の続きである。

本年九月に国立戒壇否定の執念が最も深かった阿部日顕が命終するや、ただちにこの十一月、有羞の僧が出現・・・

副総男子部長の筆頭格がご覧のように言っている。しかし、これはかなりトンチンカンな論理である。

説明するまでもないが、ようするに日顕上人という重しが取れて正宗僧侶の中から次々に顕正会支持を表明する僧侶が出れば彼の言っている通りである。ところが現実はそうではなく、正信会系の僧侶が顕正会支持を表明したに過ぎないのである。なぜに正信会系の人たちが日顕上人の御遷化を待つ必要があるのだろうか?

決戦場×5

顕正新聞には同じフレーズが頻出する。ゆえに読者がウンザリする。おそらく紙面ぜんぶを数えたら卒倒するだろう。ここでは男子部第五総部長(首都圏)の記事を数えてみた。彼は一回の登壇で五回も決戦場と言っている。大事なフレーズだから繰り返し言うのだろう。それにしてもどうかと思う。

わずか一年余りで一変してしまった日本を取り巻く客観情勢・・・

これは男子部第十総部長(首都圏)である。わたくしの感覚が鈍いのか、ここ一年で何がどのように変化したのか、あまり実感が持てずにいる。おそらくは多くの人が同様だろう。ようは顕正会員たちが特殊なのである。

いま、御付嘱状の全責務を一身に担われ立たれる先生のお立場の重大さに・・・

第十八男子部長(首都圏)も凄いことを言うものである。まさにこれなのだ。先ほど、猊下を取るか浅井先生を取るか、というような話を書いたわけだが、こんなテイタラクでは顕正会の宗門復帰は絶対にあり得ないだろう。

よく考えるべきである。御当代日如上人がいらっしゃるにもかかわらず、こんなことを言っているわけである。つまりは血脈相承を否定しているのだ。

以下は単なる机上の空論である。

近く日目上人が御出現になる。顕正会ではそのように言っている。このこと自体はさほど問題ではない。問題はその先にある。日目上人が御出現になられたとしよう。現状では浅井先生よりも年少である可能性が高い。すると顕正会員たちは思うのだ。日目上人よりも浅井先生のほうが偉いと。

浅井先生は偉くなり過ぎちゃった。年齢的にも逆戻りはできない。もうどうにもならないのだ。

2020/1/25  15:14

投稿者:通行人
いわゆる本門戒壇の大御本尊の背景

https://www.youtube.com/watch?v=qD5vECWwrtE

2020/1/23  22:54

投稿者:raiden
嚴虎様

こんばんは。
誤字脱字が多くてすみません。

ご指摘と修正ありがとうございました。

2020/1/23  20:16

投稿者:沖浦克治
 嚴虎さん、今晩は。

 開眼は曼荼羅には不要ですね。
 大聖人のご本尊には特別な開眼は必要ありません。
 衆生が拝む事自体で力用が生じます。

 『日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、』
 (報恩抄)

 ご本尊を拝むことによって、私共の盲目が開き、自身が久遠からの仏であることを自覚するのです。
 これが開眼と言うなら開眼ですが、あくまでも衆生の側に起こることです。
 法華経と御書には、一切衆生が等しく久遠からの仏であることが説かれています。
 これを信じることが、法華経を信じる事です。

 『此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。』
 (御義口伝巻下)

 何時までも曼荼羅原理主義者は良くないですね。

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