2020/10/31

ダイシン  
沖浦氏の連載を欠かさずに読んでいる。挫折せずに続けていることは立派であるが、やや単調な感じがして、読むのがシンドイ、というのが正直な感想である。

 この謗法の最もいけないのが、怨嫉謗法です。
 これさえ慎めるなら、私も貴方も大成功で、生きてるだけで丸儲けになります。
 でもね、阿部日顕さんのご冥福祈れますか?
 ここが大事な所です。

 『一日行房死去の事不便に候、是にて法華経の文読み進らせて南無妙法蓮華経と唱へ進らせ願くは日行を釈迦多宝十方の諸仏霊山へ迎へ取らせ給へと申し上げ候いぬ、身の所労いまだきらきらしからず候間省略せしめ候、又又申す可く候、恐恐謹言。』
 (四菩薩造立抄)

 裏切者の代表とされる日行さんが亡くなった。
 不便だと仰せです。
 お身体がお悪い中で、裏切った弟子の冥福を祈る・・・
 仏の慈悲です。
 この万分の一でも私共が見習うなら、凄い功徳が来ます。


さて、この部分であるが、まさに沖浦氏の年来の持論であり、言わんとしていることは悪くない。ようするに氏は創価学会員に対しても窘めているのだ。何しろ彼らは日顕上人を極悪人のごとくに思わされている。ゆえに上人の冥福を祈ることなど、考えもしないだろう。沖浦氏は、それではダメだ、と言っているわけである。

しかしながら上掲には不正確な部分がある。

裏切者の代表とされる日行さん・・・

わたくしはこの根拠を知らない。おそらくは次の一節が根拠になるのだろうけれども、それはそれで問題である。

なごへの尼・せう房・のと房・三位房なんどのやうに候をくびゃう、物をぼへず、よくふかく、うたがい多き者どもは・・・

それこそ退転者は無数にいた。ゆえに御書にこのような形で名前が残っている時点で、代表と言っても間違いではないのかもしれない。ところがである。詳細はまったく不明なのだ。むしろ三位房は鎌倉で人気を博していた竜象房を破折するなど、相当の活躍をしていた。その意味で大聖人が三位房の死を不憫に思い、沖浦氏引用の御文のごとく仰せられたのは、ごく自然のことである。

逆に言えば、上掲御文こそが不審きわまりないのである。ぶっちゃけ言えば、大聖人は後になって悪口を言っている、大聖人こそが怨嫉謗法を犯している、ということになりかねないのだ。沖浦氏はこの矛盾に気がついていないフシがある。

ところで、大進房と三位房はセットで語られることが多い。しかし、大進房についても不明の点があって簡単ではない。

大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるゝか。

わたくしも顕正会の中で、熱原法難の時に落馬して死んだ、というふうに習った記憶がある。たった今、大急ぎで古い冨士を読み返したら、やはりそのように書いてあった。

ところがである。

大進房は少なくとも法難の一ヶ月以上前に亡くなっていることが確実である。いや、一年以上前かもしれない。

又大進阿闍梨の死去の事・・・

これは平成新編では弘安二年九月十五日の御書とされており、さらに八月十一日の御書には次のごとく認められている。

故大進阿闍梨の事なげかくし候へども・・・

ちなみに前掲を御書全集では弘安元年としている。法難の一年以上前と書いたのはこのためである。

今回、改めて調べてみて、わかったことがある。

案外にわかっていないことが多い。しかもである。わかっていないのに、わかったつもりになっている。そのことを創価学会の講義録を例に、説明したいと思う。

大進阿闍梨

 大進房のこと。曾谷教信の縁戚にあたる。下総(千葉県)の出身。早くから大聖人の弟子となりの門下の長老格であった。だが原因は定かではないが大聖人に敵対し、長崎次郎兵衛尉時綱等とともに暴徒を指導し大聖人門下に危害を加えたが誤って落馬し、それが原因で死んだ。


http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_51790.html

これはけっこう明晰な人の執筆と思われる。なぜならば熱原法難とは書いていないからだ。

次が問題である。

 なお、同じ門下だった大進阿闍梨と大進房とを同一人物とする説が古来からあるが、大進阿闍梨は弘安2年(1279)8月以前に死去していることが、弘安2年8月17日御述作の曾谷殿御返事にみえており、両人は別人であろう。

http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_51532.html

煩瑣になるので省略したが、こちらの講義では熱原法難のことが出てくる。しかし、今までの説明で明らかなごとく、もし大進房が法難の時に落馬して死んだとするとツジツマが合わなくなる。そこでツジツマ合わせのために、大進阿闍梨と大進房は別人であるとの説を立てているわけである。

つまり、二つの講義は執筆者が違うのだ。

はたして何百万人が真面目に講義録を読んでいるのか知らないが、ごく平均的な思考力があれば容易に気がつくはずである。あるいはこれらは過去の講義録であって、最新のものは整合性が取れているのかもしれない。その場合、どちらの説を採用しているのか、気になるところである。

わたくしの見解はすでに明らかなごとく、二つのうちでは前者を支持したいと思う。

落馬等・・・

さらに言うと、落馬ではないかもしれない。「等」があるからだ。

我々は作られたイメージに過ぎないものをあたかも真実だと思い込んでしまっている。失礼ながら沖浦氏もその一人なのだろう。いや、もちろん、わたくしも偉そうなことを言える立場ではない。逆に今回は沖浦氏のお陰で、今まで気がつかなかった点に気がつくことができたわけである。

2020/11/6  21:24

投稿者:名無し
創価仏などトチ狂った教義に耳を傾ける法華講員など何
処にもおりませんし御書講義とも呼びませんからww

2020/11/6  9:33

投稿者:沖浦克治
 名無しさん、おはようございます


 ここは嚴虎さんのブログです。
 貴方が指示するべき事ではありません。
 少し社会常識を弁えなさい。

 その上で、御書講義を便所の落書きとは、法華講員も
語るに落ちています。

2020/11/6  8:03

投稿者:沖浦克治
 講義

 非想非非想と言う言葉が出て来ましたが、想う(思
う)から煩悩が出て来る、想わなければ出て来ない、だ
から、想わないようにする。
 これを非想処と言います。
 でもこれは想わないと思っていますから、想うとも思
わないとも思わないのを非非想処と言います。
 さらに、想わないとも想わないのが最高で、非想非非
想処と言います。
 天界の最高位なのですが、実は面倒な思想に思えま
す。

 この御講聞書は僧へ伝えるものですから、こう言う複
雑な表現が多くて、在家には面倒です。
 言わんとする事は、一切衆生が南無妙法蓮華経如来。
 これですが、当時は僧と僧の法論が主流で、僧侶に理
論武装が不可欠であった時代背景を理解する必要があり
ます。

 創価三代の聖人方は、この複雑な説明の中にあった日
蓮仏法を極めて簡素化され、民衆仏法として再生なさい
ました。

 創価仏による創価仏法、創価思想、創価哲学として、
現代社会に活き活きと蘇生なさいました。
 今時、

 貴方の宗派ではとてもの事、非想非非想処へは至りま
せん!!!

 こんな事言って誰がお題目唱えますか?

 貴方今苦しいのですか、では私と同じお題目唱えまし
ょう!!

 この一言が法雨を降らす行為。
 非非想処なんてやってたら、途中で蒸発しますよ。

 自分の言葉で自分の体験を素直に話す。
 その時、相手を幸福へ向かわせたいと言う強い思いを
持つ。

 『行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人を
も教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一
文一句なりともかたらせ給うべし、』(諸法実相抄)
 昔は、貴方の宗派は四十余年未見真実であって〜〜!

 等で良かったのです。
 社会が乱れに乱れていましたから。
 然し現在は、真言亡国で〜〜!!
 何てやっても人の心は離れるだけ。
 四箇の格言は既に邪魔になっています。

 『肉をほしがらざる時身を捨つ可きや』(佐渡御書)
 池田先生が〜〜〜〜!!

 戒壇の大ご本尊が〜〜〜〜!!
 ご住職様が〜〜〜〜〜〜〜!!

 掛け声で人は動かない時代なのです。
 地道に信心をして地道に功徳を出す、その地道を貫い
た人が勝利の人です。
 創価学会にはそういうお方が何十万人とおられる。
 創価の未来は盤石です。

 嬉しい〜〜〜〜〜!!!!

2020/11/6  7:59

投稿者:沖浦克治
 通解
 
 一等雨法雨の事 
 大聖人は言われました。
 この妙法実相の雨が降る時は十界三千(全ての人の全
ての状態)縦軸には下は地獄から上は非想非非想(最高
の喜びとされます)まで、横軸(空間的)には十方(全
宇宙)竪軸(時間的)には過去現在未来の三世に亘つて
妙法の功徳が等しく降ることを、等、と顕してあるので
す。
 降るとは、一切衆生の色心妙法蓮華経(生命の全て)
と三世常住(全ての時間)に亘って降る事を示していま
す。
 一義には、この妙法の雨は九識本法の法体(一切衆生
の命である南無妙法蓮華経)です。
 然るに(本来既に一切衆生が持っているが)わざわざ
一仏が出現して衆生の前に出てわざわざ説き出す所の妙
法であるから、法の雨を降らすと言うのです。
 何故ならば、ふらすと言う意味は上より下へふる状態
を示すので、従果向因(結果に従って原因を明かす〜科
学的思考)の義です。
 法を説く仏の立場からは、第十の仏果からそれ以下の
九界へふ降らします。
 法体(社会の法として)はふる処もふらす処も、真如
の一理なり識分(命の階層から見て)からは八識(全て
の宿命を変えるべく九識からそれ以下にへふり下してい
るのです。
 ですから、今日蓮等の類いが南無妙法蓮華経を日本国
の一切衆生の頂上に降らすことを法の雨を降らすと言う
のです。

2020/11/6  7:58

投稿者:沖浦克治
 嚴虎さん、皆様おはようございます。

『一等雨法雨の事 仰に云く此の時は妙法実相の法雨は
十界三千下は地獄上は非想非非想まで横に十方竪に三世
に亘つて妙法の功徳をふるを等とは云うなり、さてふる
とは一切衆生の色心妙法蓮華経と三世常住ふるなり云
云、一義に云く、此の妙法の雨は九識本法の法体なり、
然るに一仏現前して説き出す所の妙法なれば、法の雨を
ふらすと云うなり、其の故は、ふらすと云うは上より下
へふるを云うなり、仍つて従果向因の義なり、仏に約す
れば、第十の仏果より九界へふらす、法体にてはふる処
もふらす処も、真如の一理なり識分にては八識へふり下
りたるなり、然らば今日蓮等の類い南無妙法蓮華経を日
本国の一切衆生の頂上にふらすを法の雨をふらすと云う
なり云云。』

2020/11/5  21:22

投稿者:名無し
コメント欄は議論や語り合い情報共有の場であって、一
方的な主張や個人の好き勝手がまかり通る広告掲示板や
便所の落書きする場所ではありません。
ここによく来る教学偏差値の低い頭の悪い元顕共が、創
価ガッカリさんに御書講義をお願いされたとかであるな
らば別ですがww

2020/11/5  20:18

投稿者:沖浦克治

2020/11/5  9:07

投稿者:沖浦克治
 無名さん、おはようございます。

 怨嫉謗法はダメですよ。

 『若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出せ
ば若しは実にもあれ若しは不実にもあれ此の人現世に白
癩の病を得ん」等云云、』(開目抄下)

 御書を心肝に染めなさい。
 私の講義がお気に召さないなら、貴方がご自分で更に
優れる講義をすれば良いだけです。
 解決方法は極めて簡単なのですから、愚痴を言ってい
ないで早く講義をなさい。

2020/11/5  9:03

投稿者:沖浦克治
 私は池田先生を最高の師と仰ぎますが、反対に大悪人
と見る方もおられます。
 私はそう言う方に一々の説明は致しません。
 先生がその方にどう見えるか?
 その方の問題であって、私の問題ではありません。
 主観を論によって擦り合わせる事は無駄です。
 実際の功徳の提示によって勝ち負けを争えば良いので
す。
 牧口先生が言われました。
  
 『これからの社会は人道的競争にならねばならな
い。』(主意)

 御書にも、

 『されば過去未来を知らざらん凡夫は此の経は信じが
たし又修行しても何の詮かあるべき是を以て之を思うに
現在に眼前の証拠あらんずる人此の経を説かん時は信ず
る人もありやせん。』
 (法蓮抄)

 眼前の証拠あらんずる人がどれだけ出たか?
 これだけが勝負です。
 功徳合戦で決着付ける。
 これが本来の仏法流布の立場です。
 戸田先生が言われました。

 『広宣流布はおからみたいなものなんだ、君たちがう
んと功徳
を出す、これが豆腐なんだ。
 すると広宣流布と言うおからは勝手に出来上がりま
す。』
 (主意)
 
 今回のご文にはこれが書いてあると拝しました。
 池田先生が〜〜〜!!
 とか、
 ご法主上人猊下様が〜〜〜!!
 等は無意味です。

 功徳沢山出した人が偉い!!!!!
 出させた指導者が優れている!!!!

 功徳の能所です。

2020/11/5  9:02

投稿者:沖浦克治
 講義

 常に出て来ますが、等と言う言葉は、仏の慈悲の顕れ
です。
 日蓮が弟子旦那等・・・・
 戸田先生が言われました。

 『等と言う言葉は、一切衆生を自分と同じ境涯に引き
上げると言う仏の慈悲の顕れです。』(主意)

 先日、菩薩と仏は最高のボランティアだと書きまし
た。
 四弘誓願と言う言葉があります。
 ・衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) -
地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願
煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん) -
煩悩は無量だが、すべて断つという誓願
法門無尽誓願智(ほうもんむじんせいがんち) - 法門
は無尽だが、すべて知るという誓願
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) -
仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願
 〜引用終わり〜

 最初にある
 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) が
最高のボランティアの誓いです。
 日蓮門下たる者は最初に弁えるべきです。
 御書には、

 『日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と
申すべし。』(諌暁八幡抄)

 法雨は地獄にも仏国土に娑婆世界にも等しく降るとあ
ります。
 そして、地獄では洞燃猛火として降るとあります。
 慈悲の雨なのにおかしいではないか?
 当然起こる疑問です。
 能弘と所弘が説かれていますが、能〜降らせる立場の
雨と、所〜受け取る立場の雨の2種類があるとありま
す。
 同じ雨でも降らせる側は同じものを降らせています
が、濡れる側は立場によって異なる雨になります。
 雨は洪水も起こしますし、土砂崩れも起こります。
 旱魃の時は恵の雨でも、お米を干すときには邪魔にな
ります。
 受け取る側の立場を仏法では境涯と言いますが、受け
取る側の境涯で同じ雨でも慈雨となり、業火ともなりま
す。
 御書には、

 『たとへば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見天人は甘
露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ
各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼
は黒色と見る二乗は虚空と見菩薩は種種の色と見仏種純
熟せる人は仏と見奉る』(法蓮抄)

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