2006/12/28

ご隠居さんの威厳はいつまで有効か?  
ウィンズ氏の発見された資料が何かはちょっとわからないが、おそらくは義浄房御書の一心欲見仏云々のくだりであろう、もしかしたら合宿研修会の時の講義ではなかったろうか?
佐前佐後ということは、三沢抄に拝することができる。つまりは大聖人御自らの規定であって、後世の人が勝手にこさえたものではない。しかし、問題は具体的に何がどのように変化したのか、それが必ずしも明確ではないことである。ゆえに解釈がいろいろある。人によって意見がマチマチなのである。
このテーマはまた別の機会にやりたいと思う。

れん氏の異流儀蛇の足は、足の生えた蛇がうごめいている図が想像されて、ひじょうに気持ち悪い。ところが文章を読むとそうでもないのである。
どうやら意味合いとしては、サービスのようなことなのだと思われる。

諫暁八幡抄において釈尊を相対化・・・

いきなり切り札を出されたようなアンバイであるが、この相対化というのはいわゆる種脱相対と呼ばれるものである。
だが、れん氏の場合は必ずしも日蓮正宗系列で主張するところの種脱勝劣を取らないで、釈尊上行同体本仏を言うのだった。まあ、しかし、これもまた、産湯相承などに見られるところであるから、必ずしも日蓮正宗から完全に逸脱するわけでもなさそうである。

種脱相対という意味では、まさに本尊抄にその文証を拝することができる。

在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり。

相対化しているのは確かである。ゆえに種脱相対であると・・・

しかし、はたしてこれを種脱勝劣と言い切れるのかどうか、それは定かではないように思う。なぜならば、在世の本門と末法の初めは一同に純円、だからである。

ただし、末法適時という考え方からすれば、ただ題目の五字なのである。まさに余経も法華経も詮無しということになる。その意味では勝劣なのかもしれないと思う。
そうすると脱仏すなわちセミの抜け殻という考え方も自ずと生じてくるように思うのだが、それはダメなのだろうか?

釈尊は霊山に隠居・・・

これはおそらく曾谷入道殿許御書に出てくる御指南であろう。

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