2007/10/22

世間知らずの仏法オタク  
昨日は入れ違いに、渡辺氏からコメントをもらっていた。また、虚空老人氏からは慈愛のこもるコメントを頂戴した。さらに、沖浦氏からも心温まるコメントが寄せられた。

毎日、駄文を綴っているにもかかわらず、こうしてコメントを頂戴できることは、本当にありがたいことである。
そもそも独白ブログなのである。落ちぶれ顕正会員のグチ日記なのである。にもかかわらず、お声を掛けていただけることは、シアワセなことである。

さて、冨士の六十三号をご存知だろうか?

今、わたくしの手元にある当該号の奥付を見ると、昭和四十三年云々と記されている。それでいて表紙には、日蓮正宗顕正会、と書かれている。ようは再版なのだろう。
実はこれ、今日で言うところの折伏理論書の前身に相当するものなのである。理論書が出たのは平成元年で、その序には六十三号のことが書かれている。

 以来、腐心してきたことは、なんとか現代人に仏法をわかり易く≠ニいうことであった。ために私は、富士第四号・第六十三号等にその一端を述べ、あるいは幾たびも講習会を開いては、折伏理論の解説に心を砕いて来た。

つまり、平成元年以前は六十三号が広く読まれていたわけで、わたくしも自分で購入した記憶はないけれども、どういうわけか持っていたのである。

この本の最初のほうに、

若し深く世法を識れば、即ち是れ仏法なり

と出てくる。

ところがである。平成元年に、長年の思索の集大成とも言うべき折伏理論書を発表したわけだが、そこにはこれが出てこないのである。いったいなぜだろうか?

はっきりしていることは、今日の折伏理論書よりも六十三号のほうが遥かに内容が濃い・・・というか、相当に難解である。ちょっと読むのがシンドイ、というのがわたくしの正直な感想である。一方の理論書はかなり平易である。

わたくしは折伏理論書をそれなりに評価している。これはこれでよくまとまっていて、まったくのズブの素人にとっては、カッコウの入門書になっていると思う。おそらく浅井先生もそれを計算して書いたのだろう。ゆえに、それはそれでけっこうなのである。
だが、いわゆるステップアップの意味では中級用の教科書も必要だろうし、さらには上級用もあって然るべきである。
それがどういうわけか、現在の顕正会には存在しないのだ。そこが問題である。

ちなみに、白米一俵御書にも例の言葉が出てくる。

まことのみちは世間の事法にて候。金光明経には「若し深く世法を識れば即ち是仏法なり」ととかれ、涅槃経には「一切世間の外道の経書は皆是仏説にして外道の説に非ず」と仰せられて候を、妙楽大師法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」の経文に引き合はせて心をあらわされて候には、彼々の二経は深心の経々なれども、彼の経々はいまだ心あさくして法華経に及ばざれば、世間の法に仏法を依せてしらせて候。法華経はしからず。やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。爾前の経々の心は、心より万法を生ず。譬へば心は大地のごとし草木は万法のごとしと申す。法華経はしからず。心すなはち大地、大地則ち草木なり。爾前の経々の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし、法華経はしからず。月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり。

こう言ったら叱られるかもしれないが、わたくしの大好きな御書の一つである。

彼々の二経は深心の経々なれども・・・

とあるので、この意味から理論書では引用しなかったのかもしれない。

心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし

月こそ心よ、花こそ心よ


わたくしは、いまだにこの部分がよく理解できていない。ものすごく大事なことを仰せられているのだろうことは、おぼろげながら承知しているつもりであるが、爾前と法華経は何がどのように違うのか、それがいまだによくわからないのである。

まったく見当違いのことを書くが、あるいはわたくしの教学的アプローチは、いまだ爾前迹門の域を脱していないのではないか・・・という気がする。それは教学だけの話ではなく、ありとあらゆる意味において、いまだ法華本門の域に達していないのかもしれない、いや、かもしれないどころの話ではなくて、まさにそのとおりなのだろう。

2007/10/23  8:24

投稿者:沖浦克治
 厳虎さん

>まったく見当違いのことを書くが、あるいはわたくしの教学的アプローチは、いまだ爾前迹門の域を脱していないのではないか・・・という気がする。

 大聖人様が御本仏なら、以前の仏たちが解いたものにとらわれる必要は皆無。
 こう言うことですね。

 久遠実成とか、本未有善だとか、正像の衆生は末法無縁だとか、ですよ。

 久遠即末法ですよ、大聖人様の法は。

 後はただの説明文です。
 家電の取り扱い書ですよ。

 電子レンジが台所で動き始めたらどの家族も読みません。

 修理や理屈は専門家に任せるでしょう。

 同じなんです。

2007/10/23  7:56

投稿者:渡辺雄二
巌虎殿の人物像が謎なのである。
 難しい法門を知っているようで、時折「なんでこんなこと知らない(わからない)の?」といった発言が出てくる。
 察するに、恐らくは元来は読書家なのであろうが、正義を学んだことが無いために、教義が理解できない、といったところであろうか。
「爾前の経々の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし、」と「法華経はしからず。月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり。」とは能所の別を指すのである。
 文脈に随えば自ずと分かることである。
 それはそうと、以前に巌虎殿について、「学会員はなぜ功徳を失ったか」という悪書を読んで顕正会に入った学会員ではないか?という憶測をここで書いたが、それは氏の一連の書き込みで私の勘違いであることが判明していたが、今日は再確認した。
 それというのも、昭和六十三年までは、新入会者に対して、数珠と経本と冨士六十三号を買い与えるという慣例があったからである。
 さらにいうと、私の入会した昭和六十年までは、最新の顕正新聞を本部から無償で一部与えられ、「次回の購読推進(当時は6月)までの期間までは千円で購読可能」という制度があったのである。
 当時の顕正新聞は年間購読料\2,300であったので、一月以降の入会者には「窓口で購入する方が得だからそうしなさい」という気配りもあった。
 それはそうと自慢ではないが、私は「冨士六十三号」を何度読んだことだろうか....。正像末の三時の詳細と十界論、依正不二、色んなことが書いてあり、活字も小さく、かなり凝縮された内容であった。
 余談であるが、客殿の下足箱には「桜○○番」「富士○○番」などという表記がされているが、私はいつも「富士63番」の下足箱に靴を入れている。
 駄洒落気分があるのと同時に、進入経路から行って、人が少なく、一番入れやすい場所にあるからだ。
 因みに私はスラングで「ヤメ顕」と自称している。「辞め検」をもじったのであるが、オヤジギャグとしてはまぁ、70点くらいだろうか。
 巌虎殿も「ヤメ顕」になりましょう。

http://www.geocities.jp/shimono_masanobu/

2007/10/22  23:38

投稿者:ヅラ系。
すんでいる心はたしかに月のようにすんでいると表現できる。きよい心も同様に花のようだと。
すんでいない心。きよくない心は心ではないのか。

月こそ実相であり。花こそ実相である。
心こそが御本尊である。


てか?

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