2022/1/30

ドヒョウ  
沖浦氏と蝸牛氏の間で有意義な議論が行なわれるかに思えたが、あまり進展しなかった。おそらくは投稿頻度の問題なのだろう。蝸牛氏はそれほど頻繁に投稿する人ではないので、こればかりは仕方のないことである。

ところで沖浦氏からはナゾのコメントが寄せられている。

 貴方のブログで貴方を知り、18年前ご挨拶のメールを頂いたことは忘れません。

こういうことを書くから、いろいろと疑心暗鬼を生むのだ。上掲はぜんぶがぜんぶを間違いであるとは言わないが、重要な部分において事実誤認がある。沖浦氏の記憶違いというか、かなり古い話なので記憶がアイマイになっているのだろう。

十八年前は2004年に相当する。ところが拙ブログはその時には存在していない。パソコンで閲覧すると左側に過去ログ一覧が表示される。2005年5月が最初なのである。

一年くらいの誤差は大した問題ではない。それはその通りだろう。ただし、手前にズレる分には不審はないけれども、その逆は大いに不審である。

シツコイようだが繰り返そう。

2005年にブログを開始した。ゆえに沖浦氏が拙ブログの存在を知った時期を2006年だとか2007年と言うのであれば一年や二年の誤差はただの記憶違いで済ますことができる。しかし、逆に2003年とか2004年とするのはツジツマの合わない話である。

さて、沖浦氏はこれにどう答えるだろうか?

ちなみにわたくしは当時のことを、少なくとも沖浦氏よりは正確に記憶している。その辺を詳しく書いてもいいのだが、別に大した話でもないのであまり書く意欲が湧かない。とりあえず沖浦氏の返答を待って、その上で何かしら書くかもしれない。

このところの大沢氏の投稿は拙稿を踏まえてのものであり、その意味では理想的なコメント投稿者と言えるだろう。

 300万人も顕正会員がいるのなら、医師も少なくとも何十名かいるはずですし、浅井会長に正確な情報を提供できないのでしょうか?

たぶん三百万はイヤミを込めて書いたのだろう。正確には二百三十万弱である。いずれにしてもたくさん会員がいるのだから医師もそれ相応の人数がいるはずとの指摘は正しい。わたくしの思うに、そうした医師たちが顕正新聞に寄稿すればいいのである。しかし、現状では顕正会の累積会員数の中に医師たちが何人いようとも、いわゆる熱心な活動会員はほぼゼロなのだと思われる。前にも書いたが、かつてはどこかの病院長が登壇していたことがあった。あるいは男子部で隊長をやっていた医師もいた。逆に言えば、今はいないのだろう。

そもそも同じ土俵に乗っていない可能性もあると思います。

これは信徒数についてである。おそらくは控えめな意味で可能性と書いたのだろう。同じ土俵に乗っていないのは明らかである。

顕正会のそれは累積数であり、宗門は今現在の信徒数を示している。

いや、もちろん、宗門の八十万が真水であるとは言い切れず、相当にサバを読んでいるだろうことは否定できないと思う。さりとて顕正会がそれを指摘したところで、オマエに言われたくないよ、というのが宗門側の本音だろう。宗門の信徒数をあげつらうのであれば、まずは自分たちも同じ土俵に上がる必要がある。つまり、顕正会も現在の実会員数を示すべきなのだ。

例えば創価学会の数字を考えてみよう。

顕正会では八百万学会員と言っている。今も昔もである。何十年も八百万なのだ。そして時折は分析めいたこともする。公明党の得票数がどうしたこうしたという話である。ところが先般も指摘したように、昨年の衆院選では案に相違して公明党が議席を伸ばしてしまったために、何も言えなくなってしまったのだ。それで秋篠宮家の長女がどうしたこうしたという話題でお茶を濁してしまった。

わたくしの記憶が正しければ、顕正会では一度たりとも創価学会の実数について分析したことがない。公明党の得票数から間接的に云々することはあっても、創価学会本体のことを直接的には論じていないのだ。

それでいて宗門の八十万にはイチャモンをつけている。

ここに顕正会のコンプレックスを垣間見ることができると思う。

やや重複的ながら話を続けると、もし創価学会の八百万を欺瞞であるとしてその実数を暴くようなことをすれば、それこそブーメランになるのだ。だったら二百三十万を謳っているアンタのところはどうなんだい、ヘタするとその十分の一にも満たないのではあるまいか、と。

顕正会では創価学会の実数について細かい分析はしたことがないけれども、かつて浅井先生は多く見積もっても五百万と言っていた。平成二年だったと思う。それが今は増えたのか減ったのか知らないが、今もなお顕正会は名目数においても実数においても創価学会に遥かに及ばない。これが厳然たる事実なのである。

そこで矛先が宗門へと向かうのだ。現状、顕正会をやめて宗門へ移籍する人が多いのも事実なのだろう。その意味でも宗門へ憎悪を燃やしていることは確実であり、結果として近年は宗門批判の頻度が高くなっているのだ。

今一度、言おう。

創価学会の八百万には文句を言わないクセに、宗門の八十万にはイチャモンをつける。この顕正会のコンプレックスたるや、尋常ではない。

2022/2/4  8:28

投稿者:大沢克日子
私は御先師日顯上人が仰せのように、

>その御遺命の戒壇とは、すなわち本門寺の戒壇である。

すなわち、必ず国立戒壇と限定しなければならないと言うことではないと思うし、広宣流布後も、国家権力から信仰の強制をされてはならないと思います(ここは私見ですが)。

信教の自由が完全に担保された形の国教化はあり得るかもしれません。
逆にいうと信教の自由が完全に担保されて広布成就するならば、わざわざ国教化する必要はないともいえます(制度上ではなく、事実上の国教)。

その場合、御書に仰せの詔勅や御教書をどう考えるか、広布成就の際の御遺命の戒壇を何と称するのかという問題はそのまま持ち越しになります。

>正規に大聖人様が我々に示され、命令された御戒壇は何かと言えば御遺命の戒壇、いわゆる本門寺の戒壇であります。そして、これは本門寺が出来た時に行うということです。

おそらく、広宣流布は浅井会長が講演するような安易な形では成就せず、前代未聞・古今未曾有の、我々の理解・想像を遥かにこえる大難を経た後のことでしょう。
その後、全世界の広布へ進んでいくのですから、生涯(功徳をたくさん積んだ方々は来世も願って)信仰を続けるのですから、
「広布成就の暁には大功徳があるから」
と、顕正会で無理に無理を重ねるような活動はしない方が良いと思います。

自称正信会の足立住職という人は、大石寺で正規に修行した僧侶かどうか知りませんが、顕正会に同調して、今はどういう活動をしているのでしょう?

2022/2/4  8:12

投稿者:大沢克日子
投稿者:.さん

下記情報、ありがとうございました。

宗教団体の政治的中立性の確保等に関する第三回質問主意書に関する質問主意書
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/a063006.htm

>本尊は釈迦、題目は南無妙法蓮華経とされたが、戒壇は、本仏日蓮の遺命として、将来、広宣流布の際に建立さるべきものと説かれている。戒壇とは、戒を授ける大御本尊をまつる中心施設であり、王法と仏法が合致し、国の最高権力者も民衆も正法に帰依し、理想の世界が実現したときに、国立戒壇が建立されると説いている。

「本尊は釈迦」のところは別として
「戒壇とは、戒を授ける大御本尊をまつる中心施設であり」
は、そのとおりだと思います。

最近話をする顕正会員は、大御本尊と戒壇の繋がりがわからず、単に「国立、国立」と言っている人が多いような気がします。

当時、創価学会と公明党の政教一致が問題視され、国教化・国立戒壇という定義を見直す契機になったのは事実でしょう。

2022/2/3  22:22

投稿者:大沢克日子
新着情報
慧妙 令和4年2月1日号掲載

1月13日東京高裁
控訴審判決も浅井昭衛に損害賠償を命令
日顯上人・妙観講を誹謗した浅井発言の違法性が明らかに
2022年2月3日
https://savekenshokai.org/archives/1549

裁判に関心のある読者のための解説記事
-なぜ顕正会・浅井昭衛はこんな醜態をさらしたか⁉
https://savekenshokai.org/archives/1555

2022/2/3  18:19

投稿者:.
第二に、本門戒壇論とは、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇を三大秘法
と呼び、本尊は釈迦、題目は南無妙法蓮華経とされたが、戒壇は、本仏日蓮
の遺命として、将来、広宣流布の際に建立さるべきものと説かれている。
戒壇とは、戒を授ける大御本尊をまつる中心施設であり、王法と仏法が合致
し、国の最高権力者も民衆も正法に帰依し、理想の世界が実現したときに、
国立戒壇が建立されると説いている。
そして、この国立戒壇は、聖教新聞(三十年四月二十四日付)社説によれば、
「大折伏の結果国を挙げて日蓮正宗の信徒となつてこの吾が国から一切の邪
宗教群を一掃し終つた後に、国会の議決によつて決定されなければならない」
と主張されている。

https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/a063006.htm

この段階で(昭和45年)、否定すりゃいいじゃんwww

2022/2/3  18:16

投稿者:.
>日蓮系で日蓮正宗以外は日蓮本仏論をとらない所が殆どです。

三 創価学会は、日蓮正宗教学を教義とするものである。
日蓮正宗教学の特徴は、日蓮本仏論と本門戒壇論である。
  第一に、日蓮本仏論とは、末法の時代における釈迦は脱
仏であり、日蓮こそ本仏とするものであり、これによつて、
日蓮から法脈を相承している建前の大石寺の歴代住職の日蓮
正宗法主は、地上における本仏の代理者となり、超絶的な権
威をもつものであり、さらに、同宗法主を媒介として、本仏
日蓮の宗教的権威を一身に体現しているのが、在俗信者を代
表する法華講総講頭であり、創価学会会長である池田大作氏
であると信じられている。

https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/a063006.htm

2022/2/3  18:10

投稿者:.
>遺言状と同じです。
特定の個人から、特定の個人へ何かを譲る時の書面の常
識です。

誰誰の財産を誰誰に譲る・・・

これは写本では法的効果がありません。
真筆しか効力がないのです。

明治29年以降ですけどねww

民法(みんぽう、明治29年法律第89号、英語: Civil Code[1][2])
は、日本における、私法の一般法について定めた法律。
所管官庁は法務省である。
実質的意味の民法と区別する意味で、「民法典」または「形式的
意味の民法」とも呼ばれる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%B3%95_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

それ以前は、どうだったの?ってお伺いしたいですねww

2022/2/3  17:10

投稿者:沖浦克治
 蝸牛さん、今晩は。

 日蓮系で日蓮正宗以外は日蓮本仏論をとらない所が殆ど
です。
 御書にも、この点は一言もありません。

 我こそ久遠の唯我一人の如来なり・・・

 そういう文証は無いのです。
 そして、本題ですが、相承書や相伝書は、真筆があって
こそ文証としての価値があります。
 遺言状と同じです。
 特定の個人から、特定の個人へ何かを譲る時の書面の常
識です。

 誰誰の財産を誰誰に譲る・・・

 これは写本では法的効果がありません。
 真筆しか効力がないのです。
 ですから如何なる理由があっても、真筆のない相伝書、
相承書は文証になり得ません。

 法義の事なら写本しかなくとも依義判文して選択すれば
良いのですが、遺言はそうは行きません。

 以上ですが、ご意見ご質問がおありならお願い致しま
す。

2022/2/3  7:57

投稿者:.
>百六箇抄は真筆がありません。
写本だけですから、義によって判文する以外ありません。

仏教の経典について言えば、冒頭で「このように私は聞いた」
(如是我聞)と述べ、釈迦の説法を聞き写したという体裁を
とるのがしきたりで、その内容は仏説であるという。
「仏説」を紀元前5世紀ごろの釈迦が話したことを直接の弟子
が書き取ったものと定義するならば、そのようなものは現存
しない。
『阿含経』など最も古いと思われるものでも早くて紀元前4世
紀、それから長い時間をかけて、徐々に結集として編集された
ものと考えられている。
『般若経』『法華経』など大乗仏典は紀元前後から3世紀ごろ
の成立であり、釈迦の時代から大きく離れているため仏説では
ないと主張されることもあるが、成立時期の問題よりも、上座
部仏教と大乗仏教の間での教義の違いを反映していると言えよ
う。

ウィキペディア(Wikipedia)、偽書より引用。

https://ja.wikipedia.org/

(๑⊙ლ⊙)ぷっ

2022/2/3  7:43

投稿者:.
3968 Re:我見は貴方です 沖浦克治 2003/03/11 20:24

(中略)

金髪売春婦をイジクった人間の汚れた手で書いたような
本尊、朝晩眺めて、なんとも思わんのだろうか?

http://www.mitene.or.jp/~hokkekou/log/log40.htm

2022/2/3  7:30

投稿者:沖浦克治
 蝸牛さん、おはようございます。

 百六箇抄は真筆がありません。
 写本だけですから、義によって判文する以外ありませ
ん。
 一般的には以下の疑問があります。
 ネットからです。7

他の日蓮の門流では以下の見解により、偽書であると考え
られている。

種脱相対の教判は、富士門流特有の主張であるため、種脱
相対ではなく教観相対を主張する他の日蓮の門流からは偽
書とされる。
百六箇を書き連ねるという文章の体裁及びその文体が、他
の日蓮の門流で真蹟と認めている、日蓮の他の著作には見
られないものである。
弘安5年(1282年)に到って初めて定められた六老僧につ
いての言及があり、史実との不整合がある。
弘安5年の時点ではなお「伯耆殿」と呼ばれており(春初
御消息)阿闍梨号を授けられていない日興が白蓮阿闍梨と
呼ばれており、史実との不整合がある。
富士山に本門寺と戒壇を建立せよとする富士戒壇説が説か
れているが、戒壇建立に具体的に言及した『三大秘法抄』
など真偽未決のものまで含めて日蓮遺文には富士山に対す
る特別視は存在せず(むしろ須弥山と対比して矮小な事物
として言及されており)、富士山を戒壇建立に適した最勝
地として言及したものは存在しない。
大石寺門流以外の主張以上の理由から、富士門流の教義に
拠らない「昭和定本日蓮聖人遺文」には百六箇抄が収録さ
れていない。
 〜引用終わり〜

 堀さんも多くの部分を後加文としていますので、偽書混
入は明らかですから、この偽書の部分が全体の信頼性を損
ねています。
 
 私の見解は夜書かせて頂きます。

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