2021/3/8
ニソウ
佐渡の雪山童子氏より挨拶をたまわった。現状、拙ブログは埋没してしまって、顕正会で検索しても上位には出てこない。ゆえに古くからの常連を除けば、新しい人が訪れることはほとんどない。よって氏がどのような経緯で拙ブログにたどり着いたのか不明だが、一つの情報源として役に立っているのであれば光栄である。
沖浦氏はめずらしく拙稿にコメントを寄せている。お書きになっていることは大筋で正しい。創価学会員ならば反発して当然であるし、最後の引用御書もお見事である。
浅井先生の目標は、創価学会に追い着け追い越せ、だった。
これは良い意味でも悪い意味でもそのまま使えるわけで、かつて両者が日蓮正宗の信徒団体だった時には、いわば兄弟関係にあって弟は兄を目標に頑張っていた。これは良い意味である。しかし、一方で悪い意味もあって、もともとの正宗の僧俗の中には創価学会の躍進を快く思っていなかった人たちもいた。そういう人たちにしてみれば、どうにかして創価学会をやっつけたいと内心では思い続けていたはずで、おそらくは浅井先生にもそのような気持ちがあったと推測されるのである。
毎度のように言っているが、浅井先生には大目標を掲げておきながら反古にしてしまっている事案がたくさんある。例えば一千万をいつまでに達成するみたいな話である。今はもっぱら三百万であるが、一時期、一千万を掲げていたのは厳然たる事実である。もしこれが名実ともに達成できれば、まさに追い着け追い越せが事相となる。しかし、直前にも書いたように今は三百万の目標が精一杯のところであるし、それにしたってしょせんは名目上の数字に過ぎない。
さて、顕正新聞である。
「この重大事を、まもなく亡国に直面する全日本人に教えなければいけない」
との三百万を急がれる先生のお心が身に迫り・・・
第十八男子部長(首都圏)の発言は相当に意味不明である。たぶん活動会員たちにはわかるのだろうけれども、一般人にはわけがわからない。そこでわたくしなりに解説を加えると、今の顕正会は力を蓄えている段階なのだ。いわゆる充電期間みたいなもので、充電完了が三百万なのである。ゆえに今は動かない、いや、動けない。
しかし、一般人は思うだろう。それが重大事ならば、すぐにでも教えるべきであると。
ここに顕正会の欺瞞がある。行き詰まりと言い換えてもいい。ようするに一国諫暁をやっても不発に終わることがわかっているから踏み出せないのだ。では三百万になったらどうするのかであるが、そこがかなり深刻なのである。やらないわけには行かない。しかし、やっても大した結果は得られない。おそらくはそこでまたしても大量の離脱者を出すことになるだろう。今まで頑張ってきた人たちも気づくのだ。ダメだこりゃと。
「浅井先生の見つめられる御馬前の戦いを早めお応えせん」
婦人部新横浜支区班長(首都圏)の発言である。これまた活動会員たちにはわかるものの、一般人にはわけがわからない。そこでわたくしなりに解説を加えると、三百万=御馬前の戦いなのである。三百万は数字だからわかる。では御馬前とは何かであるが、これは大聖人の御馬前という意味で、ようするに大聖人が大将であり、顕正会はその下で戦っているイメージなのである。
そこで先ほどの充電と併せてイメージすると、今は兵力の結集をしている段階で、十分な兵力を整えた上で大聖人の御馬前に馳せ参ずるわけである。
しかし、こうした譬喩表現は現実との齟齬・乖離が大きい。よって、その時を迎えると、なんだ、自分の描いていたイメージとはぜんぜん違う、ガッカリだ、ということになる。
さて、話は変わる。
身延派尼僧を経て入信・・・
女子部第三十三区組長(青森)は名前からして尼僧を彷彿とさせる。
〇〇妙眞
これは本名なのだろうか?
しかし、次の記述を読むと、途中で改名したとも思われる。
体が弱い私を心配した父の勧めで出家し、邪宗・身延派日蓮宗の尼になりました。
先日、自民党のわりと有名な女性議員が名前のことで問題になっていた。よくわからないが、どうやら結婚して姓が変わったらしいのだ。ところが議員として活動する時は旧姓を名乗っている。それの何が問題なのかであるが、彼女は夫婦別姓に反対の立場らしいのだ。ゆえに各方面から矛盾しているじゃないかとのツッコミを受けているわけである。
話が脱線してしまったようだが、ようは顕正会は謗法に関して物凄く潔癖であるからして、くだんの名前が尼僧時代に授かったものだとすれば問題になるだろう。
沖浦氏はめずらしく拙稿にコメントを寄せている。お書きになっていることは大筋で正しい。創価学会員ならば反発して当然であるし、最後の引用御書もお見事である。
浅井先生の目標は、創価学会に追い着け追い越せ、だった。
これは良い意味でも悪い意味でもそのまま使えるわけで、かつて両者が日蓮正宗の信徒団体だった時には、いわば兄弟関係にあって弟は兄を目標に頑張っていた。これは良い意味である。しかし、一方で悪い意味もあって、もともとの正宗の僧俗の中には創価学会の躍進を快く思っていなかった人たちもいた。そういう人たちにしてみれば、どうにかして創価学会をやっつけたいと内心では思い続けていたはずで、おそらくは浅井先生にもそのような気持ちがあったと推測されるのである。
毎度のように言っているが、浅井先生には大目標を掲げておきながら反古にしてしまっている事案がたくさんある。例えば一千万をいつまでに達成するみたいな話である。今はもっぱら三百万であるが、一時期、一千万を掲げていたのは厳然たる事実である。もしこれが名実ともに達成できれば、まさに追い着け追い越せが事相となる。しかし、直前にも書いたように今は三百万の目標が精一杯のところであるし、それにしたってしょせんは名目上の数字に過ぎない。
さて、顕正新聞である。
「この重大事を、まもなく亡国に直面する全日本人に教えなければいけない」
との三百万を急がれる先生のお心が身に迫り・・・
第十八男子部長(首都圏)の発言は相当に意味不明である。たぶん活動会員たちにはわかるのだろうけれども、一般人にはわけがわからない。そこでわたくしなりに解説を加えると、今の顕正会は力を蓄えている段階なのだ。いわゆる充電期間みたいなもので、充電完了が三百万なのである。ゆえに今は動かない、いや、動けない。
しかし、一般人は思うだろう。それが重大事ならば、すぐにでも教えるべきであると。
ここに顕正会の欺瞞がある。行き詰まりと言い換えてもいい。ようするに一国諫暁をやっても不発に終わることがわかっているから踏み出せないのだ。では三百万になったらどうするのかであるが、そこがかなり深刻なのである。やらないわけには行かない。しかし、やっても大した結果は得られない。おそらくはそこでまたしても大量の離脱者を出すことになるだろう。今まで頑張ってきた人たちも気づくのだ。ダメだこりゃと。
「浅井先生の見つめられる御馬前の戦いを早めお応えせん」
婦人部新横浜支区班長(首都圏)の発言である。これまた活動会員たちにはわかるものの、一般人にはわけがわからない。そこでわたくしなりに解説を加えると、三百万=御馬前の戦いなのである。三百万は数字だからわかる。では御馬前とは何かであるが、これは大聖人の御馬前という意味で、ようするに大聖人が大将であり、顕正会はその下で戦っているイメージなのである。
そこで先ほどの充電と併せてイメージすると、今は兵力の結集をしている段階で、十分な兵力を整えた上で大聖人の御馬前に馳せ参ずるわけである。
しかし、こうした譬喩表現は現実との齟齬・乖離が大きい。よって、その時を迎えると、なんだ、自分の描いていたイメージとはぜんぜん違う、ガッカリだ、ということになる。
さて、話は変わる。
身延派尼僧を経て入信・・・
女子部第三十三区組長(青森)は名前からして尼僧を彷彿とさせる。
〇〇妙眞
これは本名なのだろうか?
しかし、次の記述を読むと、途中で改名したとも思われる。
体が弱い私を心配した父の勧めで出家し、邪宗・身延派日蓮宗の尼になりました。
先日、自民党のわりと有名な女性議員が名前のことで問題になっていた。よくわからないが、どうやら結婚して姓が変わったらしいのだ。ところが議員として活動する時は旧姓を名乗っている。それの何が問題なのかであるが、彼女は夫婦別姓に反対の立場らしいのだ。ゆえに各方面から矛盾しているじゃないかとのツッコミを受けているわけである。
話が脱線してしまったようだが、ようは顕正会は謗法に関して物凄く潔癖であるからして、くだんの名前が尼僧時代に授かったものだとすれば問題になるだろう。
2021/3/9 7:48
投稿者:沖浦克治
2021/3/8 21:45
投稿者:沖浦克治
嚴虎さん、晃さん今日は。
先ず嚴虎さん、ご評価に感謝いたします。
晃さん、世間法と仏法の関係です。
仏法は人のためにある法で、社会の根底に仏法理念が
座るなら社会は安定し、その社会が個々人を護る事は既
に書きました。
★個人としての人>その個々人によって構成される社会
>仏法。
この勝劣本迹となります。
ここから少し難しくなります。
あくまでもこの図式は生命を生の側面からのみ見たも
のです。
命は死んだり生まれたりして永遠に続きます。
死の状態と生の状態の双方の奥に、命の実態がありま
す。
『妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり
又此れを当体蓮華とも云うなり、』
(生死一大事血脈抄)
私共は現在生きていますので、当然生の状態からの観
点が優先致します。
ですが、今の私共の状態は方便です。
命の一側面に過ぎません。
方便現涅槃。
ご存じですね。
★釈迦は様々の人生で様々に法を説き、方便として死ん
で見せた。
生も方便、死も方便です。
その奥に不老不死としての命の連続があります。
『法華経の功力を思ひやり候へば不老不死目前にあ
り、ただ歎く所は露命計りなり天たすけ給へと強盛に申
し候、』
(経王殿御返事)
連続する命の本質は不老不死、然し現世では寿命を以
て終了する。
以上の意です。
不老不死の生命の実体から見ると、現世の私共は仮の
姿で、影絵と同じです。
私共の暮らしている娑婆世界とは影絵なのです。
この私共の姿を、五陰仮和合と申します。
この側面から見るなら、世の全ての存在は影絵となり
ます。
ですので、世間法は仏法によって説かれる命の一部分
です。
ここでは、仏法が本、世間は迹となります。
この二重性を理解出来ないと、御書は分かりません。
先ず嚴虎さん、ご評価に感謝いたします。
晃さん、世間法と仏法の関係です。
仏法は人のためにある法で、社会の根底に仏法理念が
座るなら社会は安定し、その社会が個々人を護る事は既
に書きました。
★個人としての人>その個々人によって構成される社会
>仏法。
この勝劣本迹となります。
ここから少し難しくなります。
あくまでもこの図式は生命を生の側面からのみ見たも
のです。
命は死んだり生まれたりして永遠に続きます。
死の状態と生の状態の双方の奥に、命の実態がありま
す。
『妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり
又此れを当体蓮華とも云うなり、』
(生死一大事血脈抄)
私共は現在生きていますので、当然生の状態からの観
点が優先致します。
ですが、今の私共の状態は方便です。
命の一側面に過ぎません。
方便現涅槃。
ご存じですね。
★釈迦は様々の人生で様々に法を説き、方便として死ん
で見せた。
生も方便、死も方便です。
その奥に不老不死としての命の連続があります。
『法華経の功力を思ひやり候へば不老不死目前にあ
り、ただ歎く所は露命計りなり天たすけ給へと強盛に申
し候、』
(経王殿御返事)
連続する命の本質は不老不死、然し現世では寿命を以
て終了する。
以上の意です。
不老不死の生命の実体から見ると、現世の私共は仮の
姿で、影絵と同じです。
私共の暮らしている娑婆世界とは影絵なのです。
この私共の姿を、五陰仮和合と申します。
この側面から見るなら、世の全ての存在は影絵となり
ます。
ですので、世間法は仏法によって説かれる命の一部分
です。
ここでは、仏法が本、世間は迹となります。
この二重性を理解出来ないと、御書は分かりません。
2021/3/8 21:22
投稿者:元顕正会員
200万達成の時に何かしましたっけ?
おそらく300万達成しても何もしないと私は思います。
おそらく300万達成しても何もしないと私は思います。
書き込みにコメント致します。
>浅井先生の目標は、創価学会に追い着け追い越せ、だ
った。
事実なら情けない限りです。
『是をもつて案ずるに大集経の白法隠没の時に次いで
法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん
事も疑うべからざるか、』
(撰時抄)
大聖人門下では無いですね、この志の小ささ低さは。
創価学会は最初から世界をめざしています。
キリスト教、回教を超えろ!!!
一閻浮提広布なら当然です。