平成25年年末、神呪寺を空海と共に開基した真名井御前=如意尼の御出身地へ行ってきました。
如意尼のご幼名は小萩(こはぎ)で、誕生されたときからそのお体から芳しい香りが川を伝って遠くまで香っていたことから、そのあたりを香河(かご)と呼ぶようになり、現在もその地名は京都府与謝野町に残っています。
元亨釈書では、如意尼は33歳で、空海入定の翌日に遷化(せんげ)された、とあるのですが、ここ如意尼の御出身地では、如意尼はその約5年後に故郷へお帰りになって、寺院を建立して、生涯、この地で仏道修行を続けられた、という伝承が残っているのです。
如意尼の生誕地の碑や、洗濯岩、如意尼が亡き父母のために創建した慈雲寺、如意尼が修業された善法寺、慈観寺の伝承もあります。如意尼作と伝わる小萩観音も与謝野町石川の福寿寺に保存されているようです。
慈雲寺には、如意尼を信仰する人によって、小萩観音の像が奉納されています。
真相は定かではありませんが、いずれにせよ、真名井御前に関してもっとも色濃く伝承の残る場所は、ここ丹後の与謝野町の香河、石川あたりであることは間違いありません。
そして、元亨釈書に登場する摩尼山とは六甲山のことであり、真名井御前も六甲山へ上り、空海と共に六甲比命大善神の御陵を参拝されたものと思われます。
摂津名所図会
http://bittercup.web.fc2.com/07muko/sinjuji.html
>摩尼山神呪寺(まにさんしんじゆじ) 六甲山東面の中間兜山にあり、古義真言宗。
本尊如意輪観世音 弘法火師の作、長一尺ばかり、脇士持国・増長の二天も同作なり。
護摩堂 不動明王を安置す。智證大師の作。
大師堂 弘法大師自作の像を安ず。
三十三所観音堂 中尊聖観音は聖徳太子御作。
荒神祠 三宝荒神は役行者の作。八幡宮馬上の像は弘法大師の作。
鎮守 弁財天女を安ず。役行者の作。毎月七日に開扉あり。また毎歳正月七日の夜には福富の法会あり。 箕面の富のごとし。
山頭祠 熊野・白山・蔵王・住吉・広田・諏訪・八幡の七座を祭る。
九想滝(くそうのたき) 本堂より巽二町にあり。 大井滝 本堂より北の方八町ばかりにあり。 広田神(筆者註:瀬織津姫)影向石(ひろたのしにょうごうせき) 本堂より真南三町にあり。 白竜石(はくりようせき) 本堂の西谷一町ばかりにあり。 弁財天影向石(べんざいてんようごうせき) 一名居箱石(ゐはこいし)といふ。本堂より乾の方八町ばかりにあり。 荒神石(こうじんせき) 本堂の上方一町にあり。 乾滝(からたき) 当山北裏にあり。 鳴滝(なるたき) 坤の方にあり。
寺説に日く、
それ当山はむかし神功皇后三韓を追討したまひて後、国家平安の守護神として金の兜六刎その外武器を蔵めたまふゆゑに、地名を武庫と号し、山を六甲山と称し、また当山は形の似たるをもって兜山といふ。文武帝の御とき初めて役優姿塞この山に来たつて苦行したまひ、弁財天(筆者註:瀬織津姫)の影向を感見してその尊影を作り、鎮守としたまふ。その後淳和帝の皇妃、つねに如意輪大悲の神呪を誦したまへは霊告ありて、つひに天長五年二月十八日、皇妃は官女二人に金吾校尉橘親守を召供し宮中を出でたまひ、遙にこの山に入りたまふ、時に紫雲摩尼峯(筆者註:=六甲山)にたなびき、嬋娟たる美人(筆者註:瀬織津姫)出でたまひて、この山の霊場なる事をしらしめ、われは
広田神の化現なりとて高嶺に飛び去りたまふ。 皇妃大いに歓喜したまひ、一宇を営みたまふ。その後空海僧都を崛請して、すなはち灌頂壇に入り、金胎両部の奥旨を探り、如意輪(筆者註:瀬織津姫)の像を作らんとて御素木をたづねたまへば、山頭に大樹の桜あり、大師加持して皇妃の身量を討つて規とし、尊像を作り、皇妃に奉ず。当寺の本尊これなり。
またこの山に一鬼あり、麤乱神(そらんじん)といふ。この精舎に障碍をなさんとす。大師日く、東の谷に大岩あり、これにてこの神を祭らば守護とならんとて、ここに鎮め祀ひたまふ。それより山河静謐となりけり。今これを福石といふ。天長八年十月十八日皇后薙髪したまひ、如意尼と号し、二人の官婦も同時に髪をおろし、如一・如円と名乗りける。三尼供に如意輪の呪を怠らず唱へたまへは、寺を神呪寺といひ、また感応寺とも呼ぶ。承和二年の春淳和帝この山に行幸ましまし、寺田近里百町を寄附したまひ、七堂伽藍巍然として、僧坊子院若干あり。同年三月二十日、皇妃如意尼はたちまち南方に向つて如意輪の尊像に顕れ、掌を合はして御齢三十三歳にして遷化したまふ。 委しきほ『元亨釈書』に見えたり。当山の絵詞伝は仁和寺御門主、画は土佐土佐守とぞ聞こえし。寿永の頃荒廃せしにや、源頼朝公再興の台命ありて奉行には梶原平三景時なり。その時景時の筆、喜捨文あり。頼朝族舎の旧跡は当寺より二町南に田畝の字となる。 頼朝塚は当山の良の方二町にあり。報恩の為にここに築いて法莚を修しけるとかや。 成就坊の古蹟は梶原が宿坊なり。当寺より南二町にありて田圃の字となる。それより年累りて後、当国伊丹の兵乱に仏閣僧院みな灰燼となる。その後やうやう神呪寺の村中に一宇を結んで本尊を安置しけるが、近年また重興して甲山の半腹に建営し、講堂今のごとく厳然たり。
『新千載』
前大僧正道意、暦応三年秋の頃、摂津国神呪寺といふ山寺に籠り侍りけるに、読みてつかはしける
かすかずにかたえ枯れぬる一つ松いつまでとてか朽ち残るらん 永福門院
朽ちのこる一木の松のかげをこそかれゆくえだもなはたのみけれ 前大僧正道意
この永福門院は 後醍醐帝の皇妃すなはち大僧正の姉君なり。
大僧正は仁和寺勝宝院の件職なり。この一軸は神呪寺の什宝とす。
『神社考』云く、
淳和帝第四の妃は、丹後国余佐郡の人なり。 摂州武庫の山中に入って如意輪の法を修し、空海を請じて薙髪し、如意尼となづく。常に一つの篋を眷す。 その裏を見る事を得ず。時に天長元年大いに早す。守敏・空海の両師を詔して、雨を請はしむ。二人法雩を相争ひ功験見えず。空海師かの皇妃の篋を得て秘牘を修す。たちまち天下雨降ること七日七夜。妃の同閭に水江の浦島が子といふ者あり。これより先数百載久しく仙境に在り。これいはゆる蓬莱宮なり。天長二年、故郷に還る。浦島が子の日く、仙宮より得たる紫雲篋といふ物あり、すなはち皇妃に奉ず。またこの山頭に桜木ありて時々光を放つ。妃これを怪しんで空海師に命じたまひ、如意輪の像を刻まし聖その長妃の身を量つて準とす。妃かの篋を桜の尊像の中に蔵むといふ。<
小萩観音(慈雲寺)与謝野町香河