2007/12/17

踊るアホウに見るアホウ?  
種々のコメントを頂戴しているが、毎度のことながら全員には対応できないことをご容赦願いたい。

(引用)三大秘法は本門の本尊・題目・戒壇である。わたくしはこれを、仏・法・僧ではないかと書いたのだ。つまり、本門の本尊というのは人本尊であって、法本尊を含まない。(引用終わり)

 そのことがわかったら創価学会に入信するしかありません。


さて、耕治氏に申し上げる。ずいぶん短絡的ではないか・・・

もし仮に、そのことがわかったとしても、その選択肢が創価学会への入信に限定される理由はどこにもないと思う。第一、わたくしは未だにわかっていないのである。渡辺氏のコメントを読むがいい。氏に言わせれば、わたくしは信濃町の痴呆以下なのだそうだ。これを素直に受け取れば、創価学会に入信することによって多少は進歩することになるだろう。しかし、それでも信濃町の痴呆なのである。ようするに渡辺氏は、わたくしのことは当然として、それと同時に創価学会をも馬鹿にしているわけなのだ。

また、れん氏のコメントも無視はできない。昨日の拙稿を読むがいい。わたくしは、かつて書いた三大秘法と三宝の関係を、れん氏によって木っ端微塵に破折されてしまったと思っているのである。おそらくは同時に、耕治氏も破折されてしまっていることになると思う。だが、耕治氏はこれに反論していない。

わたくしの思うに、耕治氏の所論は未だ完成されておらず、そちこちに欠陥がある。もしくは説明が足りていない。

南無妙法蓮華経如来・・・

これが典型的な例だと思う。そもそも、これはどこから引っ張ってきた言葉なのか、それが問題である。耕治氏は頻繁に使用しているけれども、御書には見当たらない言葉だと思う。
例えば、南無釈迦牟尼仏如来というのは、ヘンである。もっと単刀直入に行こう、南無阿弥陀仏如来と書けば、わたくしの言わんとしていることがわかるはずである。
逆に阿弥陀経如来とか、大日経如来はいかがであろう・・・

つまり、南無妙法蓮華経如来というのは、すでにして、これが人法一箇の意味に他ならないのである。

もう一つ、これも考えておく必要がある。三大秘法=三宝、すなわち本尊・題目・戒壇がそのまま仏・法・僧であるとするのは、じゃっかん問題がある。なぜならば、これは三大秘法抄に即しての説明であって、法華取要抄や報恩抄には即さないからである。ようは順番が違うのだ。
本尊・戒壇・題目、これが二抄の順番である。ゆえに、この場合は仏法僧ではなく、仏僧法になってしまうのだ。
これでいいのかどうか、考える必要があるだろう。

あるいは耕治氏ならば、是三無差別の意味からして、順番はどうでもいい、まったく問題なし、という考え方をするのかもしれない。もちろん一理はあると思う。
だが、わたくしはもっと多角的に考えるべきことだと思っている。順番が違うことは確かなのだ。何かしらの意味があるのかもしれないのだ。
その答えは永遠にわからないのかもしれないが、それでもなお、わたくしは考え続けることだろう。

ちなみに今日のタイトルは、我ながら意味不明である。

2007/12/19  21:18

投稿者:耕治
//無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、
 修行者、自らが、「無作の三身の仏=南無妙法蓮華経如来」と悟ったとき成仏というのです。

//惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず
 この段はから、南無妙法蓮華経如来寿命品の結論が述べられます。
 「寿量品の極」とは言うまでもなく、大聖人様の仏法の極です。何人たりともここを疑っては大聖人様と同意ではないという重大な箇所です。
 さて、伏惑が極ではないと仰せです。どういうことでしょうか?
 ある人は「衆生は如来ではない」といいました。では、大聖人様はなんと仰せでしょう。

//唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり、
 ここが結論です。「衆生は如来ではない」という考え方は、現在、創価学会以外のおそらくすべての教団が、立てている共通した認識であると思います。では、大聖人様はなんと仰せですか?
 「唯凡夫の当体本有の侭を」と仰せですね。私には、何度読み返してもこの段は、「凡夫の当体」が「此の品の極理」と仰せのようにしか読めません。

 さて、この如来寿量品は、文上では本門の釈尊のことが説かれているのでしたね。
 本門の釈尊=19出家の衆生の姿は方便であり、もともと仏だった(久遠実成道)
 しゃく門の釈尊=迷いの衆生である釈尊が、修行して仏になった。(19歳で出家して30歳で成道)

 しゃく仏=衆生が伏惑を以て仏に成る(有作)
 本仏=もともと仏である      (無作)   (注、久遠実成の釈尊は、厳密には違う)

//無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり云云。
 所作とは振る舞いの事です。無作の三身の振る舞いが、次の如来秘密神通之力でとかれます。

2007/12/19  21:15

投稿者:耕治
//無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、
 修行者、自らが、「無作の三身の仏=南無妙法蓮華経如来」と悟ったとき成仏というのです。

//惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず
 この段はから、南無妙法蓮華経如来寿命品の結論が述べられます。
 「寿量品の極」とは言うまでもなく、大聖人様の仏法の極です。何人たりともここを疑っては大聖人様と同意ではないという重大な箇所です。
 さて、伏惑が極ではないと仰せです。どういうことでしょうか?
 ある人は「衆生は如来ではない」といいました。では、大聖人様はなんと仰せでしょう。

//唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり、
 ここが結論です。「衆生は如来ではない」という考え方は、現在、創価学会以外のおそらくすべての教団が、立てている共通した認識であると思います。では、大聖人様はなんと仰せですか?
 「唯凡夫の当体本有の侭を」と仰せですね。私には、何度読み返してもこの段は、「凡夫の当体」が「此の品の極理」と仰せのようにしか読めません。

 さて、この如来寿量品は、文上では本門の釈尊のことが説かれているのでしたね。
 本門の釈尊=19出家の衆生の姿は方便であり、もともと仏だった(久遠実成道)
 しゃく門の釈尊=迷いの衆生である釈尊が、修行して仏になった。(19歳で出家して30歳で成道)

 しゃく仏=衆生が伏惑を以て仏に成る(有作)
 本仏=もともと仏である      (無作)   (注、久遠実成の釈尊は、厳密には違う)

//無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり云云。

2007/12/18  22:16

投稿者:耕治
//聞き奉りて修行するは観行即なり
 実際に修行をする段階が、観行即だと仰せです。天台において「観行」とは、修行者が己心の仏性を観ずることをさしています。さて、大聖人様はなんと仰せでしょうか。

//此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、
 観行とは、「事の一念三千を本尊を観る事だ」と仰せです。
 現在においては、大聖人様の内証を顕わしたるご本尊様に帰命するという意味になります。
 なぜなら大聖人様が、すでに御自身の内証たる南無妙法蓮華経を御図顕されたので、私たちは天台流の煩雑な修行を放棄して直接、「南無妙法蓮華経如来」様を信の一字をもって観ることができるからです。
 さらに深く読むと、ご本尊様(依報)を通して修行者の己心の南無妙法蓮華経如来を(正報)を観ようとする段階だともいえるでしょう。

//さて惑障を伏するを相似即と云うなり
 相似とは姿が仏に似てくるという段階です。この仏は当然、その人、己心の南無妙法蓮華経如来様です。この仏は「無作」の本質をもっていらっしゃいます。信心が深くなると、作られたものではない、壊すことのできない修行者の善性が発揮されて身を飾ってくるのです。「惑障を伏する」は、煩悩を断じるという意味よりも、その人が功徳で身を飾ることだともいえるでしょう。信心がすすむことで、その人らしさが光り輝いて、その人の振る舞いが南無妙法蓮華経如来に照らされて、本有の人生を歩き始める段階でもあります。
 このことは、久遠からのお約束であり、血脈を信じるものは、誰人も疑ってはならないのです。

//化他に出づるを分真即と云うなり
 分真即とは、部分的には仏だという意味です。末法において「化他に出づる」事ができるのは、地涌の菩薩だけだとされています。化他とは六難九易と表現されるほどの難事です。血脈を信じる者は、化他行をもって、自らが地涌の菩薩の一員であることの証明となすのです。
 「南無妙法蓮華経」を悟れるのは、地涌の菩薩だけであり、大聖人様の仰せの日蓮と同意とは地涌の菩薩だけです。

2007/12/18  21:17

投稿者:耕治
//六即の配立の時は
 この段からは大聖人様が、天台の六位(天台は便宜上、菩薩にランクをつけたんですね。)をかりて南無妙法蓮華経如来をお説きになられます。
 六即というのは、ランクが六個あるから六即です。ただし、天台教学をもって、大聖人様が、我等衆生に差別を設けるという意図ではないと拝します。

//此の品の如来は理即の凡夫なり
 此の品の如来は理即の凡夫だと仰せです。
 「此の品の如来」とは南無妙法蓮華経如来様のことです。なぜならこの品は、「南無妙法蓮華経如来寿量品第十六」だからです。
 大聖人様は、南無妙法蓮華経如来が、我等一切衆生であるとはっきりと仰せです。人師の我見で、否定していい御文ではありません。しかし、「南無妙法蓮華経如来」は日蓮が身に当たる大事とも仰せです。なのにそれが「理即の凡夫」とは、どういうわけでしょう?
 それは、理即という言葉に鍵があるのです。理即とは理の上でという意味です。喩えるなら、百億の預金があっても、その存在を忘れている者は、事実上持っていないに等しいといえるでしょう。
 
//頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、
 「南無妙法蓮華経を頂戴し奉る」とは、「南無妙法蓮華経」を信受すると言うことです。
 「名字即」とは仏の名前を知っているが元義です。
 この煩悩と迷いに満ちている身であるはずの自分が、南無妙法蓮華経如来なんだと信じ奉ったとき、っその人は「名字即」と呼ばれるのです。ここに血脈が通うのです。

//其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり
 「始めて聞く所の題目」
 天台家においては、仏の名を知ることを、信仰の第一歩と説きました。この段も、初めて南無妙法蓮華経を聞いたから名字即なのですと仰せです。何故なら、「南無妙法蓮華経」とは、仏の御名だからです。南無妙法蓮華経をお経の名前などと解釈すると、もう大聖人様の仏法ではありません。釈迦仏法です。大聖人様の法門においては、南無妙法蓮華経とは仏の名字なのです。→南無妙法蓮華経如来
 さらに題目には、三大秘法にも明らかにされていますが信と行(特に信)が含まれます。

2007/12/18  19:19

投稿者:耕治
//別しては日蓮の弟子檀那なり、
 しかし、その事を覚知するためには、大聖人様に帰依する必要があることは言うまでもありません。これは、絶対条件です。

//されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり
 では、帰依するとはなにか?無作の三身と悟るためには、法華経の行者であることが条件だと仰せです。法華経の行者とは生死一大事血脈が通うものです。どうすれば通うかは血脈抄にあるとおりです。(血脈とは籍さえ創価学会ならば、自動的に通うなどという単純な話ではありません)
 
//無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、
 大聖人様はふたたび「無作の三身」とは「南無妙法蓮華経」のことだとおおせです。三身如来の御名を「南無妙法蓮華経」というのです。「南無妙法蓮華経如来」を開くと三身如来になると仰せです。

//寿量品の事の三大事とは是なり、
 「寿量品の事の三大事」はいわゆる三大秘法のことです。
 大聖人様は、神力品で説かれた決要付属の正体を「南無妙法蓮華経」であると仰せになられ、また、「事の三大事=三大秘法」とも「本地無作の三身」ともおっしゃっておられます。ここで三つの言葉が出てきていますが、要付属ですので、別々の三つのもが付属されたのではありません。三者は一体のものです。「本地無作の三身」といい、「三大秘法」といい、詮ずるところは「南無妙法蓮華経」のあらわしているのです。
 三大秘法は、「三学」から南無妙法蓮華経如来様を見ているのです。三身如来は、「三諦=三如是」から南無妙法蓮華経如来を見ているのです。
 三大秘法といい三身如来といっても、別個のものではありません。
 私たちは、「南無妙法蓮華経」といわれてもわからないのです。ゆえに大聖人様は、私たちのために「三身如来」をお示しになり、成仏の実践方法として「三大秘法」をお説きになられたのだと思います。
 また、「戒、定、恵の三学」と「応身、報身、法身の三身」は密接な関係にあります。

2007/12/18  1:06

投稿者:耕治
/今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり
 大聖人様の奥義は、我等衆生が「南無妙法蓮華経如来」様の当体そのものだという事です。私のような、生きるために働かなくてはならず、病気もし、一秒先の未来もわからない暗き者ではあっても、その当体は「南無妙法蓮華経如来」そのものなんだと仰せなのです。
 仏様は「そのことをわからせてあげたい」という一念でこの世界に出現されます。「一大事因縁」として「如我等無異」あるいは「即成就仏身」として説かれているではありませんか。また、この文証は御義口伝だけでなく、御書のいたるところに一貫して説かれている大聖人様の御精神ですので、何人たりとも疑網を生じることなく、ただただ一大信力を出して、御心を仰いでご本尊に向かうべきだと思います。
 この事に疑網をはさむことは、「法華経を賛じるあまり、かえって法華経の心を殺す」ことになると天台家も言っているではないですか。
 また、この事に疑いを持つことは「一切世間の仏に成る種を切断する行為」だと釈尊は言っています。また、衆生は仏になれない。衆生と仏は当体が違うと説くものを、「その人命終わって、阿鼻獄に入らん。無数劫に至る」と説かれてあるとおりです。

//別しては日蓮の弟子檀那なり、
 しかし、その事を覚知するためには、大聖人様に帰依する必要があることは言うまでもありません。これは、絶対条件です。

//されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり
 では、帰依するとはなにか?無作の三身と悟るためには、法華経の行者であることが条件だと仰せです。法華経の行者とは生死一大事血脈が通うものです。どうすれば通うかは血脈抄にあるとおりです。(血脈とは籍さえ創価学会ならば、自動的に通うなどという単純な話ではありません)

2007/12/18  0:15

投稿者:耕治
//この品の題目は日蓮が身に当る大事なり
 この品の題目!は、大聖人様の身に当たる、しかも大事!だと仰せです。それも、「妙法蓮華経如来寿量品」ではなく「南無妙法蓮華経如来寿量品」と仰せですね。
 そうです、「南無妙法蓮華経如来」様は大聖人様の身に当たる大事なのです。

//神力品の付属是なり、
 神力品において、釈尊から大聖人様が決要付属を受けたと説かれています。決要付属の要を、釈尊より1歩深い奥義程度に解釈すると誤ります。要とはすべての法を生み出す能生の根源の法です。寛師は、肝心要と表現しました。
 南無妙法蓮華経にすべて法は含まれると仰せなのです。また、すべての自然界の法則や仏の諸説も収斂していくと最後に南無妙法蓮華経に行き着きます。この要は、万象、万人の根本として尊敬するべき当体そのものですので、「本尊付属」という言い方もされます。

//如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり
 再びでてきました。如来にはすべての仏が含まれる。釈尊だけではない、すべての仏を含むのだと。

//別しては本地無作の三身なり、
 しかし、真の意味で如来足りえるのは「本地無作の三身」だけだと仰せです。
 「南無妙法蓮華経如来」様を開くと、「本地無作の三身」となります。両者は別個のものではありません。大聖人様は明確に、神力品における付属の正体は、「南無妙法蓮華経」そのものであって、それは「本地無作の三身」なんだと仰せですので、私は金言を信受します。
 
 さて、「本地無作の三身」の説明が必要のようです。
 「本地」とは、前段の「十方三世・二仏・三仏の諸仏」にあたるすべての仏様、阿弥陀も大日もびるしゃなも久遠実成の釈尊たち全部を生み出している能生の仏様であり、これら諸仏の本体にあたる仏様というほどの意味です。
 「無作」とは、誰からも作られたものでもない、元のまま、ありのまま、久遠から未来際まで常住にして滅びることがない、という意味です。「人は神様から作られました」これは「有作」です。
 「三身」とは「南無妙法蓮華経如来」様を三諦から三身如来に開いたものです。「南無妙法蓮華経如来」にも当然、法身、応身、報身が備わっておいでです。

2007/12/17  23:28

投稿者:耕治
(引用)南無妙法蓮華経如来・・・御書には見当たらない言葉(引用終わり)

//第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事

 ここを「妙法蓮華経如来寿量品」読むのが釈迦仏法で、「久遠実成、五百塵点成道の釈尊」の「寿命の量をはかる品」となります。
しかし大聖人様は、「南無妙法蓮華経如来寿量品」と南無をつけていらっしゃいます。いわゆる「南無妙法蓮華経如来」の「功徳をはかる品」とお読みになられておいでです。
 南無妙法蓮華経如来と大聖人様がかく仰せですので、信受すればよい話で、ご本尊の首題の南無妙法蓮華経 日蓮に違和感を覚える事も特にないと思います。

//文句の九に云く
 さて経の後に、如来をつけると云々と申されましたが、

//如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり
 天台は如来とは劣応身をびるしゃなも大日も全部含めて、一応は如来といっています。大聖人様もその釈をここではとられていらっしゃいます。
 しかしながら、

//別しては本地無作の三身の別号なり、
真の意味での如来たりえるのは、先ほど冒頭に出てまいりました「南無妙法蓮華経如来」様だけです。ここで、でてくる「本地無作の三身」と冒頭の「南無妙法蓮華経如来」を違う仏様だと思うと読み誤ります。

//寿量とは詮量なり、
さて、大聖人様は寿量とははかることだと仰せです。

//十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す故に寿量品と云うと。
 如来寿量とは、すべての仏様の功徳の量をはかると仰せです。
 題名は、「南無妙法蓮華経如来」様の寿命をはかるとなっていますが、「南無妙法蓮華経如来」様にすべての仏の功徳は含まれてしまうのです。

//御義口伝に云く
そのことはこれから明らかにされていきます。



コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ