西宮市名塩の木元寺には、「日本三躰ノ一 木ノ元地蔵尊」と刻まれた碑がありますが、ここは紀伊の木ノ本、近江の木之本地蔵尊とともに、聖徳太子が鎮護国家のため一本で三体の地蔵尊を刻み三か所に納めた日本三体地蔵尊の一つと伝わっているそうです。この寺院には天河弁才天が古くから祀られており、そのほか不動明王、毘沙門天、十一面観音も祀られています。和歌山の木ノ本は日前宮の神鏡(天照大神と瀬織津姫の御神体)が最初に祀られたところです。滋賀の木之元地蔵は、天武朝の創建とされますが、この西宮の木元寺では聖徳太子創建と伝わっています。驚くべきことに、滋賀県の木之元地蔵とこの木元寺を結んだ延長上に六甲比命の磐座が位置するのです。つまり三つの木ノ元地蔵で、日前宮と六甲比命の磐座の関係を示しているのです。
四天王寺創建の際、京都に用材を求めた折に、念持仏の如意輪観音が動かなくなって、寺院を創建しましたが、それが小野妹子の子孫、池坊とも関わる六角堂(頂法寺)です。それを導かれたのは現在も境内に祀られる唐崎明神です。
http://www.ikenobo.jp/event/2010/newsandtopics/20100726_karasaki.html
>聖徳太子がこの地に六角堂を建立しようと材木を探しておられた時に、一人の老翁が東よりやってきました。老翁曰く、「私は地主の神である。この地の側にある禿杉という毎朝紫雲たなびく大木を使い、堂をこの地に建立すれば、 私が後々まで守ってやろう。」と言い終わると、明神天子菩薩となり光明を輝かせながら東の方角へ消えていったと いいます。 太子はその教えに従い、その杉を伐り、六角堂を建立した後、自ら明神天子菩薩の御神体を作り、堂の東方に一社を設けて、 鎮守守護神 唐崎大明神として崇め奉りました。<
現在は下賀茂神社境内で祀られる瀬織津姫を祭神とする井上社も唐崎明神と呼ばれていました。そして、滋賀県大津市と高島市にも同名の神社がありますが、ちょうど六角堂の唐崎明神社も正式な祭礼の日は同じ7月28日で、祓えの行事と深く結びついています。高島の唐崎神社と井上社は祭神が瀬織津姫(・祓戸神)です。このことから聖徳太子を導かれたのは瀬織津姫ではないかと推測できるのです。実は高島の唐崎神社、元は出町柳駅近くにあった井上社(唐崎神社)、六角堂は一直線に並びます。そのほぼ延長上に高槻市の三島鴨神社があり、なんと境内摂社に唐崎神社があるのです。
また、高島の唐崎神社と大津の唐崎神社の延長上に、聖徳太子と毘沙門天が出会われた朝護孫子寺の奥の院が位置しています。
聖徳太子生誕地の明日香村の橘寺と大阪府太子町の御陵(叡福寺)と兵庫県太子町の斑鳩寺(いかるがでら)は一直線で並びます。同じく、法隆寺若草伽藍跡と、信貴山奥の院と大阪の四天王寺、兵庫県太子町の斑鳩寺も一直線で並びます。斑鳩寺には境内に稗田神社(現在は御旅所)があり、神仏分離令の後、稗田神社は移転しますが、摂社太神社に天照大神が祀られています。太子堂には聖徳太子御自身の本物の長い髪を施した太子16歳像がありますが、その御姿は神職の衣装の上に袈裟を重ねたもので、その衣装は必ず皇室より賜ってきた伝統があります。
現在のその衣装は、高松宮が昭和37年2月22日の聖徳太子の命日に寄贈されたものだそうです。右手に神道の象徴である笏を持ち、左手には仏事の法具、柄香炉(えごうろ)を持ち、その足元には天照大神の象徴である鏡が安置してあります。まさに神仏習合を推進された強固な意志を体現した神々しい御姿です。
この太子像を本尊とする太子堂の、向かって右側にはなんと善光寺の阿弥陀如来の複製が祀られているのです。聖徳太子も、善光寺の阿弥陀如来とは深いご縁があり、この阿弥陀如来との往復書簡が四天王寺に伝わっているそうです。
