2020/7/29

キュウシ  
今日は顕正新聞第1512号を見て行くつもりだが、その前にちょっと触れておきたいことがある。

暫くの間休止させて頂きます。

幻の総支隊長氏のブログである。二十三日付の記事にはご覧のタイトルがあって、本文が書きこまれる部分にはナゾの画像が貼り付けてある。しかもコメント欄には次のような文言がある。

コメント一覧 (1)
2. 幻 2020年07月23日 20:12
すみません・・

コメントもです。


つまり、コメント欄への投稿も休止らしいのである。

ブログそのものは残されているのでいずれは再開するのかもしれないが、しかし、なぜに休止したのかが不明である。もっとも今までにも休止ないし事実上の終了に等しいようなブログがたくさんあったし、それがどのような事情にせよ、しょせんは個人ブログなので不思議なことではないのかもしれない。むしろいつまでもダラダラと続いている拙ブログが異常なのだろう。

さて、本題である。

三百万を急がれる浅井先生にお応えしてまいろうではありませんか。

総男子部長の五月度班長会での発言である。

このフレーズは今や定番となっていて、全記事中の出現率がベラボウに高い。多少の表現の違いがあっても、言っていることはほぼ同じなのである。ともかく三百万をキーワードにして調べれば、五十パーセントは軽く超えるだろう。

ところが周知のように、具体的な期限は示されていない。

いや、もう無理なのだ。今さら期限を切っても真面目な会員たちを苦しめるだけだし、ましてや達成できなければ絶望感しか残らない。何しろこれまでにも未達成の黒歴史を重ねてきたわけで、もうこれ以上は繰り返せない。そうした過去の実績がバレバレだからだ。活動会員たちだって、知らないわけではないのである。

いずれにしてもである。この三百万というフレーズも、おそらくは賞味期限があるはずなのだ。

結局のところ、しょせんは顕正会もウソにウソを塗り重ねてきたようなものである。まさかこのまま誤魔化し切れることはないはずなので、どこかで破綻することになるだろう。そこで問われるのは、正直にそれを言えるのかどうかである。浅井先生は言えない。たぶん言えないだろう。ゆえに誰かが尻拭いをしないといけない。必然的に総男子部長がそれをしなければならないはずだが、はたしての彼にその覚悟があるのか心配である。

「月のごとくなる光り物」

男子部第六総部長(首都圏・沖縄)の記事にはご覧のように書かれている。カギカッコは引用文を意味するはずだが、これは何の引用だろうか?

「芙蓉農園」で今年も田植え!!

これは気持ちのいい記事である。最近の顕正新聞はこの手の記事が少なくていけない。

今年も地元婦人部有志の協力を得て・・・

余計なお世話とは承知しつつも、無償の奉仕なのか否か、そこが気になるところである。顕正会の活動は基本的には無償の奉仕である。大幹部になるとちょっと事情が異なるらしいのだが、何しろわたくしにはその経験がないのでよくは知らないのだ。ともかく農作業は重労働であるからして、それ相応の対価が支払われてもおかしくない。いや、そうじゃなきゃ誰もやらないだろう。

さて三面に目を転ずると、女子部の記事が載っている。班長会特集の時は二面が男子部で、三面四面が女子部婦人部である。男子部が最初であることは不動のようだが、女子部と婦人部は順番が逆の時もある。この辺の法則性がよくわからない。

阿部日顕の滅亡等・・・

総合女子部長の発言である。しかし、これは何度も言っているように、年齢的な意味からしてどうかと思うところである。おそらく現代感覚としては、八十歳以上がいちおうの目安のような気がする。事故死の場合はかなり印象が異なるものの、病死の場合はそれが何の病気であったとしてもそれほど違和感はないはずである。

次は第二十二女子部幹事(首都圏)の発言である。

先生がただお一人知り得る重大御法門・・・

このフレーズにあえて前置きをつけるとすれば、(顕正会の中では)ということになるのかもしれない。いや、もちろん、彼女の言わんとしていることはそうではないのだが、逆に宗門の人たちからすれば、何を言ってんの? ということになるだろう。

まあ、しかし、引用が前後するものの、この直前には次のような文言もあって、そこが悩ましいところではある。

いま正系門家がこの大事を忘れ・・・

重大御法門とは単なる知識的な意味ではなく、いわば信心の情熱みたいなものだと考えると、なんだかんだ顕正会員たちには凄まじい情熱がある。当然、その源泉は指導者に由来するのだろう。

さて、四面は婦人部である。

怖いなあと思って眺めていると、なんと今回は大師子吼が出てこない。これには驚いた。

新型コロナは毒性を増し・・・

総合婦人部長の発言であるが、五月末時点での見解として注目しておきたい。何しろ今は第二波に突入したとの見方がもっぱらであり、感染者数だけを見れば四月のピークを上回ってしまっている。ところが緊急事態宣言が出される様子はない。どうも現段階では感染者数に比して重症化する人が少ないので楽観的になっているフシがある。ようはコロナが弱毒化しているという見方なのである。まあ、しかし、予断を許さない状況であることに変わりはないだろう。ちなみに第二波云々は国内に限った話であり、世界的には第一波の真っ最中というのが現実である。ともかく深刻な状況なのだ。

 されば先生の「誓願は低く戦いは明るく雄大に」との深きご慈愛に・・・

これは副総合婦人部長だが、アゲアシ取りながらもダメだなあと思った。

なぜならば誓願=ノルマと言っているに等しいからである。仏弟子の誓願は崇高なのである。ゆえに誓願は低くという表現は仏弟子のそれではない。つまり、ノルマを低くしたので頑張ってね、みたいなヘンな話を世間にさらしていることに、彼女は気がついていないのである。

2020/8/14  23:45

投稿者:大沢克日子
蓋し本御書の根本的な編輯の基本精神は、あくまで大聖人より日興上人以下歴代上人に継承される血脈相伝の仏法に存する。この中心筋目より拝照する処、各御書の文義はすべて滞りなく明確に会通されるが、これより外れた熟脱仏法執著の観点からは、諸御書の文義は矛盾錯雑し、一つの帰結点に通ずることができないのである。故に大聖人御一期の化導の正意に背き、本尊雑乱して始末を顛倒するに至っている。
もとより大聖人の御書には従浅至深、五段の相対あり、判摂名字、宗旨の秘鍵あって、相伝の眼識に依ってこそ始めてこの正意に額突く事を得るのである。されば大聖人より日興上人への法門相伝書も平成新編御書と同じく輯録し、特に平成新編御書に省いた「御本尊七箇之相承」も加えてある。従ってその全貌を信の一字を根本として拝する時、宗祖大聖人一期の施化の次第とその正義は自ずから明白なりと云えよう。
(御先師日顯上人 平成校定新編御書 発刊の辞より引用)


御先師上人の御指南の如く、当宗においては中央筋目たる「御戒壇様と血脈」への信により、正しい信行学が導かれます。

仮に浅井会長がいくら勉強家で、かつて誰よりも教学を学んだつもりでも、その信を失った上は浅井会長の逸脱は有りますし、浅井会長が亡くなった後は、顕正会はさらなる逸脱・迷走を免れ得ないと思います。

2020/8/14  23:38

投稿者:大沢克日子
巌虎さん

>「月のごとくなる光り物」

現役顕正会員の頃に何度となく「月のごとくなる光り物」と聞かされましたが、御歴代の御教示は御書と同じく「月のごとくひかりたる物」とされているようです。

左衛門尉申やう、只今なりとなく。日蓮申やう、不かくのとのばらかな。これほどの悦をばわらへかし。いかにやくそくをばたがへらるゝぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとくひかりたる物、まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。
(平成校定御書1302頁/御書1060頁)

左衞門尉たたいま也トなきしかハ、日蓮申やう、ふかくのとのかな、これほとの悦ヲハ咲カシ、イカニやくそくをハたかへるそと申せし時、ゑしまの方より月のことくひかりたる物まりのやうにてたつみのはうよりいぬいの方へひかりわたる
(総本山第四世日道上人御伝土代、歴代法主全書第一巻260頁)

江ノ嶋ノ方ヨリ月ノ如ク光タル物鞠ノ様ニテ辰巳ノ方ヨリ戌亥ノ方へ光リ渡ル。
(総本山第十七世日精上人日蓮聖人年譜、歴代法主全書第ニ巻52頁)

不勉強で恐縮ですが、いくら浅井会長でも、誰も何も言わない表現を創造しないでしょうから、もしかすると近代の御法主上人御指南や御僧侶の書物のなかに、「月の如くなる光り物」という表現があるのかもしれません。
浅井会長であり得るのは日寛上人、近現代の御法主上人の御指南か、御僧侶の指導の中にそういう表現があるのかもしれませんね。

御書の中に「〜の如くなる」または「月の如く」という表現は、下記の例があるようです。

【「〜の如くなる」の表記】
虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給(ヒ)て明星の如くなる智慧の宝珠を授(ケ)させ給(ヒ)き。
(平成校定507頁/御書443頁)

明星の如(ク)なる大宝珠を給(ヒ)て右の袖にうけとり候(ヒ)し故に、一切経を見候(ヒ)しかば、八宗並びに一切経の勝劣粗(ホ)是を知りぬ。
(平成校定1134頁/御書946頁)

【「月のごとく」等の表記】
三千の威儀具足する事は十五夜の月の如くなりしかども、法華経を持たざる時は是くの如く仰せられたり。
(御書1459頁)

月の如くなる妙法の心性の月輪と、風の如くなる我が心の般若の慧解とを訓へ知らしむるを妙法蓮華経と名づく。
(御書1413頁)

2020/8/10  10:27

投稿者:元顕正会員
>仏弟子の誓願は崇高なのである。ゆえに誓願は低くという表現は仏弟子のそれではない。

そもそも誓願とは自ら誓いを立てて祈願するものだから誓願を低くするのは懈怠である。こう言うと会員は「先生は我々の事を思って...」とか言ってきそうだが、それはある意味そうだろうと思う。顕正会は浅井家の収入源だから会員離れによる衰退は絶対に避けたいところだから。
又、浅井会長にとっては道楽のようなものでもあるから誓願未達なんて格好悪い事は望んでなく、誓願達成して総幹部会で良い顔しながら喋りたいのだろう。

2020/7/31  20:01

投稿者:ヅラ系。
沖浦さんが撤退したらコメントさっぱりですね
それでいいんじゃないですか 独白だから
休むとかやめるとか言わず続けて下さいね たまーにでも読んでますから
頑張って!

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