2022/1/1
クダシブミ
まず、大沢氏に感謝申し上げたい。本当ならば自分で積極的に史資料を集めて研究すればいいのだが、正直なところそこまでの情熱はない。わたくしは何事も中途半端な人間なのである。
平成新編には例の四菩薩についての記述は載っていない。ごく単純に日朗師の存在に違和感があって、一般の信徒レベルには読ませないほうがいいとの判断なのかもしれないと思う。ちなみにうろ覚えの話で恐縮だが、かつて浅井先生は御書講義か何かの時に安立行菩薩のことに言及したことがあった。いわく、安立行菩薩は上野殿である、と。何か根拠があればいいのだが、日朗師では具合が悪い、上野殿のほうが収まりがいい、というような浅井先生の勝手な願望を披露しただけなのではないかと思えて仕方がない。
それはさておき、この件に関して沖浦氏がヨコヤリを入れてきた。
体調が極めて悪いので花押を書く事が出来ないとおおせです。
その大聖人が10月11日に本因妙抄を書かれて花押をかけるかどうか?
誰でも理解出来る道理です。
新年早々、クギを刺しておこう。これは怨嫉謗法の可能性があるので、気をつけられたほうがよい。
道理を示そう。氏は御相伝書について内部規定などと貶めている。だが、しかし、ここでは大沢氏がわたくしのために紹介して下さった史料なのである。氏は正真正銘の日蓮正宗信徒であり、わたくしはそうではないものの日蓮正宗無所属信徒を名乗っている。ようするに二人でやり取りする分には内部規定だろうとまったく問題ないのである。沖浦氏もそう言っていたはずである。だったら口出しするな、である。つまり、ヨコヤリを入れた時点で怨嫉謗法を犯したことになるのだ。
とは言え、大沢氏もいつものごとく沖浦氏に対して反論を加えているので、今さら謗法か否かを論じても仕方がないのかもしれない。
そこで本因妙抄の花押についてわたくしの見解を示しておくと、沖浦氏の指摘は一見すると説得力があるように思えるが、実際にはかなりピントが外れていると思う。もし仮に同抄の御真蹟とされるものが存在したとしよう。その時こそ疑うべき材料として花押云々の話が出てくるのだ。現時点では御真蹟の存在すら確認されていないのだから、そこで花押のことをとやかく言っても意味はない。まさにその土俵で戦えば、大沢氏の反論が成り立つことになる。問題はそこではなく、まず御真蹟の有無をどう取り扱うかであり、真蹟がないものは議論の対象外であるという姿勢の人もいるわけであり、その場合は議論が成り立たないことになる。しかし、何でもかんでも真蹟を主張するのはかなり偏波であるからして、もともと存在したが何かの事故で消失してしまったものと仮定して、その上で議論するという立場の人もいる。さてそこで花押の存在を疑問視するという話もあって当然ではあるのだが、わたくしに言わせれば下の下の議論である。ほとんどイチャモンのレベルということだ。どうせ議論をするのならば本因妙抄の中身を議論すべきだろう。
さて、顕正新聞の続きである。
明年は、登用・五級・三級の三種目の試験が実施されます。
毎年のように同じツッコミを入れている。四級はどうしたのかと。あるいは二級や一級はいつやるのかと。
日目上人に託された「下し文」も、大聖人様が国立戒壇建立の御遺命を下し給うに当り、後宇多天皇をして遺さしめられた重き文証・・・
おそらく意味不明だろう。
「朕、他日法華を持たば、必ず富士山麓に求めん」
これが弘安五年二月二十九日付のクダシブミの文面である。そもそもこの重要な紙片はその後どうなったのか、今もどこかに保存されているのか、あまり聞いたことがない。それはさておき、先ほどの本因妙抄の話題と同様に、これが確たる文書として存在したと仮定して議論を進めると、この富士山麓の意味が問題となってくる。当時は大石寺その他、今のような富士五山は存在しなかった。それでいて後宇多天皇のクダシブミには富士山麓と認められている。いったいどういうことなのか?
前掲は何となくその辺の事情を踏まえて言っているのだろうことが見て取れるのだ。
いま国債をいくら発行しても国家破産しないと嘯く論調が蔓延る世相に・・・
経済オンチのわたくしも最近は少しずつわかってきたような気がする。上掲はいわゆるMMTと呼ばれるもので、現政権は必ずしもそれを主張しているわけではない。大袈裟な言い方をすると、経済における極右勢力が盛んに主張しているという図式になるのかもしれない。
ちなみに後日、能安寺の公式サイトを確認するとなんと閉鎖されており・・・
男子部第五総部長(首都圏)は斬り込み隊長みたいな存在で、どうやら日蓮正宗の僧俗に恐れられているようである。今回は能安寺を襲った(?)らしく、活動報告を読むと相手のタジタジぶりが伝わってくる。もっとも顕正新聞の内容は盛っている場合が少なくないので、そこは割り引いて読む必要がある。ただし、上掲のようなことは実に単純な話であり、事実関係を確認すれば一発で済むことである。
なんと、本当に閉鎖されているではないか!
ここでわたくしが思うのは、いずれリニューアルされたものが公開されるのだろうことである。顕正会に文句を言われないようなものを作って公開するに違いないのだ。
女子部第二百五十一区長(奈良・和歌山県)の記事には次の記述がある。
住職は「登山費用をタダにしてあげるから入信してほしい」とか・・・
具体的な寺院名が書かれていないところがイヤらしい。
どうでもいい話だが、同じ紙面の下段にアマガエルと思しき写真がある。これがなかなかいい感じなのだ。
学会男子部地区本部長の父と学会婦人部に所属する母・・・
創価学会から入会してくる人もいろいろである。たぶん上掲の役職はデタラメだろう。単なる記憶違いの場合もあるだろうし、本人はもともと大して創価学会で活動していなかった場合もある。いずれにしてもそれをそのまま載せてしまう編集部もどうかしていると思う。
「俺は学会だ。教学副部長もやってたんだ」
この役職もデタラメっぽい。
すり鉢状の異様な造りで、土足で入って飲食をしながら御本尊様を拝していた・・・
七十七歳にもなると記憶もアイマイになってくるのかもしれない。土足はともかくとして飲食しながら云々が解せない。
食法餓鬼・水島日叡のえげつなさ
世相閻魔帳の第二十二回は先ほどの男子部第五総部長の記事と連動している。
十二月二日現在、能安寺公式サイトは閉鎖され、誰もアクセスできない状態となってしまった。
一ケ月後の今も同じである。
本コラムとしては、池に落ちた犬を打つつもりは毛頭ないが・・・
不勉強のわたくしはこの言い回しを知らなかった。もっともこういう表現を使うのもどうかと思うので、今後も使うことはないだろう。これこそエゲツナサの見本みたいな文章である。
「厄よけ祈念」で人々を騙す邪教のごとき能安寺の冊子。これを「食法餓鬼」というのだ
悩ましいところである。本文中には日顕上人の御指南が長々と引用されている。上人の御言葉を素直に読めば、確かに邪教のごとき云々の指摘が当てはまりそうなのである。
「法要」を利用した
阿漕な勧誘
ここも悩ましい。顕正会の折伏も騙まし討ちとの批判を受けているが、宗門のそれも似たり寄ったりかもしれない。
(原文ママ)
これがイヤらしい。あえてイチャモンをつければ、だったら他の引用は原文通りではないのか、となるだろう。なぜここに限ってわざわざ原文ママと入れたのだろうか?
新型コロナに罹患、25日も生死を彷徨う
男子部第九隊総支隊長(首都圏)は二十五日間も意識不明だったという。凄い体験談だ。
遥拝勤行根本にプロランナーとして活躍
パラ五輪選手を指導、銅メダル獲得!
失礼ながらプロもピンキリである。とは言え、指導者として名を馳せることもあるので、今後の活躍に注目したい。
平成新編には例の四菩薩についての記述は載っていない。ごく単純に日朗師の存在に違和感があって、一般の信徒レベルには読ませないほうがいいとの判断なのかもしれないと思う。ちなみにうろ覚えの話で恐縮だが、かつて浅井先生は御書講義か何かの時に安立行菩薩のことに言及したことがあった。いわく、安立行菩薩は上野殿である、と。何か根拠があればいいのだが、日朗師では具合が悪い、上野殿のほうが収まりがいい、というような浅井先生の勝手な願望を披露しただけなのではないかと思えて仕方がない。
それはさておき、この件に関して沖浦氏がヨコヤリを入れてきた。
体調が極めて悪いので花押を書く事が出来ないとおおせです。
その大聖人が10月11日に本因妙抄を書かれて花押をかけるかどうか?
誰でも理解出来る道理です。
新年早々、クギを刺しておこう。これは怨嫉謗法の可能性があるので、気をつけられたほうがよい。
道理を示そう。氏は御相伝書について内部規定などと貶めている。だが、しかし、ここでは大沢氏がわたくしのために紹介して下さった史料なのである。氏は正真正銘の日蓮正宗信徒であり、わたくしはそうではないものの日蓮正宗無所属信徒を名乗っている。ようするに二人でやり取りする分には内部規定だろうとまったく問題ないのである。沖浦氏もそう言っていたはずである。だったら口出しするな、である。つまり、ヨコヤリを入れた時点で怨嫉謗法を犯したことになるのだ。
とは言え、大沢氏もいつものごとく沖浦氏に対して反論を加えているので、今さら謗法か否かを論じても仕方がないのかもしれない。
そこで本因妙抄の花押についてわたくしの見解を示しておくと、沖浦氏の指摘は一見すると説得力があるように思えるが、実際にはかなりピントが外れていると思う。もし仮に同抄の御真蹟とされるものが存在したとしよう。その時こそ疑うべき材料として花押云々の話が出てくるのだ。現時点では御真蹟の存在すら確認されていないのだから、そこで花押のことをとやかく言っても意味はない。まさにその土俵で戦えば、大沢氏の反論が成り立つことになる。問題はそこではなく、まず御真蹟の有無をどう取り扱うかであり、真蹟がないものは議論の対象外であるという姿勢の人もいるわけであり、その場合は議論が成り立たないことになる。しかし、何でもかんでも真蹟を主張するのはかなり偏波であるからして、もともと存在したが何かの事故で消失してしまったものと仮定して、その上で議論するという立場の人もいる。さてそこで花押の存在を疑問視するという話もあって当然ではあるのだが、わたくしに言わせれば下の下の議論である。ほとんどイチャモンのレベルということだ。どうせ議論をするのならば本因妙抄の中身を議論すべきだろう。
さて、顕正新聞の続きである。
明年は、登用・五級・三級の三種目の試験が実施されます。
毎年のように同じツッコミを入れている。四級はどうしたのかと。あるいは二級や一級はいつやるのかと。
日目上人に託された「下し文」も、大聖人様が国立戒壇建立の御遺命を下し給うに当り、後宇多天皇をして遺さしめられた重き文証・・・
おそらく意味不明だろう。
「朕、他日法華を持たば、必ず富士山麓に求めん」
これが弘安五年二月二十九日付のクダシブミの文面である。そもそもこの重要な紙片はその後どうなったのか、今もどこかに保存されているのか、あまり聞いたことがない。それはさておき、先ほどの本因妙抄の話題と同様に、これが確たる文書として存在したと仮定して議論を進めると、この富士山麓の意味が問題となってくる。当時は大石寺その他、今のような富士五山は存在しなかった。それでいて後宇多天皇のクダシブミには富士山麓と認められている。いったいどういうことなのか?
前掲は何となくその辺の事情を踏まえて言っているのだろうことが見て取れるのだ。
いま国債をいくら発行しても国家破産しないと嘯く論調が蔓延る世相に・・・
経済オンチのわたくしも最近は少しずつわかってきたような気がする。上掲はいわゆるMMTと呼ばれるもので、現政権は必ずしもそれを主張しているわけではない。大袈裟な言い方をすると、経済における極右勢力が盛んに主張しているという図式になるのかもしれない。
ちなみに後日、能安寺の公式サイトを確認するとなんと閉鎖されており・・・
男子部第五総部長(首都圏)は斬り込み隊長みたいな存在で、どうやら日蓮正宗の僧俗に恐れられているようである。今回は能安寺を襲った(?)らしく、活動報告を読むと相手のタジタジぶりが伝わってくる。もっとも顕正新聞の内容は盛っている場合が少なくないので、そこは割り引いて読む必要がある。ただし、上掲のようなことは実に単純な話であり、事実関係を確認すれば一発で済むことである。
なんと、本当に閉鎖されているではないか!
ここでわたくしが思うのは、いずれリニューアルされたものが公開されるのだろうことである。顕正会に文句を言われないようなものを作って公開するに違いないのだ。
女子部第二百五十一区長(奈良・和歌山県)の記事には次の記述がある。
住職は「登山費用をタダにしてあげるから入信してほしい」とか・・・
具体的な寺院名が書かれていないところがイヤらしい。
どうでもいい話だが、同じ紙面の下段にアマガエルと思しき写真がある。これがなかなかいい感じなのだ。
学会男子部地区本部長の父と学会婦人部に所属する母・・・
創価学会から入会してくる人もいろいろである。たぶん上掲の役職はデタラメだろう。単なる記憶違いの場合もあるだろうし、本人はもともと大して創価学会で活動していなかった場合もある。いずれにしてもそれをそのまま載せてしまう編集部もどうかしていると思う。
「俺は学会だ。教学副部長もやってたんだ」
この役職もデタラメっぽい。
すり鉢状の異様な造りで、土足で入って飲食をしながら御本尊様を拝していた・・・
七十七歳にもなると記憶もアイマイになってくるのかもしれない。土足はともかくとして飲食しながら云々が解せない。
食法餓鬼・水島日叡のえげつなさ
世相閻魔帳の第二十二回は先ほどの男子部第五総部長の記事と連動している。
十二月二日現在、能安寺公式サイトは閉鎖され、誰もアクセスできない状態となってしまった。
一ケ月後の今も同じである。
本コラムとしては、池に落ちた犬を打つつもりは毛頭ないが・・・
不勉強のわたくしはこの言い回しを知らなかった。もっともこういう表現を使うのもどうかと思うので、今後も使うことはないだろう。これこそエゲツナサの見本みたいな文章である。
「厄よけ祈念」で人々を騙す邪教のごとき能安寺の冊子。これを「食法餓鬼」というのだ
悩ましいところである。本文中には日顕上人の御指南が長々と引用されている。上人の御言葉を素直に読めば、確かに邪教のごとき云々の指摘が当てはまりそうなのである。
「法要」を利用した
阿漕な勧誘
ここも悩ましい。顕正会の折伏も騙まし討ちとの批判を受けているが、宗門のそれも似たり寄ったりかもしれない。
(原文ママ)
これがイヤらしい。あえてイチャモンをつければ、だったら他の引用は原文通りではないのか、となるだろう。なぜここに限ってわざわざ原文ママと入れたのだろうか?
新型コロナに罹患、25日も生死を彷徨う
男子部第九隊総支隊長(首都圏)は二十五日間も意識不明だったという。凄い体験談だ。
遥拝勤行根本にプロランナーとして活躍
パラ五輪選手を指導、銅メダル獲得!
失礼ながらプロもピンキリである。とは言え、指導者として名を馳せることもあるので、今後の活躍に注目したい。
2022/1/3 7:13
投稿者:沖浦克治
2022/1/2 11:48
投稿者:.
>体調が極めて悪いので花押を書く事が出来ないとおおせです。
その大聖人が10月11日に本因妙抄を書かれて花押をかけるかどうか?
表層的な事象を捉え、目には見えない背後を全くと言って良いほど、掘り
下げる事が出来ていないだけ。後加文の「理由」を、考えりゃ分かんじゃ
ね?
その大聖人が10月11日に本因妙抄を書かれて花押をかけるかどうか?
表層的な事象を捉え、目には見えない背後を全くと言って良いほど、掘り
下げる事が出来ていないだけ。後加文の「理由」を、考えりゃ分かんじゃ
ね?
2022/1/2 9:21
投稿者:大沢克日子
一、園城寺申状及び御下し文。
大聖人の代官として日目上人始めて天奏を遂げたり、此れを富士の眉目として誇りたるも今や正本写本共に逸して空筺を西山に存するのみ、嗚呼悼ましいかな。
(略)
(同上[既に富要集第二巻に出す]、西山に写本有る日助の置文)
日蓮聖人の御影並びに御下し文、又園城寺申状の事。
編者云く具文は第二僧俗譲状の下に在り、此の三重宝大石寺より転じて時の南条宗家に保管せられたるが、此の時綱時長の父子代共に大石寺の道師の敵となりて終る所明ならず(略)其儘(そのまま)南条時長一家の没落と共に紛失したりしや又は一度取りかへしての後西山本門寺にて紛失したりしやを知らず、但し此より百二十年後の妙本寺日要の談には東台谷戸(東光寺か)に在りと云へば若し此談を正とせば日助系の西山徒の責に係るなり、偏に後賢の研究を仰ぐ。
(富要集8−330)
・二箇相承も、西山の某貫首が北山から相承書を奪おうとして官憲を頼りあのような状況になり、園城寺申状・御下し文も南条家の没落とともに失われたか、西山で失われたか(ただ、存在するという談あり)ということです。
・本門寺戒壇建立までに、
「事相たる故に一重の大難之有るか」 (御書 六七九n)
で、前代未聞・宗史未曾有の大難があるはずですから、その大難の後、広宣流布前夜には、
「願わくは、二個相承とともに、冥護せられて、優曇華の出現を祈るや切なり。」
との日亨上人の仰せが現実になるものと信じます。
(その大難の前に死んでるかもしれませんが、生きてその大難に遭遇したとして、信薄く、その大難のはじめに難を恐れて退転したり、横難により生命を失うことのないよう、日々真面目に信仰したいと思います)
大聖人の代官として日目上人始めて天奏を遂げたり、此れを富士の眉目として誇りたるも今や正本写本共に逸して空筺を西山に存するのみ、嗚呼悼ましいかな。
(略)
(同上[既に富要集第二巻に出す]、西山に写本有る日助の置文)
日蓮聖人の御影並びに御下し文、又園城寺申状の事。
編者云く具文は第二僧俗譲状の下に在り、此の三重宝大石寺より転じて時の南条宗家に保管せられたるが、此の時綱時長の父子代共に大石寺の道師の敵となりて終る所明ならず(略)其儘(そのまま)南条時長一家の没落と共に紛失したりしや又は一度取りかへしての後西山本門寺にて紛失したりしやを知らず、但し此より百二十年後の妙本寺日要の談には東台谷戸(東光寺か)に在りと云へば若し此談を正とせば日助系の西山徒の責に係るなり、偏に後賢の研究を仰ぐ。
(富要集8−330)
・二箇相承も、西山の某貫首が北山から相承書を奪おうとして官憲を頼りあのような状況になり、園城寺申状・御下し文も南条家の没落とともに失われたか、西山で失われたか(ただ、存在するという談あり)ということです。
・本門寺戒壇建立までに、
「事相たる故に一重の大難之有るか」 (御書 六七九n)
で、前代未聞・宗史未曾有の大難があるはずですから、その大難の後、広宣流布前夜には、
「願わくは、二個相承とともに、冥護せられて、優曇華の出現を祈るや切なり。」
との日亨上人の仰せが現実になるものと信じます。
(その大難の前に死んでるかもしれませんが、生きてその大難に遭遇したとして、信薄く、その大難のはじめに難を恐れて退転したり、横難により生命を失うことのないよう、日々真面目に信仰したいと思います)
2022/1/2 9:12
投稿者:.
>久遠寺が聖地である事は御書に明確です。
学会本部も、久遠寺近辺に建てりゃ良かったのにねぇ。
何で信濃町なんだか。
学会本部も、久遠寺近辺に建てりゃ良かったのにねぇ。
何で信濃町なんだか。
2022/1/2 8:58
投稿者:大沢克日子
>富士山(本門寺 末法)
久成釈迦仏
付属弟子 上行菩薩 日蓮聖人
垂迹神 天照大神 八幡大菩薩 [誤]御当代→[正]当御代
本化垂迹師檀(後略)」
(歴代法主全書1-43、原文は漢文調)
・訂正するとともに、お詫び申し上げます。
大変申し訳ございませんでした。
そして、翌弘安五(一二八二)年にも、再び日目上人に命じて天奏をされたという。
この時、奏聞を受けた後宇多天皇は、伝奏を通じて園城寺の碩学に対し、大聖人の諫状の判定を命じた。
園城寺の碩徳の答旨は、正像末三時弘教の次第を解き明かし、謗法を対治して正法を立つべしとの大聖人の道理に叶った憂国の諫言に対して、絶讃の言葉を惜しまなかったと伝えられている。
後宇多天皇は大いに喜び、「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」との言葉を添えて、「下し文」を下賜された。
これが「弘安五年の御下し文」である。
この『申状』と『下し文』の二書は、重宝として日興上人の滅後は大石寺の六老によって巡に守護されていたが、日目上人の滅後、日代系の西山に伝わって紛失したと伝えられている。
(日蓮大聖人正伝改訂版398〜399頁)
・日目上人の弘安五年の天奏の折、「園城寺の碩徳の答旨は、正像末三時弘教の次第を解き明かし」とあります。
「仏教を弘めん人は必ず時を知るべし」
(御書270頁)
ですので、大聖人様も三時弘教の次第に沿ってお説きになられ、園城寺の碩学も絶賛したのではないかと思います。
そしてその次第は、日興上人の残された三時弘経次第や、本門弘通事にあるように、像法の比叡山に対し、富士山を末法適時の戒壇建立の勝地となさったのかもしれません。
故に後宇多天皇は、「他日法華を持たば」とされたのでしょう。
日蓮大聖人は「用いずば山林に身を隠さん」(御書960頁)として、日興上人の勧めにより身延入山されましたが、「国主此の法を立てらるれば」最勝の地をたずねて本門寺の戒壇を建立するのは当然ですので、身延に執着する必要はありません。
「迹門 比叡山 本(もと)は日枝山 吾山 御祖
本門 富士山 蓮華山 大日山」
(日興上人「本門弘通事」歴代法主全書1−45)
久成釈迦仏
付属弟子 上行菩薩 日蓮聖人
垂迹神 天照大神 八幡大菩薩 [誤]御当代→[正]当御代
本化垂迹師檀(後略)」
(歴代法主全書1-43、原文は漢文調)
・訂正するとともに、お詫び申し上げます。
大変申し訳ございませんでした。
そして、翌弘安五(一二八二)年にも、再び日目上人に命じて天奏をされたという。
この時、奏聞を受けた後宇多天皇は、伝奏を通じて園城寺の碩学に対し、大聖人の諫状の判定を命じた。
園城寺の碩徳の答旨は、正像末三時弘教の次第を解き明かし、謗法を対治して正法を立つべしとの大聖人の道理に叶った憂国の諫言に対して、絶讃の言葉を惜しまなかったと伝えられている。
後宇多天皇は大いに喜び、「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」との言葉を添えて、「下し文」を下賜された。
これが「弘安五年の御下し文」である。
この『申状』と『下し文』の二書は、重宝として日興上人の滅後は大石寺の六老によって巡に守護されていたが、日目上人の滅後、日代系の西山に伝わって紛失したと伝えられている。
(日蓮大聖人正伝改訂版398〜399頁)
・日目上人の弘安五年の天奏の折、「園城寺の碩徳の答旨は、正像末三時弘教の次第を解き明かし」とあります。
「仏教を弘めん人は必ず時を知るべし」
(御書270頁)
ですので、大聖人様も三時弘教の次第に沿ってお説きになられ、園城寺の碩学も絶賛したのではないかと思います。
そしてその次第は、日興上人の残された三時弘経次第や、本門弘通事にあるように、像法の比叡山に対し、富士山を末法適時の戒壇建立の勝地となさったのかもしれません。
故に後宇多天皇は、「他日法華を持たば」とされたのでしょう。
日蓮大聖人は「用いずば山林に身を隠さん」(御書960頁)として、日興上人の勧めにより身延入山されましたが、「国主此の法を立てらるれば」最勝の地をたずねて本門寺の戒壇を建立するのは当然ですので、身延に執着する必要はありません。
「迹門 比叡山 本(もと)は日枝山 吾山 御祖
本門 富士山 蓮華山 大日山」
(日興上人「本門弘通事」歴代法主全書1−45)
2022/1/2 7:51
投稿者:.
>社会の学説の常識となっています。
社会の学説の常識って何ですか?ww
学説となっています。もしくは「社会常識となっている」
だったら、理解出来るるんですけど。
それと、どの学会で「学説になっている」んですか?ww
宗教学会?社会学会?ww
社会の学説の常識って何ですか?ww
学説となっています。もしくは「社会常識となっている」
だったら、理解出来るるんですけど。
それと、どの学会で「学説になっている」んですか?ww
宗教学会?社会学会?ww
2022/1/2 7:45
投稿者:.
>久遠寺が聖地である事は御書に明確です。
『彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり、』
(南条殿御返事)
明快です。
あのさぁ(笑)、学会は「御宗門が大聖人の仏法に違背する、
邪義を振りかざすようになったから」、御宗門から独立され
たんでしょ?
同じじゃん(笑)
身延が謗法の地になった。欺瞞に満ちた邪義を、破折しても
相手が聞き入れなかった。だから「聖地」じゃなくなった。
構図(本質)は、一緒。それだけの、簡単な話じゃないの?www
『彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり、』
(南条殿御返事)
明快です。
あのさぁ(笑)、学会は「御宗門が大聖人の仏法に違背する、
邪義を振りかざすようになったから」、御宗門から独立され
たんでしょ?
同じじゃん(笑)
身延が謗法の地になった。欺瞞に満ちた邪義を、破折しても
相手が聞き入れなかった。だから「聖地」じゃなくなった。
構図(本質)は、一緒。それだけの、簡単な話じゃないの?www
2022/1/2 7:32
投稿者:.
>何でもかんでも真蹟を主張するのはかなり偏波であるからして、
もともと存在したが何かの事故で消失してしまったものと仮定し
て、その上で議論するという立場の人もいる。
そもそも法華経だって、『創作経典』に過ぎない事が、研究で明らか
になってんのに、何言ってんだろうね(笑)
>さてそこで花押の存在を疑問視するという話もあって当然ではあるの
だが、わたくしに言わせれば下の下の議論である。ほとんどイチャモ
ンのレベルということだ。
しょうがないんじゃない?ww
>どうせ議論をするのならば本因妙抄の中身を議論すべきだろう。
たった数年で、言説がコロコロ変わるレベルだからねぇ。
無理じゃね?ww
もともと存在したが何かの事故で消失してしまったものと仮定し
て、その上で議論するという立場の人もいる。
そもそも法華経だって、『創作経典』に過ぎない事が、研究で明らか
になってんのに、何言ってんだろうね(笑)
>さてそこで花押の存在を疑問視するという話もあって当然ではあるの
だが、わたくしに言わせれば下の下の議論である。ほとんどイチャモ
ンのレベルということだ。
しょうがないんじゃない?ww
>どうせ議論をするのならば本因妙抄の中身を議論すべきだろう。
たった数年で、言説がコロコロ変わるレベルだからねぇ。
無理じゃね?ww
2022/1/2 5:58
投稿者:沖浦克治
久遠寺が聖地である事は御書に明確です。
『彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり、』
(南条殿御返事)
明快です。
そして久遠寺の2世は民部日向師です。
以下SNSから。
★日向(にこう、建長5年2月16日(1253年3月16日) - 正
和3年9月3日(1314年10月12日))は、日蓮六老僧の一
人。佐渡公日向、また後には民部阿闍梨日向(みんぶあじ
ゃりにこう)、安立院とも名乗った。現在の日蓮宗の宗史
上においては、総本山身延山久遠寺第二世に列せられてい
る。
〜引用終わり〜
ですから日興が日朗がなどは関係ありません。
『彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり、』
(南条殿御返事)
明快です。
そして久遠寺の2世は民部日向師です。
以下SNSから。
★日向(にこう、建長5年2月16日(1253年3月16日) - 正
和3年9月3日(1314年10月12日))は、日蓮六老僧の一
人。佐渡公日向、また後には民部阿闍梨日向(みんぶあじ
ゃりにこう)、安立院とも名乗った。現在の日蓮宗の宗史
上においては、総本山身延山久遠寺第二世に列せられてい
る。
〜引用終わり〜
ですから日興が日朗がなどは関係ありません。
2022/1/2 5:53
投稿者:沖浦克治
皆様、おはようございます。
極めて基本的な事ですが、大聖人の宗教上の聖地は久遠
寺です。
以下SNSから。
★文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭
南部六郎実長(波木井実長)が、佐渡での流刑を終えて鎌
倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、法華経の読
誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る
蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した。
弘安4年(1281年)に十間四面の大坊が整備され、日蓮に
よって「身延山妙法華院久遠寺」と名付けられたという
[要出典]。日蓮は弘安5年(1282年)9月に湯治療養のため
常陸(加倉井)の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため
身延山を下ったが、途中、信徒であった武蔵国の池上宗仲
邸(現在の東京都大田区本行寺)にて病状が悪化したため
逗留し、6人の弟子「六老僧」を定めて、同地において同
年10月13日に死去した。「いづくにて死に候とも墓をば身
延の沢にせさせ候べく候」との日蓮の遺言に従い、遺骨は
身延山に祀られた。当地では足かけ9ヵ年の生活であっ
た。
日蓮の身延山での生活は日蓮遺文に記されており、「人は
無きときは四十人、ある時は六十人」とあるように、大人
数で生活をしていたと考えられている。各地の信徒より生
活必需品が多く届けられ、日蓮はこの身延山をインドの霊
鷲山に見立て、信仰の山として位置づけている。遺文の3
分の2は身延山での生活する中で執筆されており、日蓮真
筆の曼荼羅もほとんどがここ身延山で手がけられている。
身延山は日蓮教団における最高の聖地であると位置づけら
れており、日蓮の遺骨は歴代の法主(住職)により、日蓮
の遺言通り今日まで護られている。
極めて基本的な事ですが、大聖人の宗教上の聖地は久遠
寺です。
以下SNSから。
★文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭
南部六郎実長(波木井実長)が、佐渡での流刑を終えて鎌
倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、法華経の読
誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る
蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した。
弘安4年(1281年)に十間四面の大坊が整備され、日蓮に
よって「身延山妙法華院久遠寺」と名付けられたという
[要出典]。日蓮は弘安5年(1282年)9月に湯治療養のため
常陸(加倉井)の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため
身延山を下ったが、途中、信徒であった武蔵国の池上宗仲
邸(現在の東京都大田区本行寺)にて病状が悪化したため
逗留し、6人の弟子「六老僧」を定めて、同地において同
年10月13日に死去した。「いづくにて死に候とも墓をば身
延の沢にせさせ候べく候」との日蓮の遺言に従い、遺骨は
身延山に祀られた。当地では足かけ9ヵ年の生活であっ
た。
日蓮の身延山での生活は日蓮遺文に記されており、「人は
無きときは四十人、ある時は六十人」とあるように、大人
数で生活をしていたと考えられている。各地の信徒より生
活必需品が多く届けられ、日蓮はこの身延山をインドの霊
鷲山に見立て、信仰の山として位置づけている。遺文の3
分の2は身延山での生活する中で執筆されており、日蓮真
筆の曼荼羅もほとんどがここ身延山で手がけられている。
身延山は日蓮教団における最高の聖地であると位置づけら
れており、日蓮の遺骨は歴代の法主(住職)により、日蓮
の遺言通り今日まで護られている。
年末年始にバタバタと仕事が来て少し収入がありました
のて、恋女房にお年玉で15万円渡しました。
今年で創価人になって60年の節目です。
入会当時のメンバーは一様に貧しく、
★将来奥さんに、今月の化粧料だよ。と5万円位渡せるよ
うになりなさい。
とよく言われましたが、当時は夢を聞くようでした。
ですが本当にそうなりました。
創価って素晴らしい❗❗