2006/3/17

広本の問題箇所  
主人の曰く 客明らかに経文を見て猶お斯の言を成す。心之及ばざる歟。理之通ぜざる歟。全く仏子を禁むるに非ず。唯偏に謗法を悪む也。汝、上に引く所の経文は、専ら持戒正見・破戒無戒正見の者也。今悪む所は、持戒邪見・破戒破見・無戒悪見の者也。夫れ釈迦之以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能忍之以後の経説は則ち其の施を止む。此れ又一途也。月氏国之戒日大王は聖人也。其の上首を罰し五天之余黨を誡む。尸那国之宣宗皇帝は賢王也。道士一十二人を誅して九州の仏敵を止む。彼は外道也、道士也。其の罪之軽し。之は内道也、仏弟子也。其の罪最も重し。速やかに重科に行へ。然れば則ち四海万邦、一切の四衆、其の悪に施さず。皆此の善に帰せば何なる難か竝び起り、何なる災か競ひ来たらん矣。

現代宗教研究所の資料集から引用させていただいた。(下線は巌虎による)
立正安国論のいわゆる広本は重複書として平成新編には掲載されていない。また全集も同様である。
ゆえにわたくしは長いこと内容を知らなかった。
上掲の下線を引いたところが平成新編には載っていない。他にもあると思うが、よく確認していない。ようはこの箇所がしばしば問題になるのである。

何が問題かといえば、大聖人を平和主義者みたいに宣伝するのは間違いである、なぜならば広本に見るごとく大聖人はかくも過激ではないか、といった指摘がなされているわけである。

確かに創価学会などは世間受けをねらって大聖人像を現代向けにアレンジしてしまっているような気がする。
ただし、そもそも立正安国論とはその題名が示すごとく、平和を実現するための書である。天下泰平国土安穏ないし国土泰平天下安穏との文言が本文中に出てくる、これを平たくいえば平和である。

ここでの主人の答えの前には申すまでもなく客の問いがある。簡単に言えば、謗法者を斬罪することは殺人罪にならないのか、ということだろう。
ゆえに、基本的には「施を止む」に止むるべきことを御指南なのである。
その上で程度の問題として、場合によっては重科に処すべきを御指南されているものと拝される。当然のこと、執行者は然るべき立場の者であって、誰もが執行できるとはしていない。

念仏者の頸を斬れ、といった過激な御指南も多数ある。
しばしば「アンチ日蓮」の人たちが持ち出してくるところであり、よく勉強しているものだなあと、わたくしなどは感心してながめている・・・いやいや、感心している場合ではないけれども、ようはこれもまた然るべき立場の人にそれを要求しているのであって、大聖人ないしその弟子・眷属がそれを実行したことはないだろうし、またそのような御指南も存在しないだろう。
ようは世法・仏法にわたって、合法的にことを処していくのが大聖人の御考えである。ゆえに過激なようでいて実はそれほどでもない。実際のところ、大聖人の御法門を正しく拝しているならば、世法的にもそれほど道を踏み外すことはない。

単純化して、大聖人を過激思想家とすると、その大聖人から事細かに生活上の指導をいだいたと思われる四条金吾殿などは、真っ先に破滅の道をたどったとも想像されるが事実はそうなっていないようである。むしろ性格的に問題があったフシの感じられる四条殿に対して大聖人は、過激思想家とは正反対のきめ細かな指導をあそばしておられるわけであって、まさに大聖人の御指導のおかげで人生の山を乗り切ったとも思われるのである。

一昨日の投稿で、和平への道などと気取ったことを書いた。

けれども大聖人ならば選択肢のひとつとして御考えでいらしたとも想像されるのである。
つまり、普通は勝つか負けるかの二択であって、当然に勝つことが要求されているわけで、そのための秘術でもあるわけだろう。がしかし、第三の選択肢という発想も大聖人ならば視野に御入れであられたに違いない、それが和平への道である。
結局、謗法すなわち念仏等の諸宗に妥協なさらなかったことがいわば盲点になっていて、われわれは二択の発想しかないように錯覚しているだけなのだと思う。

外交問題にしても、また謗法の諸宗を重科に行うことも、それらは高度な政治的判断にゆだねる他ないのである。
大聖人が国家諫暁をあそばしたのも、ひとえにこれがためだと思われる。

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ