2006/2/20

王法の用例が三十八箇所というのは本当か?  
今日あたりは何を書いていいものか迷うところである。
多種多様のコメントが寄せられて、しかも現在進行形でもあるから、どのように応じてよいものやら・・・

・・・こういう時は得意の独白モードに限る。

御書における「王法」が、果して阿部教学部長のいう「あらゆる社会生活の原理」を意味するか、あるいは「国家・王の威光勢力・国主の統治権・国家権力・政治・国法」等を意味するかは、御書における用例を拝する以外にない。重要なことなので、繁をいとわず御書中の全用例を拝することにする。
(中略)
以上が、御書中の全用例三十八箇所である。

「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」からの引用である。
今日でこそ、御書検索は容易なことであるが、平成二年当時はどうだったであろうか? 浅井先生においては自分で御書を丹念に拝読して、王法の用例をピックアップしていったのであろうと想像する。これは大変なことである。

自分はこの平成二年の諫暁書を何度となく読んでいるが、はっきり言ってこの部分はすっ飛ばして読んでいた。実は案外に、御書を読まない顕正会員が多いように思う。折伏理論書でも同様に、御書をすっ飛ばして読んでしまっている人が多いようなのである。
ようするに、御書は古文であって取っ付きにくい、それで理論書で言えば、地の文すなわち浅井先生の言葉だけを読んで、御書は飛ばしてしまっているような読み方の会員が少なくないようなのである。わたくしもそうだったのだ。

今はようやく拝読ということがわかってきた。ようは理解できるかできないかではなく、大聖人の御説法を復唱できるということの有り難さなのである。
通常、文章というのは意味がわからないとつまらないし、読めないものである。しかし、御書は意味がわからなくても、有り難いとの思いだけで、読めてしまうのだ。
別の言い方をすると、つまらないと思っているうちは、本心から有り難いとの思いを懐いていないわけであって、いわゆる一念信解に至っていないということなのだと思う。

これはまた叱られそうだが、折伏理論書は地の文を読むのではなく、引用の御書を読むべきなのである。

さて、今日は宿題にしておこう。
浅井先生いわく、「王法」は御書に全部で三十八箇所あると。
わたくしは、もう一箇所あるような気がするのだが・・・

2006/2/21  9:56

投稿者:富士川一郎
皇室が謗法か?と言う言葉が出てますが、全面的には謗法とはいえまい。

杉谷香道師著「堀日亨上人口述」の中の第1章神社論には『明治維新の神仏分離までは神社は邪宗仏教寺院の管轄下にあり、神社に「僧官」(主に真言僧)が入っていた。しかし、維新以後は「僧官」は消えた。そこで宗祖御在世の神社と現今の神社は違う。そこで再考察が必要。』と言われ、さらに『神社参詣差し支え無し』と言う言葉まであられる。もちろん、その時代その時代の一時の便法もあるから、それを以て、即時に「現代は神社容認」をするものでは無いが、許容の範疇にこのような堀日亨上人の解釈もあることをご了解頂きたい。

さて、天皇家はなるほど神道的な儀式を行っているが、その形は法華が中心になっており、数人の皇后様、宮様の家に当宗の常従御本尊様が入っている。
そもそも衣冠束帯は神道の常服では無い。神社側が皇室の服装を真似たにすぎない。天皇家は古来より明治以前までは仏教徒であられた。聖武天皇は自身を「三宝の奴」と言われ、聖徳太子は「篤く三宝を敬え」と言われている。

また、近くは貞明皇后様に下された「御守御本尊様」は、後に日淳上人様から「永代感得允可」が下され、東宮様に承継されている。そもそも天皇家に生まれるには「十善の徳」が必要であり、既に過去世におかれて戒が下されている。そのため「受戒」とは別に「奉本」と言う化儀をもって、貞明皇后様に御本尊様が下されたと聞く。それも踏まえて考察が必要であろう。

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