「わたしは不幸にも知っている。時には嘘に依るほかは語られぬ真実もあることを。」(芥川龍之介)
わたしは不敏ゆえに知っている。時には誤解に依るほかは語れぬ真実もあることを。
わたしは不敏ゆえに知っている。時には誤解に依るほかは感じられぬ真実もあることを。
「人生は狂人の主催に成ったオリンピック大会に似たものである。」(芥川龍之介)
「アルコ−ルは人生という手術を耐えるための麻酔である。」(バーナード・ショー)
何らかの方法で酔わなければ人は生きられない。「人生」という酔狂に適応しなければならないのだから。
「絶望は虚妄だ、希望がそうであるように。」(魯迅)
不安は虚妄だ、安心がそうであるように。
悲しみは虚妄だ、喜びがそうであるように。
非日常は虚妄だ、日常がそうであるように。
文学は虚妄だ、人生がそうであるように。
「われわれは人とつき合う場合、とかく、長所より短所のせいで気に入られる。」(ラ・ロシュフコ−)
いちばん不器用なのは、器用さを隠せない人。
いちばん器用なのは、不器用さを隠さない人。
「自然は芸術を模倣する。」(オスカー・ワイルド)
自然科学は芸術を翻弄する。
自然は自由な芸術を模倣しつつ、自然と芸術の自由を蝕む。
「クリスト教はクリスト自身も実行することの出来なかった、逆説の多い詩的宗教である。」(芥川龍之介)
芥川文学は芥川自身も実行した逆説の多い詩的宗教である。
「太陽と死は、じっと見つめられぬ。」(ラ・ロシュフコ−)
風と詩は、じっと聴いてはならぬ。
よく見える眼は、太陽に照らされると潰れてしまう。死を見つめると、静止する。
(盲目的な生か、静謐な死か。)
「もし真に楽天主義なるものの存在を許し得るとすれば、それは唯いかに幸福に絶望するかと云うことのみである。」(芥川龍之介)
楽天主義は安易な絶望である。
厭世主義は容易な慰安である。
「芸術の世界は夢の世界である。」(ラウパッハ)
「知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。」(荘子「胡蝶の夢」)
「藻の匂の満ちた風の中に蝶が一羽ひらめいていた。彼はほんの一瞬間、乾いた彼の唇の上へこの蝶の翅の触れるのを感じた。が、彼の唇の上へいつか捺って行った翅の粉だけは数年後にもまだきらめいていた。」(芥川龍之介「或阿呆の一生」『十七 蝶』)
芸術の世界は胡蝶の夢である。夢の世界でありながら、真実でもあるのだから。
「人生は、考える者には喜劇であり、感じる者には悲劇である。」(ホラス・ウォルポール)
「われわれの身におとずれる幸不幸は、それ自体の大きさよりも、われわれの感受性に応じて心にひびく。」(ラ・ロシュフコー)
感性を尊ぶ者は幸いである。感受性が不幸の増幅装置になることを感じていないのだから。
「ある種の涙は、他人を欺いたあと、しばしば、自分まで欺いてしまう。」(ラ・ロシュフコー)
生理作用でしかない涙は、欺瞞であるのみならず、自己欺瞞に陥らせるものである。
「人間は、天使でも動物でもない。そして不幸なことは、天使のまねをしようとすると、動物になってしまうことだ。」(パスカル)
天使は、神でも人間でもない。そして不幸なことは、人間のまねをしようとすると、悪魔になってしまうことだ。
「鳥籠が、鳥を探しに出かけていった。」(フランツ・カフカ)
家が、家族を探しに出かけていった。
「たいていの女の賢しさは、理性よりも、狂気を強めるのに役立つ。」(ラ・ロシュフコー)
女にとって才覚とは、強度のストレスである。
女性は幾つになっても少女のように困惑するときがある。狂気を弱めるために。
「最も鋭い狂気は、最も鋭い知恵から生まれる。」(ラ・ロシュフコー)
浅知恵こそ人生の指針となる。深遠な知恵は、洗練された狂気なのだから。
「狂気を直す方法はある。だが、つむじ曲りを直す方法はない。」(ラ・ロシュフコー)
活字中毒を直す方法はある。だが、文学中毒を直す方法はない。
「我我は神を罵殺する無数の理由を発見している。が、不幸にも日本人は罵殺するのに価いするほど、全能の神を信じていない。」(芥川龍之介)
日本人の良識とは、無信仰に耐えることである。
「事実は小説よりも奇なり。」(バイロン)
本質は事実よりも奇なり。
「文は人なり」(諺)
「悪法もまた法なり。」(ソクラテス)
文は人なり。悪文もまた文なり。悪もまた人なり。
「奇跡は信仰の愛児だ。」(ゲーテ)
芸術は信仰心の継子だ。
「愛から迷い出るときにのみ、人は迷い出るのである。」(パスカル)
愛による迷いから醒めたとき、人は生きることそのものに惑う。
何ら迷いもなく人を愛せるようになったとき、人は愛に迷い込み始める。
「人は、今、思っているほど不幸でもないし、昔、願っていたほど幸福でもない。」(ラ・ロシュフコー)
人は昔の望み通りにはならなくて弱るから、今絶望しきれるほど強くはなれないのである。
「皮肉っぽい見方のほうが正しいに決まっているのに、無理をして好意的な見方をして何になるというのか。」(バーナード・ショー)
逆説的な見方のほうが面白いに決まっているのに、無理をして退屈な通説にこだわって何になるというのか。
「神を知ることから神を愛することまでは、なんと遠いことであろう!」(パスカル)
人を知りたいと思うのは、その人を愛しているからである。
神を知りたいと思うのは、神を愛せないからである。
「悲運に耐えるより、幸運に耐えるためにこそ、大きな能力が要る。」(ラ・ロシュフコ−)
不安に耐えるより、退屈に耐えるためにこそ、根性が要る。
「言行一致の美名を得るためにはまず自己弁護に長じなければならぬ。」(芥川龍之介)
言行不一致の汚名を払拭するためにはまず自己欺瞞に長じなければならぬ。
「世界は舞台であるが、配役の決め方はまずい。」(オスカー・ワイルド)
世界は舞台である。割に合わない役割を演じるための。
世界は舞台である。
柄に合わない役柄、割に合わない割り当てられた役目、割り切れない役割を演じるための。
個人の生命は時間芸術であるが、構成の方法はまずい。
「理己主義も愛国心と呼ばれ得るように、興味も時には信念と呼ばれ得る事がある。」(芥川龍之介)
信念を信じてはならない。ただ念じているだけかもしれないのだから。
「人間になること、それはひとつの芸術である。」(ノヴァーリス)
悲しい人になること、それはひとつの抒情詩である。
「単に世間に処するだけならば、情熱の不足などは患わずとも好い。それよりもむしろ危険なのは明らかに冷淡さの不足である。」(芥川龍之介)
いつのまにか情熱を患うものだから、冷淡さが不足していたことを悔やむのである。
情熱によって常軌を逸することができる者ほど、人一倍無常を痛感する破目に陥るのである。情熱家ほど、戒心して冷淡になりがちなのは物の道理である。
冷淡になれる者は、情熱を晒すことの怖さを知っているだけのことである。
本当に冷淡な人などいない。情熱を晒すことの怖さを感じている人がいるだけである。
冷淡さは時として、屈折した感情表現である。
「『或夜の感想』 眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい。」(芥川龍之介)
「或る研究者の感想」 愛智は知よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい。
「或夜の自棄」 愛智は愛よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい。
「ほんとうの恋は幽霊と同じで、誰もがその話をするが見た人はほとんどいない。」(ラ・ロシュフコー)
本当の恋とは、オカルトの一種である。
「悪縁、契り深し」(諺)
奇縁、千切り難し。
「人間一般を知ることは、個々の人間を知ることよりもはるかに容易である。」(ラ・ロシュフコー)
知を愛することは、愛を知ることよりもはるかに容易である。
「一人の人間を知るより、人間一般を知る方が、まだ楽なのだ。」(ラ・ロシュフコー)
愛を知るよりも、知を愛する方が、まだ楽なのだ。
「人間一般の理解には頭脳が働き、個々の人間の理解には心臓(こころ)が働く。」(ルー・サロメ)
愛を理解するためには頭痛、愛するためには動悸、に苛まれることになるのである。
「金は天下の回り物」(諺)
金は天下の擬い物。
「人生とは、病人の一人一人が寝台を変えたいという欲望に取り憑かれている、一個の病院である。」(ボードレール)
病まぬ人などいない。人生という病院を娯楽施設だと思い込む重病人にならぬよう、病人であることを自覚せねば。
「装った単純さは巧妙なごまかしである。」(ラ・ロシュフコー)
「素朴らしく振舞うとは、いかにも手のこんだ詐欺である。」(ラ・ロシュフコー)
「不自然な天然」
飾らないありのままの自然体でいることほど、不自然なものはない。

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