平安京には、天照大神を祀る神社は極端に少ない、という不思議な事実があります。
筆者は、これには平安時代の初期から中期まで皇室を事実上支配していた藤原氏が関与していた、と推定しています。
藤原氏は、おそらく自分たちの支配を強固なものにするため、高天原と皇室が深くつながることを妨害したのでしょう。
すでに藤原氏の台頭の前に、応神天皇の御代に、瀬織津姫は宮中賢所(かしこどころ)より、切り離され、摂津の国、廣田神社に祀られるようになりました。これはおそらく武内宿禰の手によるものと思われます。
http://www.hirotahonsya.or.jp/yuisyopage/yuisyo_gosintoku.html
廣田神社ホームページより
>荒魂について −廣田神社略記より抜粋−
大正14年に時の皇后陛下が、全国の官国弊社に御奉納遊ばされたる「神ながらの道」の一節に「伊勢神宮の内宮様の御本宮には天照大御神様、即ち和魂の神様をお祀り申し上げてこざいます」又一節に「荒魂(あらみたま)とは和魂(にぎみたま)を『実現する魂』でございます」「宮中の賢所は、応神天皇の御時から天照大御神様として和魂のみを御祀り申し上げ、之に応じ給う荒魂は摂津の官幣大社廣田神社に御祀り申し上げてございます」と記されたるを見ても、如何に尊貴の大神なるかを窺ひ知るに足る。<
これに加え、歴代天皇が、伊勢神宮へ行幸できないように、さまざまな手立てがなされたのは、相当古い時代からであったのかもしれません。
いずれにせよ、皇室と伊勢祭神、伊勢祭神と臣・民が、意識的な関わりを持たぬように藤原氏が働きかけていた、という見方は妥当性を有すると思います。
しかし、京の都の民は、武内宿禰や藤原氏のこのような策謀を見抜いていたのでしょう。祇園祭において、岩戸山、男神天照大神と、鈴鹿山、后神、瀬織津姫がちゃんと祀られるようにしていたのです。
皇室にも、ホツマの文書のとおり、天照大神が男神であり、その諱(いみな)がワカヒト様であることが伝わっていました。
参照 ほつまつたゑ解読ガイド 天照大神の項
http://gejirin.com/src/A/amateru.html
その証拠が、京都の鹿ケ谷の若王子神社です。
こちらの神社では>永歴元年(1160)年後白河法皇が、熊野権現を禅林寺(永観堂)の守護神として勧請して建立した若王子の鎮守社で、社名は天照大神の別称「若一王子」に因んでこのように名づけられた<
http://fishaqua.gozaru.jp/kyoto/sakyo/nyakuouji/text.htm
とあります。若一とはまさにワカヒト様ではありませんか。この意味で若王子神社は非常に重要な神社なのです。後白河法皇は生涯に30回以上も熊野詣でをした天皇として有名ですが、伊勢祭神についてもよくご存じであったものと思われます。伊勢へも行幸されていて当然ですが、伊勢へは参宮できない何らかの政治的圧力がかかっていたのでしょう。