2020/5/10

オンリョウ  
顕正新聞第1504号のトップ記事は御書要文拝読である。これまで何度も指摘してきたように、御書講義がなくなってしまい、さらには日曜勤行の指導もなくなった、ゆえに紙面作りに苦労するようになった。いわばその代替として今回のような記事が掲載されたのだろう。

メインの拝読御書は建治四年二月二十五日の上野殿御返事である。

不退の「水の信心」を貫き通された上野殿
身延に在す大聖人様に献身の御供養
熱原の法難では身を捨てて法華講衆を外護


ご覧の見出しが示すように、当該御書では火の信心と水の信心を対比した上で、上野殿が水の信心を貫かれていることをお褒めになっている。本文は省略するが、次の通釈が問題である。

 いま上野殿は、いかなる時も常に退せず護法の赤誠に立たせ給えば、これ水のごとく信じさせ給えるか。尊し尊し。

おいおい、何だよこれは・・・

浅井先生もどうかしている。しかも編集部はこれを修正せずに載せている。浅井先生は絶対だからか?

 父上は温厚淳良な性格・・・

これは何を根拠に言っているのだろうか?

 母上も温良な性格・・・

何を根拠に言っているのだろうか?

 「鎌倉にてかりそめの御事」との仰せに、上野殿が大聖人にお目にかかったのは、まだ幼少の折の一度か二度だけであったことがわかる。

先ほど、メインの拝読御書と書いた。その理由はメインの御書とは別に、いくつか関連の御書を引用しているからである。ここでは文永十一年七月の御書を引用して、上野殿は幼少の頃に鎌倉で一二度、大聖人にまみえているとしている。

はたしてそうだろうか?

わたくしはその可能性があることは否定しないものの、断定はできないと思っている。浅井先生は既存の解説書を参考にしつつ自分の見解を述べているのだろうと推測されるが、とりわけ近年は思い込みが激しいような印象がある。

上野殿御返事→南条後家尼御前御返事

御書全集では上野殿御返事となっているが、平成新編ではこれをご覧のごとく改題しているのだ。わたくしはこの件に関して宗門側がどのような見解を出しているのかまったく知らない。ただ表題が変更されたという事実だけを知っているだけである。

当然、理由があってのことだろう。

たぶん浅井先生も同一見解のはずだが、ここでは上野殿が直接御供養の品々を携えて身延に参詣しているのである。ならば御書の宛先は上野殿ではなく上野殿の母君であると考えるのが自然である。平たく言うと、お母さんにお礼の手紙を書いたので渡して下さい、と大聖人が上野殿に手紙を託された。このように考えると宗門が御書の題名を変更したのはきわめて適切なことだとわかるはずである。

 かまくらにてかりそめの御事とこそをもひまいらせ候ひしに、をもひわすれさせ給はざりける事申すばかりなし。

これが平成新編の表記である。解釈は何通りもあるだろう。ようするに母君に仰せられているわけであるから、少なくとも母君は大聖人と鎌倉で面会しているだろうことが読み取れるわけだ。この場合、幼少の上野殿が一緒だったかどうかはわからない。もちろん一緒の可能性もあるし、そうじゃない可能性も否定できない。また、大枠で捉えると、南条家との関係そのものがきわめて希薄であり、もしかしたら大聖人は母君ではなく父君との関係をカリソメと仰せられているとも読めるのだ。何しろ早くに亡くなってしまった。その後、身延入山までの十年近くの間、南条家との関係が途絶えていた。このように考えると、思い忘れさせ給ざりける事、申すばかりなし、との仰せが鮮明になってくるはずである。

この点において、浅井先生の次の見解は正しいだろう。

上野殿はこの母上のもとで、大聖人様への一筋の信心をはぐくまれていったのである。

つまり、この場合においても上野殿本人が大聖人と邂逅していなかった可能性は排除できないわけであり、むしろそのほうが内薫力の説明には幸便かもしれないのだ。

ことに幕府に狙われていた日秀・日弁等は富木殿のもとに送って匿わせ、また現地で指揮を執られる日興上人の隠れ家まで用意した。

それにしてもここが問題である。まず日興上人の隠れ家とは何を根拠に言っているのだろうか?

そもそも現地とは熱原のことか鎌倉のことか、それすら不明である。熱原であれば上野殿のテリトリーと言えるのかもしれないが、鎌倉だとしたらさすがにどうかと思うところである。何しろ鎌倉には四条金吾殿などの有力な在家信徒がいたわけであり、彼らのほうが勝手がわかっている分、迅速な対応ができるはずである。

富木殿のもとに送って匿わせ・・・

再掲であるが、アゲアシ取りの気味がなくはないものの、どうかと思うところである。ようするに富木殿のほうが大先輩であるからして、匿わせ、という表現はあまり好ましくないように感じるのだ。また、この件は大聖人の御指示・御裁断と考えるのが普通だろう。上野殿から、あるいは日興上人から、逐一報告を受けていた大聖人が一時的に富木殿のところに避難させるのが賢明であると、このように判断して指示を出したと考えるべきなのだ。

 「大聖人御一代に、唯一度だけしか用いられていない、稀な御文字」

これは弘安二年十一月六日の御書で、宛名には上野賢人殿御返事と認められている件である。このことについて、堀日亨上人は上掲のごとく言っているそうである。

大昔の御書講義だったかどうか、今はほとんど記憶がないのだが、かつてこの上野賢人のくだりについて、実は上野聖人と書かれた上から上野賢人と書き直してある、という話を聞いたような記憶がある。ようは聖を後から賢に修正したわけであるが、これを大聖人が自ら行なったという。上野殿がまだ若いので、あまり褒め過ぎてもよくないと考えられたのだろうというような話だったと思うが、今回の記事にはそのことがまったく触れられていない。

ちなみに御真蹟を拝見しても、わたくしの目には書き直したかどうかまったくわからない。最新の研究がどうなっているか、そこも気になるところではある。

2020/5/11  10:38

投稿者:ダイアリー
>過去は変えられません。
 然し未来は変えられます。

他人と、過去ね。ついでに言っておくと自分と、(自分の)未来は変えられる。
これ心理学の世界じゃ常識だと思うけど。人の深層心理が手に取るように分かるんでしょ?

2020/5/11  10:36

投稿者:ダイアリー
> 更に大事なことは、自らの事も他人の事も過去を問題にしない。
 今から先だけ見つめる。


にも関わらず誰以上に、過去(宗門)へ執着しまくってるのが草

2020/5/11  5:58

投稿者:沖浦克治
 嚴虎さん、ダイアリーさん、おはようございます。

 先ず、信心というものは理解より変化が大事なのです。
 ご本尊に祈る。
 それによって願いが叶い生活に功徳として具体的に顕れる。
 生活が変わりますね。
 その変化こそが大事なのです。

 功徳とは六根清浄だ〜〜!!

 これは法門の理解ですね。
 肝心要は、その六根清浄を祈って生活が改善されるのか?
 ここだけです。
 戸田先生が言われました。

 『信心というものは、急速に生活がよくならねばならない。』(主意)

 凄く大切なことは愚痴を慎む事です。
 世間を見ても成功している方は愚痴なんか言いません。
 愚痴を言う人に限って生活の不安と不満を抱えています。

 更に大事なことは、自らの事も他人の事も過去を問題にしない。
 今から先だけ見つめる。

 過去は変えられません。
 然し未来は変えられます。

 せっかくご本尊を持ち唱え難いお題目を唱えているのです。
 今から先を考えましょう。

 創価学会は破門を勝ち得ました。
 ここで破門を解かせる方向に向くより、独立して新しい宗教を作り上げる方が価値的です。

 宗門は破門をしました。
 創価学会に未練を持つより、新しい僧侶集団として拡大を目指す方が良いです。

 あれから既に30年。
 もう創価学会は日蓮正宗を知らない会員の方が多いのです。

 台湾の地図を見て、ここは以前日本だった。

 とため息ついても仕方ありません。
 同じです。

2020/5/10  18:01

投稿者:ダイアリー
呪いの唱題より、マシだと思うけどな。

http://www.shorin-ji.jp/soukahs019.html

2020/5/10  16:18

投稿者:沖浦克治
 嚴虎さん、今日は。

 上野聖人を賢人に書き直された御書は御真筆があります。
 https://nichirengs.exblog.jp/iv/detail/?s=23421379&i=201412%2F11%2F54%2Ff0301354_22343392.gif

 私見ですが、聖人と呼んで慢心すると困るというより、南条時光なはこの時点で青年です。
 当然将来の成長に期待して賢人とお呼びになられたと拝します。
 聖人では完成形ですが、賢人なら成長過程です。
 以上私見でした。

 御書の話題ですから少し書きます。
 日蓮正宗は基本的に御書に弱いですが、私共が破門を勝ち得友人葬を始めた時、御書にないとか、塔婆も立てないとかさんざん誹謗中傷をしたことはまだ記憶にあります。

 僧が葬儀を行うようになったのは以下のようです。
 (ウイキペディアから引用)

 1635年(寛永12年)ごろ、日本人全員を近くの寺に帰属させる寺請制度が始まり、1700年(元禄13年)ごろには、位牌、仏壇、戒名といった制度が導入され、葬式に僧侶がつくようになった。それまでは「葬式組」と呼ばれる村落共同体のグループが葬式を仕切り、棺や装具をつくったり炊き出しをしたりしていた。
 〜引用終わり〜
 
 立宗宣言が1253年ですから、
 1700年あたりで現在の僧侶による葬儀が定着し始めたのなら、立宗から450年経過してからです。
 ですので、大聖人の時代には僧侶による葬儀はありません。
 身内やお世話になったお方が亡くなられれば人間として参加していたのでしょう。

 塔婆も当時はありましたが葬儀に不可欠ではありません。
 所が日蓮正宗は塔婆供養は御書にあるとして、立てない私共を責めますが、それは塔婆を立てる場合もあったというだけです。
 そもそも葬儀の形態すら現在と大きく異なっているのです。
 横車でしかありません。

 日蓮正宗は御書にない事を沢山採用する宗派です。
 引き題目などは御書にありませんし、樒だけを供えるご文もありません。

 『仏には春の花秋の紅葉夏の清水冬の雪を進らせて候人人皆仏に成らせ給ふ、』
 (治部房御返事)

 色花を備える習慣をお書きです。
 宗門って御書ダメですね。

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