2020/3/25

ネジケタ  
沖浦氏はありがたい存在である。拙ブログは独白を看板にしているものの、けっこう議論っぽいことも書いている。それが可能なのは問題提起をする人がいるからである。

末法は折伏に限ると言う思想は大聖人にありません。

この点は前回の拙稿で述べた通りである。大聖人は折伏の語にそれほど拘泥されていない。ゆえに沖浦氏の主張もあながち間違っているとは言えない。

ただし、あえて二者択一を迫るならば、折伏の側に傾くのではないかと思う。

繰り返しになるが、もちろん沖浦氏の佐渡御書と本尊抄を引用しての説明は、頭ごなしに否定できるものではない。しかし、それにしても法蓮抄の引用はナゾである。

 私見ですたが、折伏は法の正邪浅深を前に出して布教を行い、摂受は法を持った行者の姿を以て法を広めます。
 御書には摂受の姿を以下にお書きです。

 『されば過去未来を知らざらん凡夫は此の経は信じがたし又修行しても何の詮かあるべき是を以て之を思うに現在に眼前の証拠あらんずる人此の経を説かん時は信ずる人もありやせん。』
 (法蓮抄)


私見です(巌虎による訂正)が、と断わっているものの、まさか当該御書を摂受の根拠に用いる人はどこにもいないだろう。

文章は部分も大切であるが、全体の文脈が大事なのである。ゆえに法蓮抄の場合は直前の一節と、かなり後半になるがもう一つの重要な一節を拝する必要がある。

寿量品に我は過去五百塵点劫のそのかみの仏なりと説き給ふ。

そんな大昔のことは信じられない。それが凡夫である。まさにここから沖浦氏の引用部分につながるわけである。もちろん現在に眼前の証拠あらんずる人とは大聖人に他ならない。

当に知るべし、此の国に大聖人有りと。又知んぬべし、彼の聖人を国主信ぜずと云ふ事を。

ここでの大聖人とは文字通り日蓮大聖人のことである。特筆すべきは大聖人が御自らを大聖人と表記されるのは異例中の異例であることだ。

つまり、ここは摂受とか折伏の議論ではなく、いわゆる日蓮本仏論の重要な議論をすべきところなのである。当然ながら日蓮宗系の論者には異論があるはずだが、端折ってしまえば五百塵点劫のそのかみの仏とは久遠元初の御本仏に他ならない。当該御書は婉曲ながらも大聖人御自らが、御自身の立場を御本仏であると宣言せられているのである。

問うて云はく、此の事第一の大事なり。委細に承るべし。答へて云はく、涅槃経に云はく、法華経に云はく云云。

この終わり方もイミシンである。法華経はともかくとして、ここでの涅槃経は何を意味するのだろうか?

法華経第八に云はく「頭破れて七分と作らん」と。

話が込み入っているので説明を大幅に省略させていただくが、最後の一文に至るやり取りの中に出てくる御文である。ここで開目抄に目を転ずると、見えてくるものがあるかもしれない。

此の経は偏に摂受を明かせども、頭破七分といふ。折伏無きに非ず。

これまた部分引用で恐縮だが、開目抄における摂折論はいわば大聖人への批判に対応していることを知るべきである。単純化すれば、折伏は涅槃経に基づく布教方法であり、法華経は摂受である、だから日蓮御房は間違っているのだ、というのが退転者たちの自己正当化の論理なのである。これを打ち破るために大聖人はかなりの紙数を費やしている。上掲はその一端を窺がう意味で好都合だろう。

先ほどの法蓮抄における涅槃経云々は、ややこしい話だが大聖人は基本的には涅槃経を肯定引用される立場であって、法蓮抄以外においても同様なのである。開目抄においては退転者たちが自己正当化のために、法華経は摂受であり涅槃経は折伏である、というようなネジケタ議論を挑んできたので話が複雑になっているだけであって、やはり本質的には同じである。

ここでは引用を控えるが、初期の守護国家論や立正安国論では涅槃経をたくさん引用している。もちろん肯定引用である。

次に法蓮抄に近接する御書として二つ紹介したい。ここでの近接は時間的な意味である。

 問うて曰く、一経二説、何れの義に就いてか此の経を弘通すべき。

曾谷入道殿許御書である。そして次は撰時抄である。

求めて云はく、此の両説は水火なり。いかんが心うべき。

かなり不親切な引用であるとは承知しているつもりである。おそらく勉強家であれば御書を確認するだろうし、もともと御書に精通している人であれば引用意図が手に取るようにわかるはずである。

結論として、大聖人は折伏の語に拘泥されてはいないものの、大まかには折伏志向であられたと考えて差し支えないだろう。

前回の拙稿である。前掲の二つの御書はいずれも布教方法についての御指南であり、あえて言うならば折伏志向の御指南なのである。ただし、折伏の語は使われていない。ようするにウルサイ連中がネジケタ議論を吹っ掛けてくることがわかっているので、それを避けたと考えてもいいかもしれない。

いずれにしてもである。法蓮抄は二つの御書に挟まれる格好になっている。それでいてこれを摂受の文証だとするのはどうかと思うところである。おそらくは沖浦氏の勝手な思いつきに過ぎないのだろう。それが今回の結論である。

2020/3/27  5:22

投稿者:名無し
折伏と摂受を正しく理解せず、感覚や思い込みで論じている馬鹿キチガイが多すぎて笑えるww

>>つまり、摂受だとか折伏という言葉を持ち出したのは退転者たちであって、自分たちの立場を正当化するためにもっともらしい理屈を捏ねたというのが真実である。


下の馬鹿キチガイ元顕への当てつけだろうか??ww

法華講を名乗りながらパチンコや中二病を拗らせた趣味に走り個人ブログで日蓮正宗を貶める馬鹿キチガイ
女にフラれたぐらいで罰だなんだと一喜一憂して『お前が入信すれば俺は幸せになれるんだ』と言わんばかりの見苦しい勧誘活動する馬鹿キチガイ
そんな馬鹿キチガイを囲って数集めに必死なトチ狂った老害さん

日蓮正宗を貶める馬鹿キチガイ元顕は早く消えてほしい
こういう馬鹿キチガイ製造機の顕正会も消えてなくなってほしい。

2020/3/26  15:50

投稿者:沖浦克治
 次に、眼前の証拠あらんずる人ですが、これは大聖人だけを示しておりません。
 要するに功徳の実証を世間に示す人です。

 『強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ、』
 (四条金吾殿御返事)

 この状況を示します。
 当時は御家人が上司を折伏などは不可能です。
 御家人は、代参と言って、神社仏閣に主君に変わって参詣する事も大事な仕事の一つでしたし、代参を任されことはそれだけの信頼を得ている証拠です。

 折伏論から行くなら、代参などは許されません。

 『其の上涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊ぶる者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」と、余善比丘の身為らずと雖も「仏法中怨」の責を遁れんが為に唯大綱を撮つて粗一端を示す。』
 (立正安国論)

 ここで善比丘とあるでしょう。
 出家している人間は折伏なんです。
 対して在家は摂受です。

 『各各は日蓮ほども仏法をば知らせ給わざる上俗なり、所領あり妻子あり所従ありいかにも叶いがたかるべし、只いつわりをろかにてをはせかしと申し候いきこそ候へけれ、なに事につけてかすてまいらせ候べきゆめゆめをろかのぎ候べからず。』
 (三沢抄)

 更に、正反対の御書もあります。

 『当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。』
 (如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

 以上のように、誰が折伏を行じ、摂受をするかはケースバイケースでしょう。

 

2020/3/26  15:46

投稿者:沖浦克治
 嚴虎さん、今日は。

 『此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く「聖人去らん時は七難必ず起る」等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を。』
 (法蓮抄)

 このご文は日蓮本仏論の衣文となりません。
 何故ならば、佐渡御書の冒頭に以下の文がございます。

 『仏法は摂受折伏時によるべし譬えば世間の文武二道の如しされば昔の大聖は時によりて法を行ず雪山童子薩・王子は身を布施とせば法を教へん菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし、破戒無戒を毀り持戒正法を用ん世には諸戒を堅く持べし儒教道教を以て釈教を制止せん日には道安法師慧遠法師法道三蔵等の如く王と論じて命を軽うすべし、釈教の中に小乗大乗権経実経雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は天台大師伝教大師等の如く大小権実顕密を強盛に分別すべし、』
 (佐渡御書)

 『されば昔の大聖は時によりて法を行ず』

 とありますね、これは昔の大聖人の呼称です。

 大聖〜大聖人。

 その後に、雪仙童子を筆頭にして、伝教大師まで色々と名前と行が出てきます。

 ですから、大聖人はご本仏との意ではなく、如説修行の人と捉える事が妥当に思えます。

2020/3/25  20:16

投稿者:名無し
信心の無い教学偏差値の低い顕正会崩れが、思い込みや見栄で偉そうに勘違い発言しているのが哀れでしかたない。

末法は折伏
正法像法は摂受
時をわきまえればいいだけの話

純粋に潔癖に信心し仏道修行に励み広宣流布にお役にたてる仏弟子になろうと精進するだけでいいのだ。
間違った組織信仰に毒されず、逆縁広布と順縁広布があることをわかっていれば、折伏の結果に囚われず自分自身の信心の在り方と姿が大事なのことがわかるはずなのだ。
ちゃんと信心していれば功徳が出る。一生成仏が叶い広宣流布のお役にたてるのだ。

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