2005/6/29

法論について総括的に書くと・・・  
今回の法論はぜひとも実現してほしかった。
わたくしはふたつの意味でそのように思っている。
まず、浅井先生の行動原理とされているものに、今ここに大聖人ましませば何を命じ給うか? というものがある。それを信心の耳で聞き奉って行動を起こす。後はすべて大聖人に任せ奉る、後は野となれ山となれ、といったら語弊がありすぎるか?
ようするに、顕正会は広宣流布に必要なのかどうか? もし必要でなければ、ひとおもいに潰してほしい、という誓願(?)を先生は持っている。というか、そういう気性の人物だと見るべきで、今回の解散を条件とした法論もそのあらわれだとわたくしは思う。
この意味では、ぜひとも日顕上人の御慈悲をもって浅井を一刀両断に処していただきたかった。
もうひとつの意味は、きわめて俗な考えであるが、浅井ごときになめられたらあかん、ということである。どの世界でもあることだろうが、若手の活きのいいのが入ってくる、生意気である、先輩を立てるということを知らない、・・・こういう野郎はガツンと一発かましてやらなければダメなのだ。もしそれができないならば、そこの先輩連中はだらしがない、ということになる。また、その若手は単に生意気なのではなく、本物の実力を備えた人物だということになる。
もっとも、スポーツの世界ならわりと明瞭なのであるが、それ以外の世界ではなかなか本質が見えてこないことも事実であって、ゆえにおのおのが見識を持って正しい判断をしていかざるを得ないのだろう。
とりわけ宗教の世界では正しい判断が難しいのである。

2006/1/18  17:14

投稿者:下野正信
ここにも日有上人化儀抄から引用しよう。「等閑の義を憎むは凡夫。哀れむは僧」(趣意)。

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