憲法前文・憲法9条の基本理念の源が昭和天皇であることの証明。
1945年9月25日、ニューヨークタイムズ記者クルックホーンとの会見記録によれば、
クルックホーン 「陛下は最新武器(原爆)の出現が、将来の戦争をなくするとお考えになりませんか?
との質問に対し、
昭和天皇
「銃剣によって、または他の武器の使用によっては、永遠の平和は樹立されるとは考えられぬ。勝利者も敗北者も武器を手にしては、平和問題は解決しえない。真の平和は、自由なる人民の協力一致によってのみ達成される。(筆答)」とお答えされています。
その直後、当時すでに忘れられていた、国際協調路線で活躍した幣原喜重郎氏が、昭和天皇直々の説得によって首相に抜擢されます。第二次大戦前に国際協調路線をとり平和外交を推し進めようとしていたその幣原氏の姿勢を、昭和天皇はずっと見守り、高く評価されていたのです。ここが見落とされています。
昭和天皇は太平洋戦争開戦に反対されていました。開戦3か月前1941年9月の御前会議で、明治天皇の御製
よもの海 みなはらからと
など波風の たちさわぐらむ
を御詠みになっています。
さて、幣原喜重郎氏が9条を起草した、というのは今や通説といえます。
幣原氏は、戦時中、戦争推進派から、腰抜け外交・軟弱外交の外務大臣として売国奴扱いされていた人物です。た政界には軍事に多大な価値を見出す政治家もまだ多く残存する中で、少し前までは肩身の狭い思いをしていた幣原氏が、新憲法起草の大役を賜ったものの、独自の戦争放棄の発案を単独で打ち出せる自信が果たしてあったといえるでしょうか。
新憲法の平和の理念は幣原氏を抜擢された昭和天皇との合意なしには打ち出せません。幣原氏は「平和国家建設、国家間の諸問題の武力による解決の否定」という昭和天皇のご意志を深く理解しこれに合意していたがゆえに、それを憲法の基調とすることに自信を持って突き進むことができたと考えられます。しかし、昭和天皇は戦争放棄が御自らの御発意であることをひた隠しに隠されました。
1946年元旦の昭和天皇の詔書にある「徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意ヲカタク」とは この武装の放棄の御決意を示されたものです。 幣原首相は、天皇の秘密の勅使として、46年1月24日、マッカーサーに憲法条文に戦争放棄を盛り込むことを伝達します。
さらに同年3月5日 幣原首相を宮中に召しての、「政府に憲法改正を鞭撻する勅語」では「日本国民が正義の自覚に依りて進んで戦争を放棄して国民の総意を基調として憲法に根本的の改正を加え」とも詔されています。
これが、戦争放棄、武装全面解除を謳う平和憲法の起源とみるのが妥当でしょう。
尊い国民300万人もの犠牲、数知れぬ外国の人たちの尊い犠牲、広島、長崎の被爆者たちのことをお思いになり、昭和天皇は、武力全面否定=戦争放棄、そしてそれを全世界に押し広げることを憲法に明記する御意志を貫かれました。
であるがゆえに、憲法公布の1946年11月3日の2日後にいち早く、勅使を伊勢神宮に遣わして、戦争放棄・一切の武力否定の平和憲法完成の御祭文を奏上されたのです。「これこそが日本がこれから歩むべき世界平和実現のための基本路線である。」として。
以下は伊勢神宮で奏上された御祭文です。
「さきに世界の大勢と国状の推移とに鑑(かんが)み畏(かしこ)かれども憲法に大きな改正(あらた)めを加へて以(もっ)て国家を再建すべき礎を固めなむと図りけるに今回永く兵革(へいかく)の禍(わざわい)を絶ち 在りと在る国民の総意を基調とし愈(いよいよ)邦家(ほうか=自国)の内外を平安(やすら)からしむるべく日本国憲法凡(すべ)て十一章百三条を制定(さだめ)茲(ここ)に之を公布(しらし)める事となりぬ是(これ)を以て此由(このよし)を告奉(つげたてまつ)るとして宇豆(うず)の御幣帛(みてぐら)奉出(たてまつりいだし)給ふ事を宇豆那(うずな)ひ聞食(きこしめ)して永遠の太平と国民の福祉とに威(たけ)き神佑(しんゆう=神の助け)を弥高(いやたか)に蒙(こうむ)り奉らしめ給へと白(まおし)給ふ天皇の大命を聞食(きこしめ)せと恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(まお)す」(原文宣命書き)
1946年11月5日
勅使、賞典長・甘露寺受長(かんろじおさなが)が伊勢神宮内宮にて奉読
岩波新書 原 武史著 『「昭和天皇実録」を読む』より
これが改憲派も護憲派も決して等閑視してはならない平和憲法誕生の真相であると思います。すなわち平和憲法の理念は昭和天皇の御発意であった、ということです。