2007/12/30
ピシピシ派、登場
暮れも押し迫って来たが、最近になって奇妙な人物が登場した。今日のタイトルのごとくである。おそらくは半分冗談のつもりで書いたのだろう。そんな馬鹿な発音をする人はいないからだ。
わたくしが使っている辞書には、ピシピシなど載っていない。しかし、いわゆる擬態語・・・いや、擬音語ないし擬声語というほうが正確であろうか、その意味ではもちろん間違いではないし、ビシビシの親戚みたいなものだと思う。
だけど、ねえ・・・
顕正会の登壇でそんな言葉を使う人はいないと思うのだが・・・
まあ、これはオマケみたいなものなのだろう。かの人物は危険人物である。ピシピシなどと冗談をかましているが、それ以外の内容を読むと、その危険度合いがよくわかるというものだ。
こうして見ると、わたくしなどはいかにも他愛ないことがよくわかる。裏の世界のことは、何ひとつ知らないからだ。
いずれにしても、長いことブログをやっていれば、さまざまの来客があるということなのだろう。
さて、今日もまた、顕正新聞の年末合併号である。
先生の深切のご心情
これは四面に載る、壮年部副部長の文章である。
深切?
わたくしはこれを読めなかった。どうやら手元の辞書には載っていない言葉のようだ。いや、あったあった、かろうじて載っていた。親切の項目に含まれていた。その説明の中に、深切と表記する場合もある旨が書かれているのである。
ようは「しんせつ」と読むのだ。そしてそれは「親切」と同義らしいのである。
しかし、それではおかしいだろう。文脈からすれば、違和感がある。
詳しく調べていくと、何となくは理解できてきた。どうやらこれは福沢諭吉の著書などに出てくる言葉らしく、ネット上の大辞林にその文言が引用されている。ここでは煩瑣を避けて紹介しないが、確かにその意味合いからすると壮年部副部長の言わんとすることはわかるのだ。
だが、文句を言っておこう。
副部長はこれを班長会で発表しているのである。はたして、そこで聴いている壮年部員たちは、これを理解できるのだろうか、とわたくしは言いたいのである。
文章というのは、最初から純粋に文章として発表する場合と、聴衆を相手にする場合では表現方法が違ってくるのである。ゆえに浅井先生は、異体同心事にある「多人」を、多い人で多人ですね、というような説明を常に加えている。では、副部長はどうなのか?
わたくしは副部長の登壇を聴いたことがないのでわからないが、実際のところ深切をきちんと説明しているかどうか、そこがひじょうに問題となってくる。
ちなみに、顕正新聞にはしばしば「証」という言葉が出てくるが、この場合は必ずと言っていいほど、「あかし」のルビが振られている。なんだかチグハグな感じがしてならない。
さて、ここまではオマケみたいな話である。引用部分の続きには、とてつもなく重大な発言があるのだ。
先生のお心は日目上人の御心と一体であられるのだ
目師再誕説を思わせる重大発言である。
しかし、先生には「お心」で、日目上人には「御心」である。これは再誕説のツッコミを回避するための措置であろう。この辺に副部長の深謀遠慮があらわれているのだ。
わたくしが使っている辞書には、ピシピシなど載っていない。しかし、いわゆる擬態語・・・いや、擬音語ないし擬声語というほうが正確であろうか、その意味ではもちろん間違いではないし、ビシビシの親戚みたいなものだと思う。
だけど、ねえ・・・
顕正会の登壇でそんな言葉を使う人はいないと思うのだが・・・
まあ、これはオマケみたいなものなのだろう。かの人物は危険人物である。ピシピシなどと冗談をかましているが、それ以外の内容を読むと、その危険度合いがよくわかるというものだ。
こうして見ると、わたくしなどはいかにも他愛ないことがよくわかる。裏の世界のことは、何ひとつ知らないからだ。
いずれにしても、長いことブログをやっていれば、さまざまの来客があるということなのだろう。
さて、今日もまた、顕正新聞の年末合併号である。
先生の深切のご心情
これは四面に載る、壮年部副部長の文章である。
深切?
わたくしはこれを読めなかった。どうやら手元の辞書には載っていない言葉のようだ。いや、あったあった、かろうじて載っていた。親切の項目に含まれていた。その説明の中に、深切と表記する場合もある旨が書かれているのである。
ようは「しんせつ」と読むのだ。そしてそれは「親切」と同義らしいのである。
しかし、それではおかしいだろう。文脈からすれば、違和感がある。
詳しく調べていくと、何となくは理解できてきた。どうやらこれは福沢諭吉の著書などに出てくる言葉らしく、ネット上の大辞林にその文言が引用されている。ここでは煩瑣を避けて紹介しないが、確かにその意味合いからすると壮年部副部長の言わんとすることはわかるのだ。
だが、文句を言っておこう。
副部長はこれを班長会で発表しているのである。はたして、そこで聴いている壮年部員たちは、これを理解できるのだろうか、とわたくしは言いたいのである。
文章というのは、最初から純粋に文章として発表する場合と、聴衆を相手にする場合では表現方法が違ってくるのである。ゆえに浅井先生は、異体同心事にある「多人」を、多い人で多人ですね、というような説明を常に加えている。では、副部長はどうなのか?
わたくしは副部長の登壇を聴いたことがないのでわからないが、実際のところ深切をきちんと説明しているかどうか、そこがひじょうに問題となってくる。
ちなみに、顕正新聞にはしばしば「証」という言葉が出てくるが、この場合は必ずと言っていいほど、「あかし」のルビが振られている。なんだかチグハグな感じがしてならない。
さて、ここまではオマケみたいな話である。引用部分の続きには、とてつもなく重大な発言があるのだ。
先生のお心は日目上人の御心と一体であられるのだ
目師再誕説を思わせる重大発言である。
しかし、先生には「お心」で、日目上人には「御心」である。これは再誕説のツッコミを回避するための措置であろう。この辺に副部長の深謀遠慮があらわれているのだ。
2007/12/31 7:21
投稿者:嘲斎坊
突然の訪問で驚かれたかもしれませんが、その文体に巌虎さんの変わらぬ人柄がにじみでてて、結構、ハマッてます。
ヒトに気づかれないように「ひ」を「ぴ」と発音するのは、なかなかスリリングなことで、修得するには長年月の修行が必要ですね。バレたら何の意味もない。独り、まさに孤独な世界の独りあそびともゆうのでしょうか。
HK.是協さんと、会って直接話しができれば、事態を急ぎ展開できる方法を伝えられるんですけどね。
これは遊びじゃない。
単純に、観客を喜ばすだけの劇場型犯罪を企ててるわけではなく、顕正会の行く末を考えぬいたうえでの行動なのです。