『瀬織津姫さま 言霊リメンバリング』より
トノヲシテと現代
大江 幸久
昨今の在野の多くの研究者の方々の実地調査、文献調査の進展によって、ホツマ⑴への信頼性はますます高まっています。
全国各地の神社・神話伝承、寺院の縁起などとの関連で、神々の足跡を辿っていくと、記紀その他の古史・古伝の中でも、ホツマの内容は、ずば抜けて整合性を有しており、高い親和性があることは、少し比較検討したことのある人であれば、否定しがたい事実です。にもかかわらずアカデミズムの研究者の誰一人として、この事実を一顧だにしないとはいったいどういうことなのでしょうか。
本書で多くの真実をお知らせくださった瀬織津姫については、ホツマと大祓祝詞の慎重な検討抜きには何も語ることなどできません。ホツマを前提にすればその意味を容易に理解できる大祓祝詞の内容も、記紀を含む他の古史古伝では全く意味不明となってしまいます。
この事実を無視、軽視し、ホツマの十分な検討なくして瀬織津姫を知ろうとするいくらかの試みは、出発点から誤っているといわざるを得ません。
「このヲシテ⑵を口にすることによって、人々がその事に触れ、変わっていかなければならない時代が来ているのです。何が良い事で何が悪い事か、何をして良く、何をしてはいけないのかを皆に伝えているはずなのです。」 セオリツヒメ様からの御聞き取りより
このたび、アマノコトネ様を通じて、セオリツヒメ様より貴重な機会を頂戴し、ホツマに記された神代の時についてさらに詳しいことや、高天原と皇室との関係の大切さ、われわれが何を礎として国を作り、生きていくべきか等々についてお知らせくださいました。
神社の鳥居の二つの柱、これは、イサナギ・イサナミの時代からあるものですが、一つは、国常立命⑶の教えであるトの教え=トノヲシテ、そしてもう一つは、トの教えに従わない人への戒めとしてのホコ⑷を示していることがホツマには記されています。
遠き御代の国常立命の治世は、素直で正直な人々が平和に暮らす社会でした。四十八の言霊神を元としたトの教えと、人々が平和な社会を築き、保っていくための宇宙共通の不変の真理、つまり宇宙根源神、天御祖神(アメミオヤカミ)⑸の宇宙の法則に則(のっと)った国常立命の教えに従い、受け継ぐだけで世の中がうまく治まっていた時代が長く続きました。トホカミヱヒタメの八神⑹のうち、トの神の系統がトの教えを広めて日本国を統治していきます。
ところが平和な暮らしを保てた世の中でしたが、交通技術の発達、生産力の発達、そして、トノヲシテの思想を持たぬ海外からの渡来者の増加も大きなきっかけとなったのでしょう。世が乱れる何らかの原因が発生しました。
人々が共同して生産・管理していた作物を横取りするような輩が現れてきました。あるいは人口増大、天候不順などが起因して作物が全ての人々にいきわたらない状態が起こったのかもしれません。
ここに、トノヲシテ=トの教えに従わない人々を、今でいう警察権で取り締まる必要が起きました。そして、刑法のもととなるようなものも出来上がっていったのでしょう。いったんトノヲシテからそれた者たちも、再教育によって、世のために尽くす人へと更生されたものと思われます。しかし、さらに悪質極まりない輩が登場し、重い刑罰を科さなくてはならない必要が、そして場合によっては、死罪もやむなし、というレベルにまでその必要が高まった時代となっていったのが、トの一族六代天神(あまかみ)オモタル・カシコネの時代でした。 当時、人を処刑する手だてはなく、斧が使われていました。
このホコに比重を置かざるを得なかった事態が災いし、オモタル・カシコネには世継ぎの御子が誕生することなく、世の中は乱れに乱れていった、とホツマにはあります。
これに危機感を抱いた、タの一族の豊受大神⑺は、イザナギ・イザナミの治世によって世の立て直しを進めていかれたのです。国常立命の教えを広め、全国各地を回って、農業生産力を向上させ、乱れた言葉を直すために、アワ歌をお作りになり、人々に広めて行かれました。統治の基本はあくまでトノヲシテであり、それを守らぬ者が現れた時にそれを綻(ほころ)ばす消極的な手段としてホコを以って補う、それがイザナギ・イザナミの時代でした。
次に豊受大神は、ご自身の思想を受け継いで、長きにわたり日本国を統治し、後の世の手本となるべき理想の統治者の登場を願って、東北のイトリ山(山形県鳥海山)にて、天御祖神へ八千回にも及ぶ祈祷をなされます。そうして現在の岐阜県中津川市恵那(えな)神社付近でご誕生されたのが、天照大神⑻です。豊受大神は当然、天照大神の大切な后神として、瀬織津姫ホノコ様のご生誕も、同時にご祈願されていたと思われます。
天照大神は、イサナギ・イサナミの御世のホコをツルギ(剣)に変え、これに、国民=ヤタミの心を映し出し、自己の善悪を見つめ直す、自省を促すモノザネとして鏡を加え、三種の神器とされました。
三種の神器の中でも最も大切なものはトノヲシテであることは言うまでもありません。これは常に肌身離さぬ、という意味を持ってマガタマ、というモノザネで示されましたが、 本来はトノヲシテが記された文書です。トノヲシテは時代や地域を超越した理念であり、平和で健全な社会を作り、維持するための宇宙普遍のルールといえるでしょう。
ツルギには、後にクサナギのツルギと天照大神が命名されており、それはこのセオリツヒメ様のご神託にも説かれていますが、戦(いくさ)をすることへの戒めの意味合いが強い名前です。ツルギの名も天照大神が命名されたもので、ツとは、どうしてもトノヲシテに従わないで枯れ尽きる者を、ル=炎で燃やして、ギ=気を枯らすことでトノヲシテに従う青人草を生かしていく、という意味を持ちます。
今もなお残っている「お天道(てんとう)様(さま)が見ている」という言葉は、ホツマに「天(あめ)成る(なる)道(みち)」「天(あめ)の道(みち)」として記されています。人の見ていないところで、悪いこと、良心が咎めることをしても、ちゃんと日輪・太陽の神様がお見逃しなくご覧になっている、罰(ばち)が当たる、という畏れの念を子供のころからしっかりと植えつけられてきたものです。このシンプルな道徳観を持つがゆえに、悪いことに手を染めてはならない、という心のコントロールをしてきたことも、ある意味では、トノヲシテとホコの思想の表れ、とも言えるでしょう。
イザナギ・イザナミに始まり、天照大神に受け継がれたトとホコ=ツルギという心理的(時に物理的)強制で治める、という統治の基本理念は一国で完結するものであったと筆者は考えます。
時代が下がるにつれて、ますます海外の諸国家、渡来する他民族の侵攻の脅威にさらされることとなります。台頭する外国勢力との関係をどのように処理するのか、については、ホツマには記されていません。しかし、今回の御聞き取りで、天照大神と豊受大神が丹後半島にお鎮まりになった理由の一つが、大陸の脅威から日本をご守護するためでもあったことが明らかとなりました。対外的な守りは極めて重要であり、外交は、なお慎重にも慎重を期すべきものであることは明白です。
和す・尽くすのトノヲシテの思想の及んでいない外国勢力との関係において、ただ単純に、まつろわぬ者たちだからという理由で、ホコを積極的に活用するのは危険極まりない考えです。もちろん、国外勢力が攻めてくる危険があるならばそれに対する十全な備えは必要ですが、むやみにホコ=武力に依拠した外交政策を取ることは、トノヲシテの思想から導き出されるものではありません。
むしろトノヲシテの思想を日本人の中によみがえらせ、そしてその思想を全世界へと広げていくことが御神意に沿っているはずです。
つまりトノヲシテ=和す・尽くす、の理念の普遍化が最も大切である、ということです。元来、トノヲシテは、天御祖神によって作られた宇宙普遍の平和な社会形成のための法(のり)でありますが、それは諸外国との密接な関係が形成されている今日においては、日本一国のみでは完結しうるものではなくなってきた、といえるでしょう。
国と国が衝突すると、それは甚大な被害をもたらします。互いが正当性を主張し、いったん軍事的衝突が始まると、行き着くところまで行ってしまいます。
今回のセオリツヒメ様への御聞き取りで、神代の時代、国内の戦において男性が次々に駆り出された結果、極端に男性の数が減ってしまったことが初めて知らされました。これが、十二后制度⑼を導入せざるを得なかった要因であったのです。戦を交えることにより、必ず意味もなく多くの人命が、特に男性の命が奪われてしまいます。
戦後直後の1945年9月25日、昭和天皇は「……武器を使うことで恒久の平和が確立され維持されるとは思えない。平和の問題を解決するには、勝者も敗者も軍事力に頼らず、自由な諸国民の協調によって達成されるであろう」とご発言されました。それより70年を経た現代、高天原の神々の代表としてセオリツヒメ様は、トノヲシテを世に広めることと、平和を守り、次代を担う子供たちを生み出し、教育する女(メ)の道を復活させることの重要性を最も強調されています。
それは明らかにホコ=ツルギ、武力によって国家間の諸問題を解決しようという方向に反対されていることを意味します。
日本の建国は、神武東征が最初ではありません。それよりもはるかに昔であり、戦闘の勝利によってなされたものではなく、国常立命による平和的な国づくりによるものであったのです。このことに思いを馳せるとき、国家間の関係も、戦争を回避するために皇室・政治家・市民の全日本国民が、多様で多方面にわたる外交・友好関係構築・維持に最大限努力し、トノヲシテ、それに基づく日本の精神文化を巧みに諸外国に広め、ツルギ=武力を外交・国家間の紛争においては使用しない、という理念を最大限に守るべきではないでしょうか。
日本の風儀(てぶり)は、ウオーゲームの土俵に立つのではなく、トノヲシテ=和す・尽くす、の思いやりやおもてなしの理念の国際化に努めるべきと考えます。
今こそ、日本の神々が、外国勢力によってもたらされた仏教・儒教との無益な対立を避けて、聖徳太子を通じて神(儒)仏習合の道⑽を良しとされたのか、よくよくその深い意味を考えるべきでしょう。
大和の国民は、他国と同じレベルの政治・軍事の論理で対応することなく、高天原の神々の意志に従った道を歩むべきです。皇室はそのことをよく御存じで、高天原の御意向に沿った御役割をなさっていらっしゃいます。神代の時代に、トの教えを広めるべき臣(おみ)は、トミ(臣)(=トノヲシテを広める役人)と呼ばれるようになった、とホツマにはっきりと記されています。国民を代表する政治家は、国常立命の建国精神に立ち返り、皇室の御意向にしっかりと耳を傾け、トの教えを広める文字通りのトミ(臣)の役割を果たして行くべきです。
ケルトとギリシャのルーツを持つラフカディオ・ハーン=小泉八雲は、日本人の道徳的精神の高さに驚嘆していました。その根源が何にあるのか、それはどのように継承されているのかを探ってついに、日本人の宗教は日本人の心の中にある、とずばりとその核心を指摘したのです。
これは日本人が生まれながらにそのような心を持って誕生した、ということなのでしょうか。そうではなく、神代以来の日本社会の伝統によって、それがずっと守り続けられ、さまざまな行事、風習等を通じて、特別な学校教育がなくても親子や祖父母を通じて、地域の伝統行事を通じて自然に継承されてきたことによります。
日本人が、ごく自然に社会の中で身につけることのできた日本の伝統を通じて、ごく自然に継承されてきた教えがトの教え=トノヲシテです。
西洋の個人主義思想が発達している社会や、祖先崇拝のない海外の宗教や伝統は、日本人には奇異に映るものです。仏教ですら、ひとたび日本の国外へ出るならば、祖先崇拝とは無縁の教えなのです。仏教はもともと出家によって家を否定する考え方なので、祖先崇拝という考え方はオリジナルの仏教にはなく、日本で広めるために神道が担っていた祖先崇拝の行事を仏教が役割分担したという経緯があるのです。
ところが、戦後直後からのアメリカによるWGIPプログラム⑾に基づく思想洗脳政策によって、軍国主義思想と共に、それ以前からの日本の伝統的な大切な考え方がほとんどすべて消し去られてしまいました。
とはいえ、その古くからの考えの片りんは日本社会に深く浸透しており、また、折々の年間行事などを通じて、風習や儀礼を通じて、その深い意味はあまり意識されていないものの、ずいぶんと弱くなりながらも辛うじて保たれてきています。
人の良心の中にトの教えは生きています。忘れかけられたトの教え、それが反映されたホツマに触れることによって、神代の時代の本当の歴史がわかるだけでなく、人類が本来持つべき基本的な考え方を学ぶことができます。
日本は、神による建国がなされた世界でもまれにみる貴重な国です。その理想の国の建国の過程で様々な困難があったことも、後の世への教訓としてホツマに記されています。
人の体をもってご登場され、ご活躍された日本の神々が御自ら示された理想の国づくり、それに伴う様々なトラブルや困難があったことも含めてもっと真剣に知ることが大切です。 そしてそれらの経験、そこから導き出される教訓を、現代社会に生かしていくことが求められています。
和(やわ)す・尽くすの思想の源は国常立命の常世の国の思想=トノヲシテと同じであり、それが、日本人の心根にしみわたっているがゆえに、日本人からホツマの教えが切り離されても日本人の心に残り続けているわけです。
時代とともに、それは仏教の教え、説話文学などに姿を変え、また関西ホツマの集いの清藤直樹氏が指摘したように、明治期には「教育勅語」となって、その一部が教育理念の中に取り入れられたものと思われます。
戦後、そのトの教えの一部を反映したといえる教育勅語も否定され、日本人が方向性をいよいよ見失う危機の時代に、実に1700年ぶりにホツマが登場しました。我々一般庶民の目には史上初となるはずです。トノヲシテがふんだんにちりばめられているホツマは、日本の神の教えをすべて削り取った『古事記』、『日本書紀』とは全く次元が異なります。
明治以降、瓊(ト)と矛が区別されず、瓊矛(ぬほこ)として一体化され、瓊(ト)が国常立命のトノヲシテであることがかき消された『記紀』を基にする国家神道は、矛=武力の思想に偏りすぎてしまいました。
ホツマに記されているように、高天原の神々のお考えに基づけば、比重はあくまで、瓊(ト)ノヲシテの方におかれているのです。天照大神の時代にも、ハタレとの戦いなどはありましたが、戦いの過程でもあくまで、教え諭すことに重点が置かれ、そして戦いの後には、敵対した頭目とも和睦して理想の国をつくることができたのです。
この点をはき違えてしまっている方が、神道を奉ずる人々の中にも多い、ということは改めていくべきことではないでしょうか。
ホツマに関心を持つ人たちが少しずつ増えてきたことにより、トノヲシテ、48音の言霊神が極めて重要であることが広まっていく機運が高まりつつあります。それは北条泰時が御成敗式目に「神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添う」とまさに記している通りなのです。神を称えることがすなわち、自分たちの世の中をよくするための礎なのです。
1ホツマ 全編ヲシテ文字を使って五七調で記された、古代の一大叙事詩であり、歴史書であると同時に、道の書、博物学のエッセンスの書でもある。全40紋(あや)(章)で、1〜28紋は神武天皇の右大臣であるクシミカタマ、29〜40紋は崇神天皇の御世に大神(おおみわ)神社の斎主となったオオタタネコの編纂による。江戸時代にもごく一部の神道学者の間で研究がなされていたが、特に昭和四十一年松本善之助氏によって神田の古書店でホツマ文書が発見されたことをきっかけに、在野の池田満氏、鳥居礼氏、鏑邦男氏など諸氏の研究によって、ホツマが広く知れ渡るようになった。
⑵ヲシテ(トノヲシテ) 48のヲシテ文字と音。一音一音がそれぞれ神である ヲシテの文字と音を基にした、日本の建国以来の平和な社会を築くための根本思想。
⑶国常立命 日本建国の祖神 御子神がトホカミヱヒタメの八神。
⑷ホコ 矛・武器 トノヲシテ=人の道の教育と対になるもので、人の道から外れる者をホコ=警察権で取り締まる。
⑸天(あめ)御祖(みおや)神(のかみ) 宇宙根源神 フトマニ図の中央に表わされる神
⑹トホカミヱヒタメの八神 天元神 フトマニ図で中心に位置する天御祖神の八方を囲む神⑺豊受大神 伊勢神宮外宮の神 天照大神の祖父にあたり、天照大神に国の統治者としての教育を施す。
⑻天照大神 八代天神で男神 日本の統治者としての理想のご活躍をされる。その御言葉は皇后瀬織津姫によって筆録され、それがホツマツタヱに反映されている。日本書紀に天照大神を「姉神」と素戔嗚命が呼ぶ箇所があること、そして、天照大神=大日霊貴命の霊の下に女をつけた文字、そして、男神を表すキ=貴を無理にムチと読ませて、オオヒルメノムチとして、女神説を流布したものと思われる。
⑼十二后制度 オモタル・カシコネの治世に世は乱れ、戦乱の世となり、著しく男性の数が減ったことにより、天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)を確実に得るため、十二后の制度が採用された。
⑽神仏習合の道 聖徳太子は、神・儒・仏の三法を重んじるべきことを説いた。神祇の祭祀を怠らぬように諭した「敬神(けいしん)の詔(みことのり)」の起草者といわれ、現に四天王寺創建時、その周辺に複数の神社を創建している。その中の一つが廣田浜南宮=西宮神社(兵庫県西宮市)を勧請したと思われる今宮戎である。(今宮戎では京都八坂神社の北向蛭子社が勧請元と伝わるが、そこは事代主神のみ祀る社である。本来の勧請元と考えられる西宮神社では神名を確認できない稚(わか)日(ひ)女尊(めのみこと)が祀られる。その200m北方の向津(むかつ)姫(ひめ)一神を祀る廣田神社も同時に創建ととらえるのが妥当。) 外来の宗教を受容し、尊重するという姿勢が培われる源となり、日本では、宗教を理由とする深刻な対立は国内的にも対外的にも起こっていない。神仏習合はその後、役行者、天武天皇、空海によって引き継がれたものと思われる。聖徳太子生誕地の橘寺(奈良県明日香村)、天武天皇陵(同明日香村)、役行者生誕地(奈良県御所市)、空海生誕地(香川県善通寺市)のそれぞれの地点が一直線で並ぶことから、高天原神界の使者として役割を果たされたであろうことが推定される。また、大江の仮説であるが、聖徳太子は、天照大神・瀬織津姫・天忍穂耳命をそれぞれ毘沙門天・吉祥天・善膩師童子として仏教的な姿で祀ることで守護されたようである。太子は、瀬織津姫を如意輪観音・聖観音をはじめとする観音としても祀った、と思われる。
⑾WGIPプログラム 戦後、日本人に戦争への罪悪感を植え付け、同時に日本精神を骨抜きにするために実行されたアメリカの洗脳政策。