佐々部監督を偲んで  佐々部監督の世界



「映画の伝道師になれ」

これは、2009年、僕が山口朝日放送の映画情報番組「シネキング」MCに決まった時、佐々部監督から言われた言葉です。

監督からは「大橋はどうしようもない映画馬鹿だな」とよく言われてましたが、それがメチャクチャ嬉しかったです。監督とは映画談義もよくしました。


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(C)大綱引の恋製作委員会


「お前あの映画どう思う?」と聞かれ、感想を言うと大抵否定されてましたが(笑)その映画談義がとても楽しく、この映画ブログにもたびたびコメントを頂いていました。

出会ったきっかけは、2003年「チルソクの夏」の山口県東部での上映活動をお手伝いした時でした。

「下関だけでなく、山口県東部でも盛り上げたい」と、佐々部監督と監督の豊浦高校の先輩で、この映画実現に努力された下関のイベント会社社長、故・松本敬一郎さんが徳山の毎日興業本社を訪れた時が、初めての出会いでした。

松本さんは「チルソクの夏」の劇中で大人になった安君」を演じられた方でもあります。

山口県東部でのキャンペーンなど、いろいろと企画させてもらったのですが、これがのちのち会社を辞めて「映画と向き合う」きっかけになりました。

この時、製作委員会の一翼を担っていた山口放送さんともグッと近くなり、のちのち県内のメディアでお仕事をさせて頂くきっかけにもなったのでした。



初めてお会いした時も、いろいろな映画の話をさせて頂いたことを覚えています。「映画をよく観てますね」と年下の僕に、監督が敬語で話してくださったことが嬉しかったです。

そしてこのすぐあと、「チルソクの夏」の応援を通して知り合った同じ周南地域の仲間たちと「佐々部監督周南応援団」を結成しました。

「カーテンコール」の時は前売り券の販売に全力で取り組み、みんなで協力して数千枚は売ったと思います。

試写会やイベントも企画・開催しました。「四日間の奇蹟」では映画に登場するサヴァン症候群の天才ピアニスト少女の演出の参考にして頂ければと思い、光市在住で、全盲で知的障害を持つ天才ピアニストの方を紹介させて頂きました。



「出口のない海」の時は、仕事そっちのけでお手伝いに夢中になってしまい、なかなか仕事も立ち行かなくなって、思い切って会社を辞めました。その時ちょうど40歳でした。

この時の忘れられない思い出がいくつかあります。

「出口のない海」が映画会社から佐々部監督と市川海老蔵さん主演で製作する、と発表された直後だったと思います。監督を周南市大津島の回天記念館にお連れしたあと、ファミレスで2人で食事した時、監督が「実はまだ監督を引き受けるかどうか悩んでる」と言われました。

「え?どうしてですか?」と尋ねると、監督は何も言わずにカバンから脚本を取り出して、僕に「読んでみろ」と手渡しました。

僕は緊張しながら読み始めましたが、2時間ほどの映画脚本を読むのには結構時間もかかります。その間、監督は黙ってコーヒーをお代わりして飲んでましたが、監督の沈黙がメチャクチャ怖かったことを覚えています。

そして読み終わったことを告げると、監督は「どう思う?」と聞いてきて、僕は素直に感想を言うかどうか本当に悩んだのですが、正直に「ダメだと思います」と答えました。

僕は原作も既読でしたが、脚本は原作の時系列を崩し、原作で主に描いていた現代パートや野球の要素を極力抑え、人間魚雷「回天」の操縦法やどんな風に訓練が行われたのか、に焦点を当てたものでした。他の方が監督すれば面白いものになるかもですが、正直、佐々部監督のヒューマニズムあふれる作風とは少し違う、と感じました。

そのことを素直に言うと、監督は「だろ?だから悩んでるんだ」と言われました。監督的には前半は野球に賭ける青年たちの青春を、後半は過酷な訓練に挑む姿を描き、和製「フルメタル・ジャケット」のような作品したいと言われ、怒られることを覚悟で、この脚本に大胆に手を加えることを山田洋次監督(脚本は山田洋次監督と冨川元文さんの共作)に正直に言ってみる、それがダメなら降りるかも、と仰っていました。

その後、山田洋次監督からは実際に怒られたそうですが(笑)脚本の本筋は崩さず、主人公の1人が回天記念館を訪れる現代パートと、主人公の遺書に監督が記念館で感動した兵士の生の「言葉」を加えることで納得して頂いたそうで、映画は無事完成しました。

DVDの特典映像で、山田監督が「佐々部君に監督してもらったお陰で、凡庸な戦争映画にならず良かった」と褒めているのを観てホッとしたのを覚えています。

僕は、監督から準備段階にも関わらず脚本を読ませて頂いたこと、そして感想を求められたことが何より嬉しかったです。



「出口のない海」では主にロケ地選びをお手伝いし、昭和18年の設定の野球場を見つけさせて頂いたほか、撮影に入るとエキストラの手配・管理や現地での炊き出し・現地調整などをやってました。

撮影が始まって、監督は僕が会社を辞めたことをしばらく知りませんでした。ある日、撮影機材をトラックに運び込んでいたら「お前会社は?」と聞かれ「辞めました」と答えると絶句されてました。

その後、山口県内での撮影もラストに近づいた頃、僕は映画会社の方に呼ばれました。車の中でした。その時、封筒を手渡され、中身を見ると30万円が入っていました。驚く僕に「少ないですが、製作スタッフの一カ月分の給料です。是非受け取ってください」と言われました。正直、妻と子ども3人(プラスお腹の中にもう1人)いるのに次の仕事のあても無かった僕としては大変有り難かったです。

数年後、ある方から「大橋の耳に絶対に入れるな」と監督から言われたという、ある事実を知らされました。それは監督が「出口のない海」製作時、映画会社に「俺のギャラを削っていいから、大橋に50万円払ってやってくれ」と頼み込んだ、ということでした。

僕は「20万円どこ行った?」と思いながら(映画会社は監督のギャラは削らずに、50万円と言われてもそこまで出せないから僕に30万円用意してくれたのだとは思いますが、今となっては真相は判りません(笑))監督の心遣いに男泣きしました。

2009年に周南「絆」映画祭を立ち上げる時も、監督にご尽力を頂き、開催にこぎつけることができました。第1回で「チルソクの夏」「出口のない海」を上映した時は感無量でした。この時監督から「この映画祭はだれもお金儲けしてないのがいい。10回は続よう」とエールを頂きました。

監督には昨年の第10回まで通算5回もゲストとして来てくださいました。監督が「10回は続けよう」と仰ってくださらなかったら、映画祭は終了していたと思います。実は存続が難しくなった決定的なことが何度かありました。

それでも続けられたのは佐々部監督のお陰だと思っています。



しかしこの間、監督と僕との間で決定的な出来事が起こりました。

それは、僕が映画「恋」でプロデューサーを務めさせて頂くことになり、周南「絆」映画祭で、脚本賞・松田優作賞を設立して、その最優秀賞受賞作「百円の恋」の映画化が実現した頃のことです。

僕は「恋」製作にあたって、佐々部監督のパートナーであるプロデューサーUさんに相談しました。Uさんは「たくさんの佐々部作品で手伝ってくれたお礼だよ」と快く手伝ってくださり、佐々部組のスタッフを派遣してくださっただけでなく、撮影現場でもいろいろと支えてくださいました。

この時、僕は監督に正面から断りとご挨拶を入れることを怠ってしまいました。それは、監督には何も言わなくてもわかってくれるだろう、という僕の甘えだったと思います。

そして「百円の恋」が進行する過程でも、松田優作賞を設立し、膨大な脚本を読まなければならなくなった時には監督にいろいろとアドバイスを頂いていたにも関わらず、映画化が進み、山口ロケの準備をしていた時も、ちょうど「恋」の製作時期と重なったこともあって、気まずい感じがして監督に何の報告もしないまま、日々が過ぎて行きました。



その結果、監督から僕の姿勢をきつく咎められました。「お前は人に頼り過ぎている。ただの映画馬鹿であるお前が好きだったのに、今のお前は何だ」と。

それから、監督とは事実上、縁が切れてしまいました。正直「コンチクショウ」とも思いました。「俺も悪いけど、弟子の成長が素直に喜べないのかよ」と。

あとあと聞くと、監督は高校生の頃、「恋」主演の岡田奈々さんの大ファンで、ファンクラブにも入っていたらしく、盟友のUさんが奈々さんと現場でずっと一緒だったことも悔しかったらしいです(笑)そして、「百円の恋」も「名作」って仰ってくださっていたそうです。



その後、山口県で「八重子のハミング」を製作する、と聞きました。製作費を山口県内で調達し、監督自ら「命を賭けて」製作する、と。佐々部監督は地域で映画を創る時、地元での製作費をお願いすることを「皆さんに負担をかけるし、できればやりたくないよね」とよく仰っていたので、僕は「そこまでこの作品に賭けてるんだ」と驚きました。

「八重子のハミング」は原作者の陽信孝先生も佐々部応援団のお1人としてよく存じ上げていました。一度大手映画会社が某有名脚本家と某有名監督で映画化を企画しながら、頓挫したことも知ってました。

当時、監督はこのことを大変に嘆かれ、「陽先生に対し、映画会社からは一言のゴメンもなかった。企画が進まないことはあるけど、楽しみにしていた陽先生の心情を思うと、僕は同じ映画人として申し訳ない」と言われてました。

そこから映画化の目途も何もないのに、もちろんギャラが発生する訳でもないのに、佐々部監督は一気に脚本を書きあげられました。僕はその経緯や概要も伺っていましたが、それは映画化が決まった時よりも何年も前のことで、僕は監督がその間、ずっと映画化に執念を燃やしていたことを知って驚きました。

本来なら僕が県内でのお手伝いの役割の一部でも担わなければならなかったのでしょうが、その当時、僕はすでに「勘当」されてましたので、何もできませんでした。



あとで聞いたのですが、最初からの応援団の仲間であるAさんに、監督から直接電話がかかってきて、周南地域での応援を相談して来られた時に「大橋君に頼まないんですか?」と聞いたら「あいつとは今絶縁してるから」とはっきり仰ったそうです。

僕は何もできないまま、その様子を見守っていましたが、Aさんがものすごく頑張られて、周南地域で病院と葬儀の重要なシーンが実現しました。特に病院での撮影は、Aさんの努力の賜物で、僕が手伝っていたら絶対実現できなかったと思います。劇場の入りもAさんの頑張りで、他地域に比べても良かったようです。

この頃、佐々部応援団の仲間で、監督も娘のように可愛がっていたMさんに「大橋さんと佐々部監督は、私から見れば親子です。子は親に反発し、家出することもあれば言えないこともあるでしょ。親も子には時にきつく当たるものです。親子ゲンカはいつか治まります。2人の間柄はこんなことで壊れるものじゃないです」と言われましたが、当時の僕にはそんな言葉は全く信じられませんでした。

一昨年、周南「絆」映画祭で「八重子のハミング」を上映し、6年ぶりに佐々部監督を迎えることになりました。監督は映画祭に来れば実行委員長である僕と顔を合わせなければならないこと、トークショーの司会も僕がやることも承知したうえで来てくれました。僕は気まずく、メチャクチャ嫌でしたが(笑)

この時来て頂いたのは、Aさんの気持ちに監督が応えられたからですが、Aさんからは「大橋君、大丈夫だから。監督も本当に嫌だったら来ないよ」と仰って頂きました。

実は、Aさんもいろいろと僕のことについて陰で監督にフォローしてくださってました。やはり応援団の仲間で、監督が妹のように可愛がっていたKさんも必死にフォローしてくだっていました。仲間たちに配慮して頂いたことが本当に申し訳ありませんでしたが、映画祭期間中はゲストの数も多く、監督とは普通でありきたりのご挨拶と打ち合わせはしたものの、当時のことは一切話さず、あまり深く接しないまま、トークショーも無事終わって閉幕しました。

あるていどの事情を知る山口県のファンの皆さんは、僕と監督が舞台で楽しそうにトークをしていることにザワついてましたが、まあ、そこは2人とも大人ですから(笑)

そして昨年。監督が仰った「10回は続けよう」の目標を達成した周南「絆」映画祭。佐々部監督をお招きして「種まく旅人〜夢のつぎ木」と10回記念として第1回で上映した「チルソクの夏」を再上映しました。



「チルソクの夏」上映後のトークのあとだったと思います。休憩室に監督が入ってきました。

「お前、第1回のチルソク上映した時、2時間ずっと馬鹿みたいに泣いてたな。今日も泣いてただろ。相変わらずの映画馬鹿だな」

こんな風に「お前」って話してくれたのは、何年ぶりだったでしょうか。「映画馬鹿」と言われたのも。

それから、昔のように映画談義をしまくりました。次回作こともいろいろ喋ってくださって、気がついたら3時間ぐらい話してました。メチャクチャ楽しい時間でした。本当に、何もなかったかのように…。

監督は昔のまんまで接してくれました。これは、AさんやKさんの長年のフォローのお陰だったと思います。

そして映画祭最終日、再びいろいろお話した最後に、これまでのことを詫び、映画「くだまつの三姉妹」で脚本を書いたこと、その作品を観てほしい、ということをお願いしました。監督は笑顔で「いいよ」と仰ってくださり、少し肩の荷が降りた気がしました。

結局、初脚本作を観て頂けなかったので、とても残念です。



「くだまつの三姉妹」予告編はこちらからご覧ください↓
https://vimeo.com/332149977

この時会場にもいたMさんからは「だから親子って言ったでしょ」と言われました。

…でも、それが監督とお会いした最後になってしまいました…

監督が旅立たれた日、なぜか山口県内のマスコミから僕に問合せが殺到し、結果、関係各位と連携して、広報的な役割をさせて頂きました。いろいろあったのに、僕に問合せが来ることが不思議でしたが、これも御縁なのでしょう。

「どき生てれび」で、監督の追悼特集をすることになり、心に湧き上がるいろいろな想いを整理できず、この状態でテレビで喋れないと思い、佐々部組だったある方に電話をしました。するとその方はこう言われました。

「…佐々部ちゃんはね、俺のせいで大橋の人生を狂わしちゃったんじゃないか、てずっと言ってたよ。出口のときに、大橋君会社辞めたじゃない。それをずっと気にかけてたよ…」

「…大橋君が映画を作るって方向に行った時に、映画はそんな甘い世界じゃないって想いがあったんだよ。だからこその叱咤なんだよ。本当に心から心配してたんだよ…」

電話のあと、僕は泣きました。声をあげて。

本当にある意味「親父」だったんだな、と。今もこれを書きながら、思い出して泣いています。

監督が旅立たれたあと、妹さんから「あなたは裏切ってない」「大橋さんらしく進んでください。兄もきっと安心します」との言葉を頂きました。

不肖の「息子」でしたが、僕はこれからも「親父」が言ってくれた「映画の伝道師になれ」を命に刻んで「映画」と向き合いたい、と思います。

最後に「チルソクの夏」のテーマ曲の動画をアップさせて頂きます。作曲された加羽沢美濃さんが監督を偲び、想いを込めて演奏されています。監督はこの曲「チルソクの約束」が大好きでした。




佐々部清監督。

本当にお世話になりました。ごめんなさい。

そして、ありがとうこざいました。

こころから感謝しています。
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「君の名は。」を観て思ったこと  新作レビュー

評判のアニメ映画「君の名は。」を観ました。

これまでもアニメーションで男女の「出会い」「すれ違い」を繊細に描いてきた新海誠監督が、東宝配給の300スクリーン以上拡大公開という、メジャーの中のメジャーとも言える大舞台で、それに相応しいスケールの大きな、それでいて持ち前の繊細さや物語表現力を十分に活かした作品を創ったな、というのが正直な感想です。

「シン・ゴジラ」もそうでしたが、この映画も監督のオリジナルな感性にあふれながらも、様々なこれまでの名作・傑作の香りが漂っていて(実際に監督が影響を受けたかどうかはわかりませんが)様々な「映画的記憶」を呼び覚ましてくれます。

男女の「出会い」「すれ違い」を描いた映画には洋画・邦画問わず傑作が多いのですが、「君の名は。」と同様、そこにファンタジーを融合させた作品としてまず思い出すのは、クリストファー・リーブ主演「ある日どこかで」(1980年公開)です。

脚本家志望の大学生リチャードは自身の脚本が認められたパーティーの席で、見知らぬ老女から「帰って来て」と告げられます。数年後、脚本家となり、仕事に行き詰ったリチャードは立ち寄ったホテルの壁にかけられた美しい女性の写真に目を留めます。彼女は1912年にそのホテルに滞在していた女優ということでした。そのまなざしと美しさに魅せられたリチャードは彼女に会いたいと熱望し、やがて時間の「壁」を超えるのでした…。

これは、僕も学生時代に観て熱狂した一本です。「スーパーマン」とは全然違うクリストファー・リープの繊細な演技が印象的で、切ない展開、そして音楽の美しさも印象的でした。

悲しき浪人生だった時、角川書店の映画雑誌「バラエティ」で、大林宣彦監督が「時をかける少女」(1983年公開)は「ある日どこかで」に「オマージュ」を捧げた作品であり、音楽や雰囲気など、作品づくりで意識したことを発言していて、当時「時かけ」に狂っていた僕は「ある日どこかで」が観たくて観たくて、大学生になってようやくレンタルビデオで観た記憶があります。

その、「時をかける少女」も少年少女の「出会い」「すれ違い」そして「別れ」を切なく描いた傑作でした。筒井康隆氏の原作小説は短編で、どちらかと言うとSF小説の入門編的な感じで、描かれている「出会い」と「別れ」に正直切なさは感じません。

しかし、大林監督はそこに、「出会うはずのない、出会ってはいけない少年少女が出会ってしまう切なさ」の物語に仕上げ、そこに主演の原田知世さんの可憐さ(大林監督は当時、ジュディ・ガーランドをイメージして演出したらしい)とロケ地である広島県尾道市の何とも言えない風情と情緒が加わり、唯一無二の傑作になりました。

そういう意味ではこの作品はその後の「時かけ」映像作品のベースにもなりました(今年制作の連ドラも含む)。この「切なさテイスト」を受け継ぎながらも、続編的な味わいも付け加え、少しポップにして、これはこれで大傑作になっていた細田守監督の「時をかける少女」がアニメーション作品だったことを考えると、「時かけ」と「君の名は。」との接点も無いことも無いな、と思います。、

大林作品で「君の名は。」との共通点で言うと、少年少女の「入れ替わり」を描いた大傑作「転校生」(1982年公開)があることも忘れてはいけないでしょう。

あと、少年少女の「出会い」「すれ違い」ファンタジーの傑作で思い出すのは小中和哉監督作品「星空のむこうの国」(1986年公開)です。残念ながらこの作品のDVDはAmazonでもプレミアが付いていて今ではなかなか観られません。

https://www.amazon.co.jp/%E6%98%9F%E7%A9%BA%E3%81%AE%E3%82%80%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%AE%E5%9B%BD-%E5%A4%A2%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%A6-DVD-%E6%9C%89%E6%A3%AE%E4%B9%9F%E5%AE%9F/dp/B000063L23

平行世界(パラレルワールド)をテーマにした作品でした。主人公の高校生、アキオは交通事故でケガをして以来、毎晩同じ少女の夢を見てしまいます。ある日自宅に帰ると、そこには自分の遺影が!驚愕していると、窓の外にはあの「少女」の姿が。「アキオ君」と呼ぶ少女に声をかけようとしたその時、少女は無理矢理男たちに車に乗せられます。追いかけるも見失ったアキオはその少女に会おうと決心しますが…。

この映画は公開当時「少年ドラマ・ザ・ムービー」という副題が付いていました。NHKの少年ドラマシリーズは昭和40年代から50年代にかけ、毎日夕方に放送していて、主に中高生向けの学園SF小説をよくドラマ化していたシリーズで、「時をかける少女」も大林監督が薬師丸ひろ子主演で映画化した「ねらわれた学園」もこのシリーズで最初に映像化されています。

少年ドラマシリーズは小学生を含む少年少女向けでしたから「切なさ」テイストは少なかったのですが、その中でも突出して「切なかった」ドラマは、「なぞの転校生」でした。平行世界を扱っている点では「星空のろこうの国」の原点は間違いなくこの作品でしょう。

「なぞの転校生」については、2014年、思いもしなかった形で再びテレビドラマ化され、これこそ少年少女の「出会い」「すれ違い」「別れ」を描いた作品では近年ダントツの作品だと思いますし、冒頭の彗星の描き方など、「君の名は。」との共通点を見ることもできます。

3014年版「なぞの転校生」については、また別回で詳しく論じたいと思いますが、「君の名は。」を観られて感動された方は、今回あげた作品群も是非観てほしいと思います。
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「シン・ゴジラ」と山口県  新作レビュー

「シン・ゴジラ」については最早語りつくされている感があるし、ネットに優れたレビューがあふれかえっているので、僕がわざわざレビューする必要もないかな、と思います。

書き出すと、キリが無くなります。恐らく原稿用紙100枚ぐらいでも書けると思いますので、ここでの作品論は他に譲って、私らしく、山口県とシン・ゴジラの関係について記します。

庵野秀明総監督は、山口県宇部市の御出身です。以前、インタビューさせて頂いたこともありますが、山口県への強い「愛」を持っていらっしゃる、という印象を受けました。

庵野総監督は映画「式日」を、故郷である宇部市を舞台に撮影されましたが、他の作品でも「宇部」や「山口」に関するものを登場させています。

エヴァンゲリオンではかのヤシマ作戦で日本中を大停電させるとき「山口県宇部市」が登場するほか、山口でおなじみのお店や牛乳の名前も出てきますし、新劇場版で葛城ミサトが愛飲する日本酒は「獺祭」だし、「獺祭」はキューティーハニーにも市川実日子さん(尾頭ヒロミ課長補佐!)扮する刑事の愛するお酒として登場します。

今回も、主人公である内閣官房副長官・矢口蘭堂の執務室に、山口県内の工芸品がさり気なく置いてあり、その中に、光栄にも私がアドバイザーを務めさせて頂いています、下松フィルム・コミッション提供のものもあります。

私が見る限りでは、執務室には下松FC提供のものの他に、岩国市のものが置いてありました。聞くと、矢口蘭堂は山口県第3区選出の国会議員という設定があり、それで山口県のものが置いてあると推察されます。

3区は庵野さんの出身地である宇部市のほかに、美祢市、萩市、山口市のうちの旧阿東町などがエリアで、庵野さんの宇部愛を感じる設定ですが、実は、岩国と下松は2区でして・・・。まあそこは、保守第一党の他選挙区の支持者から、将来の総理大臣候補である矢口先生のところに、様々な名物工芸品が贈られ、飾ってある・・・と僕は解釈しています(笑)

あと、この映画には複数の映画監督さんが役者さん(なぜか全員生物学者役!)として登場しますが、御用生物学者の1人を演じているのが「ゆきゆきて、神軍」など、強烈なドキュメンタリー映画で一世を風靡した原一男監督!原監督もまた、宇部市の御出身で、主に山口市で育った山口御出身の方なのです!

ちなみに、1999年公開「ゴジラ2000」以降、2001年公開の「ゴジラ モスラ キングギドラ大怪獣総攻撃」を除き、2004年の「ゴジラFINALWARS」までの5作品でゴジラを演じられた喜多川務さんは下松市出身ですので、2000年代製作の和製ゴジラ映画ほとんどに「山口県下松市」は関係しているのです!という、下松市民である僕の独り言なのでした。




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ブログ開設10周年!  映画つれづれ

今日気づいたのですが・・・・。

このブログを開設して、今月で何と!10周年!パチパチ。

最近、すっかり更新もしていませんが・・・ですが、このブログこそが、僕の映画レビュー修行の原点であり、今でもそうである、と思っています。

この10年の間、テレビで映画の紹介・解説もするようになり、映画祭の運営や実際の映画づくりにも多少ですが関わるようになりました。

その間、自分と「映画」との関わりだけでなく、人生そのもの・・・反省や後悔、そして希望も含めて、いろいろなことがありました。

失ったものもあれば、得たものもたくさんあります。それでも「映画」は僕の「全て」であり、生きる、頑張る「源」である、と日々感じています。

この10年、何度も何度もオオカミ少年のようにこのブログでレビューを頑張る(笑)と書いてはまたまた更新が滞る、という繰り返しですが、それでもボチボチと、レビューを無理なくしていきますので、皆さんよろしくお願いいたします。

マニィ大橋 こと大橋広宣
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思い出は映画と共に@  映画つれづれ

思い出は映画と共に…落ち込んだ時に元気になれる、あの映画のあの名セリフ1

「男たちの挽歌」
(1986年香港/製作総指揮/ツイ・ハーク、監督/ジョン・ウー、出演/ティ・ロン、チョウ・ユンファ、レスリー・チャン)

「俺は負け犬だけにはなりたくない!お前は運命と戦ったことはないだろう?一度もない!…俺は違う」/マーク(チョウ・ユンファ)が出所したホー(ティ・ロン)に言うセリフ。

「香港ノワール」という言葉を定着させた、ツイ・ハーク製作、ジョン・ウー監督による「男たちの挽歌」。1986年に登場したこの作品は、斬新でいて、どこか懐かしい感じがするアクション映画だ。

 “ノワール”はフランス語で「黒」を指す言葉。フィルム・ノワールと呼ばれるジャンルが映画にはもともとあって、「フィルム・ノワール」=「黒い映画」、すなわち犯罪を描いた映画をこう呼ぶようになった。

ノワール映画には主にハリウッドやフランスの映画が代表的だが、特にあまり女性が出てこない、男同士の友情や裏切りが描かれたフランス映画のノワール物を「フレンチ・ノワール」と呼び、ハリウッド製のギャング映画やアクション映画とはまた趣の違う陰のある作風が人気を呼んだ。

 「男たちの挽歌」が「香港ノワール」と呼ばれた理由は、これらの「フレンチ・ノワール」の作風を受け継いだ点にあると思うが、日本の映画ファンが驚いたのは、そこに明らかにサム・ペキンパー監督の影響と、60年代、70年代に作られた日本のアクション映画の臭いが存在していたからだ。

 「ワイルドバンチ」「戦争のはらわた」「ゲッタウェイ」などで有名なサム・ペキンパー監督は、容赦ない暴力描写に、スローモーションを多用することで知られる。

残酷な暴力描写なのに美しい映像美という、本来は相容れないものを融合させてしまったその手法に、映画ファンは狂喜した。特に「ワイルドバンチ」で、主人公たちがわずか数人で強大な敵組織に殴り込みをかけるシーンは、凄惨なのに何度見ても震えるほど美しい。

 ジョン・ウー監督もまた、スローモーションを効果的に使う名手だが、これは明らかにサム・ペキンパー監督の影響だろう。そして、男同士の裏切りや友情がエモーショナルに展開していく物語や、それぞれの存在感がやたら引き立つキャラクターは、「仁義なき戦い」など70年代の深作欣二監督作品や、小林旭や石原裕次郎など、男臭いキャラで物語をぐいぐい引っ張っていた60年代の日活ニューアクションの臭いがプンプンする。

まず、主人公のホー(ティ・ロン)はどう見ても若いころの石橋正次だし、マーク(チョウ・ユンファ)は往年の小林旭にしか見えない。無鉄砲なホーの弟の刑事、キット(レスリー・チャン)はデビュー当時の石原裕次郎か赤木圭一郎、渡哲也というところか。


 さて、このセリフだが、これはマーク(チョウ・ユンファ)が、出所してきたホー(ティ・ロン)に向けて放つ言葉である。

 ホーとマークはかつて、香港組織の顔役とその弟分だった。ホーには警察学校に通う弟、キットがいて、極道であることを秘密にしている。

 身体が弱い父親から、弟のために足を洗うように説得されたホーは、台湾での麻薬取引を最後に引退することを決意。しかし、取引は何者かの密告で警察に知られてしまう。ホーは部下のシンを逃がし、自分は警察に捕まり刑務所へ。しかし、これでキットは兄が極道であることを知り、父親は陰謀で殺されてしまう。マークは敵のアジトを襲撃し、皆殺しにして復讐するが、足に致命的な重傷を負う。

 それから数年…。ホーは出所し、堅気として生きることを誓うが、世間の風は冷たく、なかなか就職もままならない。マークは組織の中で雑用係にまで落ちぶれ、どん底の生活を送っていた。そして結婚もし、刑事となったキットは、極道だった兄のせいで出世もできないとホーを恨んでいた。

 香港の闇社会は、今やシンがボスとして君臨していた。シンを倒し、巻き返しをしようとマークはホーを説得する。このセリフは、その時のものだ。ホーは拒否するが、やがて、マークは1人行動し、ホーもまた、キットに組織壊滅のヒントを与え、巨大な組織に立ち向かう…。
ああ、こうしてストーリーを書いているだけで胸が熱くなる。

「バイオレンスの詩人」とも評されるジョン・ウー監督だが、本家のサム・ペキンパー監督をも凌駕する、この作品における美しいバイオレンスシーンは、マークが1人で敵組織に乗り込むシーンにあると思う。

 マークはいつくもの拳銃を植木鉢など至る所に隠す。そして、後ろ向きに進みながら、次々と敵を打ち殺し、弾が切れると銃を捨て、隠していた銃を手にしてまた敵を打ち殺していく。無表情ながら銃をぶっ放していくチョウ・ユンファの動きを、ジョン・ウー監督はたっぷりとスローモーションで情感を込めて捉えていく。迫力があって凄惨なのだけれど、チョウ・ユンファの所作はどこか優雅でいて美しさを感じる。

 のちのち、作品中に必ず「ハト」を出すことで知られるジョン・ウー監督だが、御本人は根からの平和主義者であり、暴力否定主義者であるという。暴力描写が美しいからといって、暴力を肯定しているものでは決してない。これは深作欣二監督にも通じる。僕は深作監督からお話を直接伺ったことがあるが、暴力を否定するからこそ、暴力を描いているのだ、と明確に主張されていた。

 さて、このセリフを思うとき、この映画を製作したツイ・ハーク監督とジョン・ウー監督の当時の関係性がダブる。

 ジョン・ウー監督は中国の広州で生まれ、幼い時に香港に移住。アジアのハリウッドとも評され、数々の独創的なクンフー映画や武侠映画を製作したショウ・ブラザーズでキャリアを積み、ゴールデン・ハーベスト社などでコメディ映画や武侠映画を数多く監督し、人気を博した。

80年代に入ってシネマシティ社に移籍するものの、独自の路線で映画製作を続ける姿勢が会社の反感を買ってしまったのか、台湾支社に飛ばされてしまい(いわゆる左遷と思われる)、自由に映画づくりができなくなってしまう。

 この時、失意のジョン・ウー監督を救ったのが、この映画の数年後に「香港のスピルバーグ」と評されるツイ・ハーク監督だ。ツイ・ハーク監督は「男たちの挽歌」が公開されたこの年に傑作「北京オペラブルース」を監督、90年代に入って「ワンス・アポンナ・タイム・インチャイナ」シリーズで、これまでにない娯楽性あふれるアクション映画を繰り出して話題となる。

 「男たちの挽歌」は、このツイ・ハーク監督の製作である。彼が台湾で不遇な時代を過ごしていたジョン・ウー監督に手を差し伸べ、製作したのがまさにこの作品なのだ。劇中でも、ホーが失敗する取引の舞台が台湾であるなど、製作者たちの想いを反映しているシーンが随所に見られる。

 落ちぶれながらも、熱い魂だけは捨てず、心も体も傷ついた男たちが手を携え、巨大な敵に立ち向かう姿は、正に自分たちの姿を投影したものと言えるだろう。

 「お前は運命と戦ったことはないだろう?」とは、観客に対する問いであると同時に、製作者の自分自身への問いでもあったのではないか、と思う。

 僕は20代の終わりごろ、身内の事業の失敗で一文無しとなり、住むところも追われた。給与は裁判所に差し押さえられたため、仕事を辞めるわけにもいかず、会社の倉庫にゴザを敷いて寝泊まりしながら、週に4度、泊まり込みでホテルの皿洗いとフロントのアルバイトをしながら何とか生活をしていた。

 当時、世間はバブルで、友人たちは青春を謳歌していた。そんな中、食う金もなく、みじめな気持ちを抱えながら、ギリギリの中で生活していた。そうした状況の中でも、数少ないバイト代を工面し、食べ物を我慢して映画だけは観ていた。

 ある時、40キロぐらい離れた街に住む友人が、僕が勤務するホテルを訪ねてきた。「たまたま近くに用事があったから寄った」と言い、パンと牛乳を差し入れてくれた。彼にはどうしてこんな生活になったのか、理由は言わなかったし、彼もあえて尋ねようとはしなかった。
たわいのない世間話をしたあと、彼は「負けないでね」とだけ言って立ち去った。

 正直、負けそうになっていた時だったので、この励ましは効いた。骨の髄まで沁みた。彼もお金など持っていない。現金を渡すと、僕のプライドが傷つくと思ったのだろう。レジ袋には、不必要なぐらい、たくさんのパンが入っていた。

 あとで聞いた話だが、彼は「たまたま近くに用事など」なかったらしい。雨の日の深夜、僕のことを人づてに聞いて、いてもたってもいられなくなって駆けつけてくれたのだ。

 友情ほど有難いものはない。

 僕はこのときの励ましのお陰で、腐らず、会社も辞めず、何とかこの危機を乗り越えることができた。1週間で数時間しか寝られない時もあったが、彼のあの時の友情と「こんなの俺の運命なんかじゃない。絶対に這い上がって見せる」という意地が僕をすくったのだとつくづく思う。

「お前は運命と戦ったことはないだろう?」

 マークの熱い問いかけを想うとき、僕はあの時の「負けないでね」という友人の言葉を思い出す…。

http://www.google.co.jp/url?sa=i&source=imgres&cd=&ved=0CAYQjBwwAGoVChMIkb3q-t-JyQIVxbqUCh1jzgBR&url=http%3A%2F%2Fblog-imgs-38.fc2.com%2Fc%2Fh%2Fu%2Fchuckykun%2F201012051140160d6.jpg&psig=AFQjCNGkjtk0UY6TepZaZld6xdsR-4A2sA&ust=1447378698964521
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東條先生の思い出  映画つれづれ

東京の書店で目にして買った新書本「天才 勝新太郎」に誘発され、12年ぶりに再会した甥っ子(彼が5歳ぐらいの時、僕が映画の洗脳教育、いやいや英才教育をいたのです)とカツシンの話題で大いに盛り上がったのをきっかけに、久々「座頭市」を中心に、勝新太郎氏のDVDを見まくっている。

とりあえず観たのは、1989年公開、カツシンさん最後となった「座頭市」と、岡本喜八監督のオールスター激突「座頭市と用心棒」(1970年)、個人的にシリーズ中殺陣が最もお気に入りの「座頭市血煙街道」である。

観れば観るほど「いやあ、カツシンはやっぱり凄い!」と再発見するばかりなのだが、そこで忘れられないのが、僕の恩師と言うべき、故・東條正年先生のことである。東條先生は、下松市に住んで高校の国語教師をしていたのが、たまたま見様見真似で書いた初めてのシナリオがコンクールで入賞し、思い切って上京してプロの脚本家になられた方である。

「伝七捕物帳」など、テレビドラマの時代劇を主に執筆されておられたが、勝新太郎氏に重宝された。映画脚本は「座頭市」と並ぶ勝氏の代表シリーズである「兵隊やくざ」のうち、「兵隊やくざ 殴り込み」(1967年)「兵隊やくざ 火線」(1972年)と、北原佐和子主演のアイドル映画「夏の秘密」を手がけておられる。

これは直接、東條先生に伺った話だが、東條先生は映画「座頭市」シリーズの脚本を手がけた笠原良三氏の元で、映画「座頭市」の脚本づくりに携わっている。クレジットはないが、ハリウッドでリメイクもされた(ルトガー・ハウアー主演の『ブラインド・フューリー』ね)「座頭市 血煙街道」でも、深く関わっている。

「ブラインド・フューリー」のことを東條先生に話したら、チェックのシャツに仕込み杖を持ったルトガー・ハウアーの姿に笑っておられ、「やっぱり本家の方が出来がいいなあ」なんて仰っておられた。座頭市を通して東條先生は勝氏と親交を深め、後のテレビシリーズの「座頭市物語」「新・座頭市」に深く関わっていくようになる。

テレビシリーズ、とくに「新・座頭市」は勝氏の独壇場で、現場で演出、物語構成もどんどん勝氏がひらめきで変えていくので、多くの監督、脚本家が逃げ出した、という「伝説」のテレビシリーズ。この舞台裏を支えた1人が、東條先生だった。

2008年11月28日、このブログで、僕が東條先生の死を悼んで記事を書いているので、一部訂正して、ちょっと再録したい。

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僕にとって、恩人と言える方々のお一人である、脚本家の東條正年さんが亡くなった。

80歳ということだが、まだお若く、つい先日お会いして「ゆっくり映画の話がしたいですね」と言って別れたばかり。信じられない…。

東條先生とは、僕が記者のころに知り合った。東京での脚本家暮らしにピリオドを打って、故郷の下松に帰ってこられたばかりだった。

「これから地域のために自分の経験を役立てたい」と言われ、地域の民話を題材に紙芝居を作られたり、地元の久保中学校の文化祭の演劇で脚本・演出を担当されたり、周南青年会議所が「徳山藩」の史実を題材に演劇を上演したときも、脚本・演出を担当された。

東條先生の劇場用作品で代表的なものは「兵隊やくざ・火線」「兵隊やくざ・殴り込み」だが、クレジットされているもの以外にも勝新太郎氏の座付き脚本家として、数多くのカツシン作品を手掛けている。

現場でいろいろとストーリーを変えていく勝さんのお話のつじつまを合わせていく役どころが、東條先生だったのだという。とくにテレビの「新・座頭市」シリーズは、東條先生がいなくては現場が機能しなかったらしい。

「伝七取物帳」など、テレビ時代劇の作品も多く、先日、2ちゃんねるの「時代劇脚本家を語ろう」スレで、「東條正年脚本にハズレなし」との書き込みを見つけて「早速、東條先生にお知らせしよう」と思っていたので、本当に残念だ。

あまりに身近で、今までブログで触れてこなかったことに後悔もしているが、東條先生が中学校の演劇を担当されたときは音楽を手伝ったし、周南青年会議所の演劇のときは会議所のメンバーとして、瓦版売りの役で出演もさせてもらった。

そして何より忘れられないのは、下松市音楽連盟が50周年記念で上演したオペラ「星ふるまち下松伝説」を上演したとき、東條先生が脚本・演出を、僕が舞台監督をさせてもらい、がっぷり四つでお仕事をさせて頂いたことだろう。

このオペラは、当初、オーケストラの作曲と指揮を担当された先生と、お話づくりと演劇部分の演出をされた東條先生との想いに違いがあり、その違いを埋めながら、ひとつひとつの場面を作り上げていくことが僕の仕事だった。

正直、大変だったが、「いいものを作ろう」という音楽の先生、東條先生のご協力があって、超満員の観客の前で素晴らしい舞台ができたときの感動は今も忘れられない。「上手に回ったコマのようだったね。色が違う模様が、まわるうちにひとつの違う、いい色になった」と言われた東條先生の言葉が、忘れられない。

このとき、僕はフリーになる直前だった。ずっとやってきた書く仕事はともかく、イベントやテレビ番組の演出には不安もあった。「いろんなプロの演出家とも仕事をしたが、それと比べても遜色ない。大丈夫、あんたなならできる」と言われたことが、どれだけ僕の「支え」になったことか。

思えば、東條先生から聞いた、昔の映画界の話は、本当に面白かった。カツシンさんの話はとくに強烈で、飲んでいても食べていても、カツシンさんは急に映画の構想の話を始めてしまい、即興で自分で演じて見せた。その演技は本当に魅力的で、いつもメチャクチャなことを言うので腹も立ったが、その演技を見せられると文句も言えなかったという。

それで、亡くなられる直前、東條先生が見舞いに行くと、ベッドの上でカツシンさんはお前が脚本を書いてくれ、と言うと、構想中の「最後の座頭市」の市の“ラストシーン”を演じて見せてくれたのだという。

興奮した僕が「先生、どんなラストなんですか、教えてください!!」と聞くと、東條先生は「だめだよ。勝さんはもう亡くなられたんだから、脚本家として、君でも教えられない。僕は墓まで持っていくよ」と言われた。

「いつか、聞き出してやろう」と思っていたのに、東條先生は本当にお墓まで持って行かれた。

ご冥福を、心よりお祈り致します。本当にお世話になりました。ありがとうございました。


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東條先生から聞いた、まだまだある勝氏のエピソード。

銀座のクラブで一緒に飲んでいると、勝氏が突然「新・座頭市」のある場面を思いついた、と言い出した。絵コンテを書くから、紙とペンないか、とマネージャーに要求するが、銀座のクラブにそんなものはない。

ちょうどその横に、クラブ側が勝氏に書いてもらおうとサイン色紙をたくさん用意してあった。なのに、肝心のサインペンはなぜかそこになかった。すると勝さんは「これでいい」とテーブル上にあったペンシルチョコレートでサラサラと絵コンテを描き出したという。ちなみに、勝氏は絵コンテというか、絵の才能も凄かったらしい。

後日、勝プロで打ち合わせをしていると、勝氏が「あの時の絵コンテだけど、おい、冷蔵庫から持ってこい!」とマネージャーに命じた。東條先生が「??冷蔵庫?」と思っていると、マネージャーがその時のサイン色紙の束を持ってきた。ちょうど季節は夏で、勝氏は「チョコレートだから溶けるんだよね」と言いながら、「溶けないうちに説明するぞ」と言って、キンキンに冷えた色紙を手に演出プランの打ち合わせを始めたという…。

あと、東條先生は「新・座頭市」からかなり経ったころ、仕事が一時期なかなかない時があって、あるテレビドラマの話があって急いで面接に行って、売り込みに、と思って必死にプロデューサーに「勝さんと座頭市やってました」とアピールしたら、そのプロデューサーから「東條さん、『警視K』はやってないでしょうね!もしあれをやっていたら、絶対にあなたを起用しませんよ!」と言われて必死で「あれはやっていない!」と否定して、そのドラマの脚本をやることになった、という話もしてくれた。

東條先生のその頃の口調をできるだけ再現してみる…。

「勝さんはさあ、いきなり町娘を殺しちゃうんだよ!そのあと、出てくるのにだよ!あとのこと、なーんにも考えず、その時、それが面白いからってやっちゃうからね。それでお話の辻褄が合わない、勝先生、どうしましょうか、てスタッフが聞くと、知らねえよ、そんなこと、ここは死なないとダメなんだよ、の一点張り。それで僕に電話がかかってくるのね。で、現場でお話が合うよう考える。そんなことが毎日のように続いたなあ」「警視K、あれは僕から見てもメチャクチャだったなあ。勝さんは天才だけど、筋が書ける人が付いてないと、ああなっちゃんだよなあ。珠緒さんはテレビではチャラチャラしている人を演じているけど、本当はしっかりした人でね。あの人が付いているから何とかなっている」

ちなみに、「警視K」とは、勝氏が製作、演出、脚本を手がけた刑事ドラマで、キャンピングカーで放浪し、なぜか娘(勝氏の実娘が演じている)とそこで暮らしている刑事が主人公(勝氏演じる刑事の名前が賀津勝利・ガッツカツトシ!必殺技は縄に手錠を括り付けて投げる“投げ手錠”!)で、刑事ドラマなのに事件が何も起きなかったり、延々と長回しが続いて空が写っていたりと、セリフも即興やアドリブが中心という、正に斬新で“勝ワールド”炸裂のテレビドラマだった。

その話を聞いて、リアルタイムで「警視K」を観ていた僕は大爆笑だったのだが、東條先生は「警視Kが分かるのか!君は若いのに、いろんなことを知っているなあ」と可愛がってくれた。
先生と昔の時代劇や映画の話をさせていただくことが、本当に楽しかった。

再録した記事にははっきり書いてないが、僕は音楽連盟のオペラの舞台監督をしていた頃、かなり独立するかどうか悩んでいた。佐々部監督と出会い、「映画」に再び夢を見出した僕は、踏み出す決心は固めたものの、家族もいたし、本当に会社を辞める、という踏ん切りが最後の土壇場でつかなかったのだ。

その時、「お前なら大丈夫」と背中を押してくれたのが東條先生だった。先日携わったイベントで、下松市民合唱団が、この時初演された東條先生作詞の曲を歌ったのだが、10年ぶりに聞いて僕は目頭が熱くなった。

今年、僕は独立して10周年を迎えた。先生が背中を押してくださってから、ちょうど10年になるのだ。

東條先生を偲びながら、先生が書かれた「新・座頭市」を再見したい。
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今年1年も終わります。  映画つれづれ

今年は、このブログを開設して以来、最小の更新数だったかもしれません。新作のレビューの腕を磨こうと始めたこのブログももう8年。来年で9年目に突入します。

今年、従来の「シネキング」に加えて、4月から夕方のニュース番組「Jチャンやまぐち」でも毎週金曜日の映画コーナーを担当することとなり、映画について紹介・解説する機会はより増えました。従って、劇場で映画を見る機会は例年より多くなりました。

なのにブログの更新がないのは申し訳ないのですが、しっかりと映画と向き合い、映画のレビューをしていきたい・・・この姿勢はこれからも持ち続けていきたい、と思います。

以前は観た映画全てのレビューを書こうと思い、なかなかそれもできずにかえって更新が滞っていましたが、更新数は少なくても、これからは気に入った映画、自分の糧となった映画について、このブログで初心に帰ってレビューしていきたいと思います。

今年、「百円の恋」「恋」という、2本の映画の製作に関わらせていただき、今までとは違う「映画」と向き合えた一方で、これから「映画」とどう向き合っていくのか、思い悩んだ1年でもありました。

この2本については、冷静にレビューなどできませんが、たくさんのお客様に喜んでいただけた、という点で良かった、と思っています。

今年は、外国映画で収穫が多い1年でした。「アクト・オブ・キリング」「ダラス・バイヤーズクラブ」「それでも夜は明ける」などが印象深かったです。特撮マニアとしては「ゴジラ」も印象的でした。

年末に観た「インターステラー」「フューリー」も良かった。日本映画は年々小粒になっている印象が強く、大手配給作品にもなかなか心惹かれる作品が少なかったのですが、佐々部監督の「東京難民」には心をえぐられました。

今年感じた迷いや想いは来年も引きずると思いますが、真摯に「映画」と向き合い、「映画」に夢や希望を託していくためのステップの時期だとも思い、来年も頑張っていこうと思います。

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フライト  新作レビュー

★★★

名優デンゼル・ワシントン主演。

彼を最初に観たのは南北戦争を舞台にした「グローリー」だっただろうか。精悍で演技派、という印象だったが、「ジョンQ」「戦火の勇気」などの作品で重みを次第に発揮して、ハリウッドを代表する俳優さんになった。

常連だったトニー・スコット監督のアクション・サスペンス物などは、設定の荒さやストーリー展開の荒唐無稽さを、デンゼル・ワシントンの説得力ある演技で切り抜けていた、という印象さえある。でも、これは作り手も恐らく承知のうえで、だからこそ、デンゼル・ワシントンを起用したんだろうなあ、と思う。

やっぱり、キャスティングって大事だ。セリフが少なくても、余計な説明が無くても、たとえ出演シーンは少なくても、その背景さえも感じさせる俳優さんは確かに存在する。

さてさて、この映画だが、サスペンスかと思いきや、依存症をテーマにした映画だった。最近、依存症を描いた映画が多い。これも、現代を語るうえで重要なテーマだからだろう。映画と社会性の関連は重要だと思う。その時代その時代の社会性や課題を、庶民の娯楽である「映画」が切り取り、描いていくことは、大衆文化を熟成させていくうえで必要だと思う。ただし、それが、国家権力が思想を扇動するようなことには絶対になってはいけないけれど。

ロバート・ゼメキス監督は、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「ロジャー・ラビット」「フォレスト・ガンプ」「コンタクト」と代表作はどれも僕の好きな作品ばかりだが、強引とも思えるテーマやアイデアを、確かなストーリーテリング力でぐいぐい見せる力技は本当にすごい。

この映画も、飛行機事故という最大の見せ場が最初に来る。ここがまた見事なサスペンスフルで、ハラハラドキドキするのだが、この映画の物型展開は実はここから。物凄い危機を乗り切った主人公が実は…というのがドラマのキーとなる。

人は、誰でも病気や障がいであったり、経済の問題であったり、家族の問題であったり、それぞれ、自分の“ウイークポイント”というか、ともすれば生きていくうえでの「弱さ」と成り得る部分を抱えているものである。でもそんな「弱さ」も、実は向き合い、共存することで克服できなくても「強さ」と成り得ることがある、と思うのだが、この映画の主人公はなかなか自分に向き合えない。

そこがもどかしく、僕は少しイライラしたのだが、物語は後半、実に巧みな展開を迎え、主人公は自身と向き合い、ある決断をする。そこは、是非未見の方は映画を観て頂きたいと思う。

前半の飛行機事故の描写がすごいからこそ、の後半の人間ドラマなのだが、こういうエフェクトシーンとドラマを融合させる名手はハリウッドでもそういないと思う。ロバート・ゼメキス監督の手腕は健在だ。
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