2020/1/30

アクイ  
まず、沖浦氏の最新のコメントについて言いたい。登場人物が複雑でわけがわからんと。誰のために何の目的で書いているのか、そこが明確でないものだから余計にわかりづらいのだろう。

その一つ前のコメントはわかりやすい。

 ネールが言いました。
 
 仏教が衰退したのは、釈迦を聖人としたからだ。


ネールが誰だか知らないが、言いたいことはわかる。

 私共は大聖人を聖人化する愚は避けねばなりません。
 ご理解できますか?


これも言いたいことはわかる。しかし、すでに大聖人と書いている時点で自己矛盾である。もし聖人化を避けたいのであれば、大聖人との呼称を徹底的に排除すべきだろう。ただし、前回も指摘したように創価学会の公式サイトでは大聖人の呼称を用いているので、この時点で沖浦氏は異端者となる。

 二〇年代こそまさしく広宣流布の決戦場である。
 早く三百万を成し遂げ、全員で、大聖人様の御馬前に馳せ参じ、大事な御奉公を貫かせて頂こう。
 さあ、いよいよ決戦場を見つめ、歓喜の大行進を起こそうではないか。


さて、顕正新聞の新春号を見て行こう。上掲は前回も紹介した浅井先生の年頭の辞である。大事なところなので改めて掲げさせていただいた。

ようするに本年からの十年間を二十年代と呼ぶわけで、この間に三百万を達成して大聖人の御馬前に馳せ参じ、そこで広宣流布の最終決戦に挑むと言っているのだ。これをわたくしは、何たる欺瞞・何たるインチキ、と書いた。

その理由は二面に載る各部代表の年頭決意を読んでもわかることである。もっともわかりやすいのは総合婦人部長である。

 広布の決戦場たる二〇年代をここに迎え・・・

まず、この冒頭の部分は間違ってはいない。大きな括りとしては、まさにその通りだからである。問題は次である。

 昨年、顕正会総会員数は二百十三万七千名に達し、この仏弟子の大集団を率いて大聖人様の御馬前に馳せ参ずる先生のお喜びに胸が熱くなり、

いかがだろうか、浅井先生の言っていることと違っているのだ。総合婦人部長も焼きが回ったのか、それとも正直な人なのか、そこはわからないものの違いは明瞭である。先生は三百万で御馬前と言っているのだ。ところが彼女は現在の総会員数で御馬前と言っている。

しかも続きの文章が決定的である。

一時も休まぬ激闘の中に到達された決戦場に・・・

すでに今現在が決戦場だと言っているのである。前回も指摘したように、先生は三百万で決戦場と言っており、いちおう二十年代中に三百万を達成すればツジツマが合う話ではあるのだ。しかし、総合婦人部長の発言が示すように、活動会員たちの多くは本年から最終決戦が始まると思ってしまっているのだ。つまり、先生と活動会員の意識に齟齬がある。こんな状態がいつまでも続くわけがない。活動会員たちの中から、話が違うじゃないか、という不満が生じてきてもおかしくはない。

実はもうすでにかなり以前から、それを繰り返しているのである。目まぐるしい人事を見ればわかるように、幹部クラスの人たちが次々に離脱していく現実がある。結局はその繰り返しなのだ。

もしかしたら二十年代は離脱者激増に拍車が掛かり、顕正会が一気に崩壊することになるのかもしれない。

ところがである。話はかなりややこしくなる。

 全顕正会員の真心の折伏弘通により、総会員数はついに二百十三万七千に達した。この仏弟子の大集団が一結して、いよいよ広布の決戦場に臨み、大聖人様の御馬前に馳せ参ずるのだと思えば、ただ有難さが込み上げてまいります。

三面から五面にかけて十二月度総幹部会の会長講演が掲載されている。上掲はその一節である。つまり、総合婦人部長はこれを踏襲しただけの話なのである。その意味では彼女に罪はないことになる。では、どこに問題が存するのだろうか?

 さあ、早く三百万を成し遂げ、全員で大聖人様の御馬前に馳せ参じ、何としても大事な御奉公を貫かせて頂こうではありませんか。

会長講演の結論部分である。つまり、浅井先生が極力矛盾が生じないようにと、巧妙に言葉を選んで発言している。まさにそこが問題なのである。

いよいよ決戦場に臨み・・・

再掲であるが、これも年明け早々に決戦が始まるとは言っていないわけなのだろう。ズルい文章である。すると続く、大聖人様の御馬前に馳せ参ずるのだと思えば云々もしかりである。つまり、年明け早々に御馬前に到着するとは言っていないわけなのだろう。実にインチキな話である。

ともかく繰り返し言わせてもらうと、こんなインチキがいつまでも通用するはずがないのである。ゆえに今後は離脱者の激増が必至となり、組織の衰退が誰の目にもハッキリと見えることになる。それが二十年代である。

さて、あとは会長講演からいくつか気になったところを拾ってみたい。

 ただし、下種仏法の血脈は絶対に断絶しない。その所以は、これまで私が幾たびも述べて来たとおりであります。

以前、血脈は絶対に断絶しない、その理由は時が来たら話します、と言っていた。わたくしの記憶が正しければ、それ以降、その理由とやらを話したことは一度もないはずである。おそらくはうまい説明が思い浮かばないのだろう。

 池田大作は阿部日顕を猊座から引きずり下そうとして、「阿部日顕は相承を受けてない」との暴露を開始した。

わたくしの知る限り、池田氏本人がそのような発言をしたことはない。ゆえに浅井先生の言わんとしていることは、池田氏が謀略情報紙などを使って暴露を始めた、ということなのだろう。

しかし、素朴な疑問がある。なぜに池田氏は自ら暴露を行なわなかったのか、である。

つまり、ここに浅井先生の不見識があらわれているのだ。いくら池田氏であっても御相承のことを知るわけがない。日達上人の御遷化が急であったためにさまざまの憶測を呼んだのは事実である。しかし、会長辞任にまで追い込まれた当時の池田氏がなぜに御相承のことに介入できるのか、浅井先生はそれを説明できていない。しょせんは憶測で物を言っているだけなのである。

 また細井日達は大事の御相承をもなし得ずに急死を遂げ、その臨終の悪相は箝口令も虚しく、今や全宗門周知となった。

文章前半の御相承についてはすでに書いた。後半の悪相云々は顕正会の悪宣伝に過ぎない。全宗門周知について言えば、何やら顕正会では今頃になって日達上人の御遷化にイチャモンをつけている、その内容たるや悪意丸出しであり狂気の沙汰と言わざるを得ない、ということを顕正会の動向を知る宗門関係者が認識しているだけの話である。

その臨終の相は、細井日達と同じく後日、必ずその真相が明らかになるに違いない。

浅井先生にはその自覚がないのかもしれないが、これこそが悪意丸出しなのである。

 「国賓」招待の危うさ

話が飛んで恐縮だが、当該講演ではめずらしく国際情勢について紙数を費やしている。その中で、本年、習近平中国国家主席を国賓として招くことにも言及している。

 これが日本の殃となることは目に見えている。

浅井先生は原発問題以降、いわゆる左翼系の影響を受けているフシがあったけれども、この件に関しては逆である。わたくし個人の意見はここでは控えよう。ともかく殃が気になった。やたらと難しい漢字を使っているが、何か意味があるのだろうか?

おそらくは御書の表記に合わせたのだと推測されるが、ここでは詳細を控えよう。

2020/1/31  14:43

投稿者:沖浦克治
 最近わかったこと。

 何故他人を妬んだり憎むとダメなのか?

 人の身体は心が動かします。
 その心の最も大きな原動力は祈りです。
 生存本能は祈りの根源ですが、心に強く念じることは全て祈りの範疇に収まります。

 大事なことは、祈りは精神的エネルギーを大量に消費します。
 私の仏法の実践者としての56年の経験からわかった事ですが、祈りの量にはそれぞれの人に応じて限界があります。

 その限界の中で、他人を恨んだり憎むことで多くを使ってしまうなら、自己の向上への祈りの量は必然的に少なくなります。
 そういう人は向上心が起こらないのです。

 ですから、他人を恨んだり憎むことが多い人は自己の向上に見放され人生は下降線を辿ります。

 これは損ですね。
 

2020/1/30  20:09

投稿者:沖浦克治
 嚴虎さん、今晩は。

 大聖人との呼称は今後なくなる方向に向かうと思いますが、私は創価人となって58年間この呼称を使っていますので、今更変更したくございません。
 ご理解下さいませ。

 更に、戒壇本尊との呼称も、戒壇とは無縁のものに対しておかしいといえばおかしいのですが、これも今更変えるつもりはありません。
 例えば現在の創価学会の布教は折伏ではなく摂受になっていますが、相変わらず折伏の名称を使っています。

 呼び名はなんであれ、実態はそういうことですのでご賢察下さいませ。

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