2020/5/4

タタキダイ  
沖浦氏の楽譜を譬えに借りての説明は秀逸である。とは言え、それが真実を正確に伝えているかどうかは別の話である。これはいわば議論の叩き台に位置するものなのだろう。

音楽は譜面という形で一種のデータ化ができる。それもかなり早い段階から確立されていた。ゆえに作曲者が亡くなった後も音楽を再現できるのだ。

ではその他の芸術はどうかである。

絵画や彫刻がわかりやすい。これらには譜面のようなものは存在しない。あえて言えばデッサンというような感じかもしれないが、それこそデッサンはデッサンであり、完成品とは異なるのだ。

経文の話に戻って、禅宗はどうかである。彼らもいちおうは経文を読むらしいのだが、もともとは不立文字が建て前である。やや変化球的に言わせてもらえば、沖浦氏の主張はこれに近いのかもしれない。

さらに以前の議論を蒸し返すと、われわれ一般人にとっては音楽であれ絵画であれ本物じゃなくてもそれほど困らないのである。今はネット上で音源が得られる。公式サイトが発信している以外にも海賊版的なものがたくさんある。わたくしはその音楽を聴いて満足している。著作権の問題がクリアできていないだけであって、実質的には本物と変わらないほどの高音質のものがたくさん出回っているのだ。
つまり、曼荼羅御本尊にしてもネット上に出回っている画像から勝手にコピーして自宅で拝むことだってできるし、実際にそのような人もいるらしいのである。たぶん著作権は存在しないだろう。仮に著作権があったとしても自宅で自分だけが拝んでいる分には何の問題もない。
ところがこの話になると、今度は開眼の問題が生じてくる。日蓮正宗の人たちであれば、コピー本尊など言語道断であると言うだろう。今のは個人で勝手に拝む話だったが、この延長線上には創価学会や顕正会で勝手に複製している本尊の問題にも通ずるわけである。

この件についての沖浦氏の見解はわりと単純明快である。ようするに楽譜は音楽を記号化したものであって音楽そのものではない。この考え方を本尊に当てはめればいいのだ。

ゆえに沖浦氏はその曼荼羅が御真筆であろうとコピーであろうと構わないという考え方なのだろう。

さて、今日も顕正新聞の続きである。

総合婦人部長が新境地を見せている。たぶん初出となるのだろうか、大師子吼について今までとは違った使い方をしているのである。

 先生は
(中略)
 と獅子吼されましたが・・・

まず浅井発言については上掲のごとく師子吼としている。

佐渡雪中の
 「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
 の大師子吼を・・・


正しいと思う。

ところがである。隣の副総合婦人部長は次のごとく言うのだ。

 大聖人様の御憤り御悲しみそのままの先生の大師子吼は・・・

大師子吼はやめろと言っているのに、言うことを聞かない人たちである。

第八婦人部長(首都圏)の記事も拾っておく。

寸分も違わず的中した・・・

こんなこと言っちゃっていいのかなあ。彼女は現今の社会情勢を指して、先生の言っていることが寸分も違わずに的中したと言いたいらしいのである。だったら過去の発言の数々はどうなるのかである。いわゆる予言としてはかなり外しているほうだと思う。

総合女子部長も困った人である。

大聖人様の御悲憤そのままの師子吼に・・・

ここは問題ないだろう。もう一ヶ所が問題である。

 との大師子吼に・・・

総合婦人部長は大聖人の仰せを引いて、それに対して大師子吼と表現していた。ところが総合女子部長は浅井先生の発言を引いて、それに対してご覧のように言っているのである。

隣の副総合女子部長も大師子吼と言っている。さらに女子部第十一総部長(南東北)も大師子吼と言っている。いずれも浅井先生の発言を指してである。

ついに一国・世界に「総罰」が現われた今・・・

これは女子部第二総部長の発言である。素朴な疑問であるが、一国はよいとしても世界はどうなのかと思った。確かに日本人で大聖人を知らない人はいない。その意味で日本人が大聖人を信じないのは謗法行為に相当する。よって一国に罰があらわれる。しかし、世界は違うだろう。大聖人の存在そのものを知らないのだから、それでいて罰が当たるとすればこれほどの八つ当たりもないのであって、ようは迷惑この上ない話なのである。

今日はこんなところで終わりにしたい。

2020/5/5  10:54

投稿者:沖浦克治
 名無しさん、今日は。

 他団体は知らず、創価学会には組織至上主義はありません。
 どこまで行っても、創価学会は個々人の集合体です。

2020/5/5  8:31

投稿者:名無し
>結局は、自分自身が根本であり、信心も、組織も、すべて自分のために利用してきたにすぎない。いかに上手に立ち回っていても、やがては、その本性が暴
かれてしまうのが、妙法の厳しさであり、信心の世界です。

個人にも組織にも善悪があり、組織利用して組織を貶める馬鹿キチガイもいれば、悪い組織は、組織に縛り付け奴隷心身を植え付け信徒会員を搾取利用します。
創価、顕正、宗門どこを見ても組織信仰の害毒に犯され変節し御都合主義で独善的排他的な団体に成り下がっています。
組織信仰の害毒に犯された団体が馬鹿キチガイ製造機となって自己顕示欲にまみれ仏弟子とは思えない所業をはたらく馬鹿キチガイを産みだす始末は哀れとしか思えません。
一日も早く組織信仰から離れ、正しい信心に目覚めてくれることを願うばかりです。

2020/5/5  6:41

投稿者:ダイアリー
<退転者の共通項は、全て自分自身が根本>

https://www.ningenkakumei.com/%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA%E5%88%A5/%E9%80%80%E8%BB%A2%E8%80%85/

結局は、自分自身が根本であり、信心も、組織も、すべて自分のために利用してきたにすぎない。いかに上手に立ち回っていても、やがては、その本性が暴
かれてしまうのが、妙法の厳しさであり、信心の世界です。

2020/5/4  21:37

投稿者:沖浦克治
 名無しさん、今晩は。

 日寛さんの書写のご本尊を現在創価学会は採用しています。
 ですが、それは日寛さんが習い損ないである事実とは関係ありません。
 ご本尊はローマ法王が書写しようが、大悪人が書写しようがその力用には変化はありません。
 御書にあります。

 『曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。』
 (日女御前御返事)

 輪円具足とあるでしょう。
 全てが備わって欠けた所がない状態を示します。
 ですから、大聖人ご図顕のご本尊は、書写する人の人格などには左右されません。
 但しここからは私の個人的な意見ですよ。

 創価学会はなるべく早く日寛さん書写のご本尊を止めて、独自に書写してそれを本尊とするべきです。
 仏法上問題ありませんが、習い損ないの書写したご本尊より、創価学会独自の書写がベターに思えます。

 

2020/5/4  20:24

投稿者:名無し
創価ガッカリさんへ

>>以上のように、大聖人仏法では曼荼羅が法華経の当体とか、一大秘法であるとかの思想はございません。それらは、日寛という習い損ないの邪義です。

組織信仰に執着するあまり、権実相対に執着する日蓮宗の邪義に染まり、日寛上人を誹謗する。創価の各家庭で御安置している御形木御本尊様は日寛上人御書写の御本尊様であるのに、この矛盾はいかように理解すればよいのかわかりません。

創価憎しで正本堂は壊したが、学会寄進の末寺には、しがみつく宗門僧侶となんら変わりません。

唯一正しい団体と叫びながら、やっていることは創価の二番煎じで裁判沙汰や見苦しい数集めの勧誘に走り、アホな法華講と見苦しいプロレスを演じる顕正会員と一緒です。

組織信仰の害毒に染まって正しい信心できないとは本当に哀れとしかいいようがありません。

日蓮正宗系の馬鹿キチガイ共が早く間違った組織信仰から離れ、純粋に末法下種の御本仏日蓮大聖人様に信心をおこし正しい仏道修行に励める日が来ることを願うばかりです。
 

2020/5/4  18:33

投稿者:沖浦克治
 名無しさん、今晩は。

 先ず私は創価学会員ですが、がっかりしたことはございません。
 貴方がいくら優れた書き込みを行っても、この表現は貴方のご主張を虚しくするだけです。
 御書には、

 『所詮仏子とは法華経の行者なり、此地とは実相の大地なり、経行若坐臥とは法華経の行者の四威儀の所作の振舞、悉く仏の振舞なり、我等衆生の振舞の当体、仏の振舞なり、此の当体のふるまいこそ長者なれ、』
 (御講聞書)

 振る舞いが全てですよ。 
 その上でお答え致します。
 人法一箇や人法対一という言葉は御書にありません。

 それは間違った概念です。
 仏(本仏)とは、一切衆生です。
 御書にあります。

 『第四 如来如実知見三界之相無有生死の事
 御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、三界之相とは生老病死なり本有の生死とみれば無有生死なり生死無ければ退出も無し唯生死無きに非ざるなり、』
 (御義口伝巻下)

 人本尊と言う概念は御書に無いですが、強いて言うなら、一切衆生です。
 御書にありますから信受なさいませ。

 法は何か?
 御書にあります。

 『問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし、』
 (本尊問答抄)

 明確に書かれています。
 ですので、

 人本尊〜一切衆生
 法本尊〜南無妙法蓮華経

 こういう事ですが、強いて二つに分ける必要はありません。
 三大秘法から論すれば、

 本門の題目〜衆生己心の妙法である南無妙法蓮華経
 本門の本尊〜衆生己心の妙法である南無妙法蓮華経
 本門の戒壇〜それを入れている私共の身体

 こうい事です。
 
 『我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、』
 (法華初心成仏抄)

 以上のように、大聖人仏法では曼荼羅が法華経の当体とか、一大秘法であるとかの思想はございません。
 それらは、日寛という習い損ないの邪義です。
 

2020/5/4  15:51

投稿者:名無し
創価ガッカリさんへ

組織信仰に毒されていることにいい加減気づきませんか??
自分の組織が一番正しいと思い込み、信心ではなく組織依存症を発症していることに気づきませんか??

>>彼らの教えは、戒壇本尊が法華経そのもので、法主だけが本尊に権能を持ち、信徒は下位に位置付けられます。このような思想は日蓮仏法にありません。曼荼羅原理主義は外道です。

組織信仰に毒されていなければ、このような人法対一を隠して悪意ある組織誹謗なんてしません。
あなたがやっているのは、組織信仰に毒されて創価顕正を誹謗中傷して、法を下げて日寛上人の御形木御本尊様に不敬をはたらく日蓮正宗の馬鹿キチガイ僧俗となんらかわりません。

人本尊と法本尊は等しく御本尊様を鏡として末法下種の根源の御本仏日蓮大聖人様を恋慕渇仰するのが正しい信心です。


2020/5/4  14:59

投稿者:沖浦克治
 嚴虎さん、今日は。

 ご評価ありがとうございます。
 経文が主体となると、庶民は仏法から置いて行かれます。
 仏法は一切衆生へ等しくある教えです。

 『仏法を習う身には必ず四恩を報ずべきに候か、四恩とは心地観経に云く一には一切衆生の恩、一切衆生なくば衆生無辺誓願度の願を発し難し、又悪人無くして菩薩に留難をなさずばいかでか功徳をば増長せしめ候べき、』
 (四恩抄)

 先ず衆生がいてそのために法が説かれ菩薩も仏も出現致します。
 所がこれが日蓮正宗ではひっくり返っています。
 先ず仏がいて法を説いて、それを伝える僧がいて最後に救われるべき衆生がいる。

 本来の教えとは正反対です。
 
 『然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、』
 (諸法実相抄)

 素直に読めば理解出来る事を、日蓮正宗では、やれ総別の二義とか、一応と再応だとかおかしな屁理屈を入れて面倒にしています。

 彼らの教えは、戒壇本尊が法華経そのもので、法主だけが本尊に権能を持ち、信徒は下位に位置付けられます。
 このような思想は日蓮仏法にありません。
 曼荼羅原理主義は外道です。

 

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