2006/3/20
キリストの言葉
18・3・20
今朝は、映像が送られて来た後、「キリストのことば」と出て来た。
朝、事務所に出て来て、広辞苑で「キリスト」を調べると、次の様に載っている。
「キリスト(Christo ポルトガル語)」(元ヘブライ語のマシーアハ(ギリシア語形メシアス)のギリシア語形)「油を注がれた者」の意。古代ヘブライ時代で王や祭司や預言者は任命に際して頭に油を注がれ、後にイスラエルを救うために神が遣わすべき将来の王の意となる。キリスト教ではイエスを人類の罪を購(あがな)うために神が遣わしたキリストと信じる。
ウィキペディア辞典 現在記載
それからすると、「キリストのことば」とは「神に選ばれた 将来の 王のことば」の意味となる。
今朝の映像に、其の意味が、含まれていたのだろうか。
今朝の映像は、堅固な丸い形の物が、光りの中に一枚だけ有り、濃い紫色から、赤黒く変色して行くのが映り出された。
次に、地面から「祝詞の言葉」が天に向かって上がって行くと、空から「神の言葉」が逆さまに降りて来て、両方が合わさった接点に、黒い横線が出来た。
其れは、細い鉄棒の棒が長く伸びていて、上下の言葉を吸い込んでいると、説明すれば理解して貰えるだろうか。
そして、其の黒くて細い横棒は、レコード盤の淵を横から見ている形であり、真上から見れば、丸いレコード盤が回りながら、上下から流れて来る言葉を、レコード盤に記録している事になる。
其の盤の回転は、上・神から見れば左回転だが、下・人間から見れば、右回転である。
始めに現れた、一枚の丸い物は「レコード盤・DVDデスク」で、宇宙の情報を、全部記録する物である事を意味していたのである。
そして、次の映像は、地球の現実世界を、私が動いている場面が幾つも現れた。
@ 前の夜に飲み過ぎた様で、自分が何処で朝を迎えたのか判らない。
A 知り合いの、レストランを経営している人が、私を呼び止めて昼飯をご馳走してくれたのは良いのだが、私がゆっくり食べていると、食べ終わらないうちに途中で片づけてしまった。皆忙しいので、掻き込んで食べて済ましたらしいのだ。
B 川に行って貝を調べていると、食べられる貝と、寄生虫がたくさん中に居て食べられない貝が居る場所との区別が判った。
C 車で移動するのに、途中で人に道を尋ねると、間違って教えるので、カーナビだけで目的地に向かう事にした。
これ等の映像の後に、「キリストのことば」と出て来たのである。
今朝のメッセージは、人間の祈りの言葉と、宇宙の意志である神の言葉が、同じ「アカシックレコード盤・DVDデスク」に書き込まれる事が示され、其の事に参加する役目の人は、次の様な行動をしている者は、タッチしてはいけない理を示して来ている。
@ 生活が乱れていて、自己管理が出来ていない者。
A 日常の暮らしに追われて、時間的な余裕が無い人達。
特に、客相手の商売をしていて現場の事が、頭から外せない人。
A 自分の意識の中に、イデオロギーや宗教や哲学等、人間自身が考え出した
意識がインプットされていて、自分の脳が、他人の情報で侵食されている人。
其れに、汚い水を飲んだり、生活に使っている人や、川の水を汚染している人。
C 自分の人生を過ごす、旅の情報を「宇宙・神」から直接受け取るのではなく、他人の情報を鵜呑みにして行っている人。
等、是等の条件下に在る者は、キリストには成れない事を伝えて来ている。
逆に、これらの条件をクリアすれば、誰でも、キリストに成れる条件下に在ると言う事になる。
しかし、神社の宮司や、寺院の管長、其れに教会の神父等の役職に在り、多忙な人達は、其れを辞めない限り、無理である理も分かる。
要するに、完全に自由で、神の意識と同時に、レコード盤の情報の舞台に、上がらなければ成らないのである。
此の理・ことを、理解出来た者は、誰も、神社や、寺院や、教会には行かなく成るだろうし、例え行ったにしても、其処に働いている人間の言う事は、信じなく成るだろう。
しかし、私の知り合いには、私の謂う理を理解している、神主も、僧侶も、神父さんも居るので、全部が全部と言うわけではない事は記して措く。
さて、「キリストの言葉」に戻ると、キリストだったと伝えられている「イエス(ユダヤの神官達は認めていない)の言葉に、「貴方達は あの山は 絶対に動かないと意っているだろう。だが 私が動いて海に入れと云えば 動いて海に入るのだ。」とある。
其れは、佛教の「色即是空・空即是色」の理と、同じ意味を説いているのである。
此の世界のあらゆる存在は、宇宙の「情報・縁」で組み上がっている物だから、真実は「宇宙・神」の意志下に在り、此の現象世界は仮の物であるから、神が其の必要を感じて、私の舌を借り、あの山に「動いて 海に入れ。」と言葉にすれば、神自身の意志に於いて、其れは現実としてそうなるのだ。との意味である。
其れが、神に選ばれた者の意味である「キリスト・王」なのだ。
其の、神に選ばれた者の言葉が「キリストの言葉」である。
日本語では「ものごと」との単語がある。
其れは「事が起きるのは 言葉が元」との意味を含んでいる。
誰かが言葉を発するか、言葉を文章にして見せなければ、物事は起こらない。其の、物事を興す言葉を云う事が出来る、一番の地位が「スメラの命・ラーの神官」なのである。
今朝は、愈々「チャクラヴァルティン・転輪聖王(てんりんじょうおう)」のお出ましが、近い事を告げて来たのだろう。
明日は、弘法大師空海の1171回目の命日である。
だから、言葉・真言・マントラの意味を伝えて来たのだろう。
明日3月21日は、私が、出雲で初めて教室を開いて、丸8年目と成る日である。私の言葉も、少しは真実を打つ力を得て来たのであろうか。
平成18年3月20日
礒邉自適
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。