2020/5/29

ゾウカ  
造花の是非についてはそれほど難しく考える必要はあるまい。かつての創価学会員はオシキミを当たり前のように供えていた。また創価学会の会館近くには金剛堂があって今でもオシキミを販売しているはずである。わたくしは頭ごなしに造花をダメと言うつもりはないが、なるべくならばホンモノのほうがいいだろう。それだけの話である。

さて、顕正新聞の続きである。

日興上人の御姿は浅井先生のお姿と重なり・・・

上掲は第十八男子部長(首都圏)の記事をわたくしなりに要約したものである。この後の号になると、今度は上野殿の御姿と浅井先生のお姿が重なると書かれていたりする。忙しいものである。

広布最終段階

何度も指摘しているように、二十年も前から言い続けられている言葉である。普通の人間の感覚では耐えられないだろう。

女子部第十一区長(首都圏)は例の慧妙に掲載された宗門僧侶の論文について次のように言っている。

わずか十五日後に懺悔もなく平然と訂正するに至り・・・

懺悔とは何かが問題である。特別な宗教的儀礼のようなものがあるとしたら逆に教えてほしいくらいだ。

これまた何度も指摘しているように、浅井先生こそ懺悔が必要なのではあるまいかと思う。過去に言ったことがホゴになっていても訂正も何もせずにホオカムリを決め込んでいる。とんでもない話である。それに比べた時、むしろ十五日後の訂正は迅速であり、ひじょうに清々しく感じるものである。

点字で基礎教学書を拝読 折伏に立つ

女子部第二百八十区の紹介で入信した男性は上掲が示すように視覚に障害がある。ゆえに点字で基礎教学書を学んでいるわけだが、次のくだりが少し問題だと思う。

 実は点字の基礎教学書は、福祉施設が点訳したものであるので、読み方を間違って点訳した箇所が多くありました。

この人の記事だったかどうか、すっかり忘れてしまったのだが、以前にも点字の話題があったはずである。わたくしの思うに、顕正会も人材が豊富にいるはずなので、福祉施設の点訳に頼るのではなく、自分たちで点字版の基礎教学書を作ればいいのである。そうすれば上掲のような問題は生じないはずなのだ。

次は婦人部足利支区の紹介で入会した男性の記事である。

 元講頭に
 「顕正会は本物だよ」
 と大確信で言い切ると、「国立戒壇は四人の上人が叫んだだけ」「日寛上人に血脈は流れていない」などと恐れ多い言動を繰り返す有様でしたが・・・


最後のカギカッコが問題である。元講頭は講頭をやっていたことがあるほどの熱心な人物という意味だろう。それが日寛上人を否定するような発言をするわけがないのである。しかも日寛上人の段階で血脈が切れてしまっていたら、その後の歴代上人はすべて否定されてしまうことになるだろう。まさか日蓮正宗の信徒がそんなことを言うわけがないのである。

つまり、ここで考えられることは、顕正会の自宅拠点などに安置されている日寛上人書写の御本尊には血脈が流れていない、という意味だろう。

これ以外にどのような解釈が可能なのか、わたくしは現役の活動会員たちに聞いてみたいものである。たぶん他には解釈のしようがないだろう。今となっては宗門側から何の憚りもなく顕正会の本尊が出所不明のアヤシゲなものであるとの指摘がなされており、ようはそうした話の片鱗が総幹部会のような大舞台でも窺がえるようになってきたわけである。

これを先ほどの訂正ないし懺悔という話に関連付けて考えると深刻さがわかると思う。結局、浅井先生は何一つ訂正しないし懺悔しない人なのである。しょせんは凡夫ゆえに間違を犯す。問題はその時にどのように振る舞うかである。

この点、長くから在籍している幹部会員たちが、いちばんよくわかっているのではないかと思う。

2020/5/31  17:46

投稿者:沖浦克治
 明日から6月。
仕事を再開し都道府県を超えての移動を数回致します。
 白馬村からですと高速バス利用が最も合理的なのですが、感染防止の見地から自家用車を使います。
 幸いキャンピングカーがありますので、ホテル泊を避け車内泊致します。
 この仕事はかなりな長距離移動になるのと、私はもう75歳になりますので、元気な間に息子に引き継ぎするため、息子を同行させます。
 今回本格開始するビジネスは大げさではなく、世界中のスノースポーツの根幹を揺さぶる程革命的なものです。
 私の余命では手に余ります。
 私が道を付け息子が仕上げる。
 親子2代の大仕事。
 私も後5年頑張ります。
 息子とは新ビジネスで利益が出たら、白馬村にパワーリフティング専用施設を作ってもらう約束をしてあります。 
 私の悲願です。
 白馬村は僻地・・・
 と蔑んだお方もおられましたが、都会からの距離を考えるなら確かに僻地です。
 ですが、実際に訪れるには結構便利な所。
 東京名古屋から3時間出来ますし、車で移動してもその程度。
 距離は250キロ程。
 東京の人が大阪へ、大阪の人が東京へ出張するのに移動が不便だと思いませんが、東京白馬間の移動は時間的には同じです。
 更に、この村は日本に3ヵ所しかないオリンピックを開催地。
 海外へ行っても長野県の名前は知らなくとも、私は日本の白馬村から来たというとほぼ理解されます。
 知名度は超一流ですし、昨年は諸外国から113700人の観光客が訪れています。
 村民は9000名ですから、赤ん坊から私共年寄まで1人当たり13人弱が来られています。
 こんな村ないですね。
 観光客の合計は一昨年で120万人程。
 村民1人あたり130人です。
 人口30万の地方の中心都市だと4000万人です。
 凄いです。
 この村に立派なパワーリフティング専用施設を建てて全国の友に無料開放する!!!
 夢なんです・・・・・
 功徳出すぞ〜〜!!!

2020/5/30  19:40

投稿者:名無し
日蓮正宗を貶める妙姦さんへ

信心とは全く関係ない野暮で粘着質なコメントを新年早々連発する馬鹿キチガイが、何もなかったかのように正義面して人に忠告するなど厚顔無恥かサイコパスとしか思えません。

2019/1/2 9:55

投稿者:大沢克日子


沖浦さんはもうゲレンデですか?
楽しいでしょうね?

2019/1/2 9:39

投稿者:大沢克日子


今日は池田名誉会長の誕生日なんですか?

キリストの生誕は祝えるのに、「人生の師匠」の
誕生日には一言もないんですね?


2019/1/2 8:56

投稿者:大沢克日子


沖浦さん

キング牧師のパクリでしょうか?

白馬村振興の件、事前に白馬村村民一同に宣言された
方が良いと思います。

2020/5/30  17:02

投稿者:沖浦克治
 大沢さん。

 樒をまごころで備える。
 立派なご供養です。
 功徳が湧いて出ます。

 最も大事なものはまごころです。
 義務感ではダメです。
 樒が長持ちする体験は何度も積んでおります。
 ですが、私はそこを修業とは致しません。
 但しそれを仏道修行と捉え励む人を否定致しません。
 釈迦に十大弟子があるように、10人の行者がいるなら、十通りの仏道修行があります。
 上行菩薩ですら国により広められる人により修行方法を変えると御書にあります。

 『いまだ本門の肝心たる題目を譲られし上行菩薩世に出現し給はず、此の人末法に出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の中国ごと人ごとに弘むべし、』
 (妙密上人御消息)

 私は生きた樒を備える事を一度も否定致しません。
 私は造花で満足ですが、本物にこだわるお方はどうぞ。
 同じく、本物にこだわる方も造花で満足の人を認めればそれで良いです。

 大事なことは、大聖人ご図顕のご本尊を命の次に大切だと心得、唱題に励む事です。
 樒とは化儀です。
 肝心要は唱題行。
 ここを弁えないといけませんね。

 ここが狂わなければ後は余事です。
 ご本尊道具論は、御書にありますから信受なさいませ。
 人の命の上に本尊を据える事は間違いです。

 『、命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりともこれを延るならば千万両の金にもすぎたり、法華経の一代の聖教に超過していみじきと申すは寿量品のゆへぞかし、閻浮第一の太子なれども短命なれば草よりもかろし、日輪のごとくなる智者なれども夭死あれば生犬に劣る、』
 (可延定業書)

2020/5/30  16:43

投稿者:沖浦克治
 大沢さん、今日は。

 お久しぶりですね。
 ご心配頂きありがとうございます。

 これは仏法者云々以前、人としての信念の問題です。
 私はこれまで結構人の社会の裏側と言っていい部分を歩いてきました。
 どんな時も創価の誇りは忘れませんでしたが、現実社会の荒波にもまれ、随分その場しのぎの事も致しました。
 それ故の2004年の大罰でした。

 以来、世間様から後ろ指を指されない生き様を心がけ16年経ちました。

 大聖人仏法の素晴らしさは、過去にどのような大罪を犯している人でも、真剣に唱題をし布教に励むなら全ての罪が消滅し、なかった事になり、更にその罰の姿を原点として変毒為薬が出来る事です。
 よく戸田先生が言われました。

 『君たち今貧乏で辛い、それは過去世で人のものを盗んだからだ。
 そういわれて納得できるか?
 出来ないだろう。
 大事なのはこれからだよ、どうやったらその貧乏の業が消えて金持になれるか?
 ここじゃないか。
 大聖人は、現在この信心を真面目にやるなら、その過去の罪が無かった事になると言われている。
 どうだ、いい話じゃないか。
 それも線香代と蝋燭代だけが元手だよ。
 諸君、やらないと大損だ。』(主意)

 『終に世間の悪業衆罪は須弥の如くなれども此の経にあひ奉りぬれば諸罪は霜露の如くに法華経の日輪に値い奉りて消ゆべし、』
 (新池御書)

 故に仏法を奉じる人間は他人の過去の悪行を絶対に責めてはけないのです。

 『勧発品に云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出さば若しは実若しは不実にもあれ此の人は現世に白癩の病を得ん』
 (釈迦一代五時継図)

 私は創価の戦士です。
 常に今から先の事を祈り闘います。
 闘える舞台がある。
 人間冥利に尽きます。
 

2020/5/30  10:13

投稿者:大沢克日子
今日は、沖浦さんに再度忠告するつもりでコメントさ
せていただきます。

もう三年前になるでしょうか、こちらのブログで沖浦
さんが正義をふりかざして、JPAの悪事をただす、と
宣言したとき、私はクドくなる位に再三再四、それ
を制止しました。

その理由は、信仰関係の掲示板・ブログの沖浦さんの
やり方、姿勢で、一般に向けて対応すれば必ずトラブ
ルに繋がると思ったからです。

教義論争したり、功徳自慢したり、日蓮正宗や歴代上
人を蔑んだり…ということも、宗教・信仰という部分
社会、とりわけ創価学会、顕正会が日蓮正宗系の、か
つて同じ信仰をしていたという背景があって、論争
を繰り広げてきたのです。

そこと同じ調子で、正義感を振りかざして誰かを悪党
に仕立て上げ、吊るし上げるようなことをすれば、
一般社会の中でトラブルになるだろうことは明らかで
す。

聞くところによると、案の定、今に至るまで沖浦さん
の正義感 対 沖浦さんの許せない悪党との衝突は終わっ
ていないようですし、当初悪党認定していた人を放逐
したが、その後次々と別の悪党を糾弾しつづけ、今は
かつての仲間だった役員を糾弾し、何件もの裁判も起
こしていると聞きます。

JPAの内部の事で、どちらが本当に正しいのか、私に
はわかりません。
ただ、当初懸念していたとおりになっていることは残
念です。
信仰外で社会の人々と接する時は、信仰上の正義感を
振りかざして論争・糾弾するのと違う姿勢を取る必要
があります。

私たちは出家ではないのですから、世間一般で仕事を
するとき、信仰外で他と接するときは、賢く接するべ
きかもしれません。

沖浦さんに一番伝えたかったのは、このことです。

大聖人様の仏法が正しい=信仰している我々が偉くな
るのではありません。

折伏の場で、相手の誤りを正さなければならない、許
容できないということはあると思います。

しかし、それはあくまで信仰者の立場。
世間一般の人より偉くなったのようにカン違いして、
立場が悪くなって、信仰しているのに功徳がない、悪
くなったと逆恨みする人もいます。
逆恨みしなくても、自分の趣味(?)のために、信仰
を道具にしている人もいます。

気をつけた方が良いですね?

トラブルが何年も継続していると聞き、あえて、改め
て忠告させていただきました。

2020/5/30  10:03

投稿者:大沢克日子
巌虎さん、沖浦さん、お久しぶりです。

講中の先輩にいわれて、気にするようになったのです
が、日々一生懸命に御本尊様に唱題しているときは、
お樒のもちが良くなります。

仕事の忙しさに流されるなど、勤行唱題が形だけの期
間が続くと、根付きの立派な樒を購入して、これで当
分大丈夫と安心していたのに、程なく元気がなくなっ
てきて、しばらくして萎れてしまうことがあります。

こんな私ですが、自分の唱題によりお樒がそうなる体
験をしていますので、樒を造花にする…などという気
気はありません。

沖浦さんは、議論や観念ではなく、自身の体験を何よ
りも大切にしていると思いますが、半世紀近く創価の
信仰をしていて、そういう体験はなかったのでしょう
か?

もっとも、沖浦さんは自分本仏・本尊道具論者のよう
ですから、御給仕ということも軽く見て、単なる儀式
のように捉え、お樒も装飾程度に考えているのかもし
れませんね?

そもそも、私たち自身に、有情非情ともに備わってい
るものですし(御書523頁)、お樒を供えるのはその
香りを供養するものです。

御宝前を掃除して、水、樒を供え、灯明を照らし御香
を焚いて御本尊様に御供養申し上げるのは、すなわち
私たち自身の三因仏性(御書1207頁)を育むことにな
る、と言われています。

小さいことに見えるかもしれませんが、大聖人様の仏
法故に、御本尊様に毎日御給仕していく、華・香を
供えていくことも、我が身の大きな功徳善根になる(
御書1836頁)と思います。

沖浦さんは、半世紀以上長く創価学会にいて、お樒
をお供えしていて何も感じなかったのでしょうか?

私のような鈍感な人間と違って、沖浦さんは芸術家肌
で、感覚も優れているので、半世紀も信仰していれば
体験や実感もあると思えますが、そうでもないんです
ね?

何か体験があれば、お樒をわざわざ造花にしよう、と
は思わないでしょうし。

2020/5/29  16:18

投稿者:沖浦克治
 嚴虎さん、今日は。
 
 樒を造花にしたのは二つ理由があります。
 一つは手間がかからないからです。
 今一つは樒の毒性が嫌だからです。
 以下、SNS検索、

 「花や葉、実、根、茎の全てが毒成分を持つ。なかでも種子はアニサチンが多く含まれ、食用すると死亡する可能性がある[6]。実際、下記のように事故が多いため、シキミの実は植物としては唯一、毒物及び劇物取締法により劇物に指定されている」
 〜引用終わり〜

 昔は葬式などで遺体の腐敗を避けるため樒を用いました。
 虫よけにも効果がありましたから、供物にたかるハエなどもある程度防ぐことも出来ました。
 今は生活様式が変わって必要がありません。
 日蓮正宗は極めて偏狭な教えで御書に樒が載っているから樒しかダメだと言います。

 方便品には、『栴檀及び沈水、木樒並びに余の材』
 とありますが御書には直接の記載はないと思います。
 あれば私の勉強不足ですので提示下さいましたら幸いでございます。

 御書に明記されているものは、

 『仏には春の花秋の紅葉夏の清水冬の雪を進らせて候人人皆仏に成らせ給ふ、』
 (治部房御返事)

 大聖人当時は色花は季節によって手に入りません。
 それで通年手に入れやすい樒が供えられたと思います。
 現在はそういう事もありませんので色花を備える事がかえって合理的に思えます。

 ともあれ、法華講の方々は原理主義に陥る傾向が強いので、樒に関しても広く見聞を持って思索されると良いでしょう。

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