奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2020/11/21

74-1鳥羽天皇  天皇陵巡り
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 第73代堀河天皇がまずまずの身分の妃、苡子(イシ)の命と引き換えにもうけた息子宗仁親王(ムネヒトシンノウ)は、誕生後すぐに立太子しています。
そして父堀河天皇が亡くなると、すぐに満5歳にもならないうちに即位して、第74代鳥羽天皇(トバ)(1103〜1156)(在位1107〜1123)になりました。
  鳥羽天皇安楽壽寺陵(アンラクジュインノミササギ)(伏見区竹田内畑町)は、自身が上皇として院政をしいてた鳥羽離宮にあります
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 即位したと言っても5歳、実権は祖父白河上皇(1053〜1129)が握り、自分が寵愛していた藤原璋子(ショウシ・タマコ)(1101〜1145)を1118年に鳥羽天皇に入内させ、1119年に第1皇子顕仁親王(アキヒト)が産まれると、ひ孫である顕仁親王を(実は白河の子?説もあり)を直ちに第75代崇徳天皇として即位させました。
したがって鳥羽天皇は退位して新院と呼ばれるようになったので、約15年の天皇の間には、ほとんど仕事をさしてもらっていません。
  鳥羽天皇陵は陵堂と言って、仏式のお堂に納骨されています
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 21歳にして上皇になった鳥羽は、白河崩御後は疎まれていた前関白藤原忠実(タダザネ)(1078〜1162)を政界に復帰させ、白河時代には止められていた忠実3女泰子(タイシ・ヤスコ)(1095〜1156)を39歳の高齢でしたが入内させ、周囲の反対を押し切って、上皇妃であるのに女御→皇后としましたが、さすがに二人の間には子は出来ませんでした。
  鳥羽陵正面ですが、土塀に囲まれて内部の堂はてっぺんしか見えません
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 鳥羽は璋子との間に5男2女(二人が天皇に)までもうけていましたが、白河崩御と共に璋子を遠ざけて、家柄が低い藤原得子(トクシ・ナリコ)(1117〜1160)を入内させ、得子が1139年に体仁親王(ナリヒト)を産むと、女御にして直ちに体仁を崇徳天皇の皇太子にし、崇徳には譲位を迫り、3歳に足らずして体仁親王は第76代近衛天皇になりました。
  ここまでしか近寄れませんでした
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 鳥羽は天皇時代の璋子(待賢門院)はもちろん、上皇時代の泰子(�霸。)・得子(美福門院)も異例の皇后としており、近衛天皇が17歳で病没すると、今度は崇徳系ではなく、璋子の産んだ雅仁親王(マサヒト)を第77代後白河天皇として皇位につけています。
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 ごたごた続きで、遺恨を残すような皇位継承が続き、摂関家自身の内紛も誘発したので、鳥羽の死後9日目に保元の乱が起こっています。
 京都の南、鴨川と桂川に挟まれた水辺に造られた鳥羽離宮近く、安楽壽院陵に鳥羽は葬られました。
  鳥羽離宮の再現絵図が、陵の近くにありましたが、洪水は大丈夫だったのでしょうか

       返事
花水木さん:一番顕著なのは、
    異性の好みだと思います。
和さん:27日(金)19時から、
    YOUTUBE配信の朝橘さんにも、座布団1枚以上お願いします。

2020/11/18

73-2堀河天皇女御贈皇太后苡子  天皇陵巡り
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 大納言藤原実季(サネスエ)を父とし、藤原経平(ツネヒラ)の娘睦子を母として産まれた藤原苡子(フジワラノイシ・シゲコ)(1076〜1103)は、1098年に3歳年下の第73代堀河天皇(1079〜1107)(在位1086〜1107)に、白河上皇の世話で入内しました。
  写真は、これまで20回以上紹介しましたが、これで最後の宇治陵総拝所です
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 これは堀河天皇の中宮篤子内親王(トクシ)(1060〜1114)が、19歳も年上女房で、この時はもう40歳近くで子供もいなかったために、なんとしても苡子に世継ぎを産んでほしかった為のようです。
  写真は、36ある宇治陵の一つ木幡にある第5号です
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 苡子は期待に応えて、1103年に第1皇子宗仁親王(ムネヒト)を産みましたが、難産の末亡くなりました(28歳)。
そしてこの親王が第74代鳥羽天皇になったので、苡子は皇太后を追贈されていますが、苡子が命に替えて子をなさなかったら、天皇家の歴史も大きく変わったかもしれません。
  藤原北家出身の皇后などが眠る宇治陵総拝所の制札の陵としては最後に、鳥羽天皇御母贈皇太后苡子宇治陵と書かれています
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 苡子の父実季は藤原北家閑院流ですので、これに依って閑院流は再び勢いをまし、北家本流の摂関家を凌駕するようにもなりました。
  苡子の火葬塚は、写真の一条天皇皇后定子の鳥戸野陵と同じですが、こちらは堀河天皇女御贈皇太后になってます

       返事
toitenn・和・花水木・元商家の嫁さん
     1.と2.同票でしたので、裁判で争います!
      でも、有権者全員が女の子だったのは、うれしい限りです!

2020/11/16

近所の秋を少し  京都から
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 近所を散歩。
宝ヶ池と国際会議場、比叡山も秋色です。
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 芸術的に写真を撮ろうと思うと、素人の私は、前に何か入れてしまいますね。
新型コロナが私の生活にかなり近づいてきたので、得意の遠出が出来なくなってきました。
 これからは、少したまった天皇陵巡りシリーズが続きそうですよ。お許しを!
 1.
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 2.
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 最も家から近い秋、「妙」も今年は燃やさなかったためか、赤い木が目立ちます。
1.と2.どっちの写真をあげようか迷いましたが、いずれにしても前の鉄線が邪魔になりました。
1.と2.どっちが良い写真なんでしょうか?

       返事
花水木さん:京都の紅葉は寒い分だけ、
    五島列島の紅葉より綺麗ですね。
     かき氷は今も家で作って食べてますが、
    今年分のシロップが無くなってきました。
タグ: 宝ヶ池 妙法 もみじ

2020/11/13

秋の京都を少し  京都から
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 仕事帰りに、京都の南、竹田辺りをブラブラして、陵墓参考地を巡りました。
この辺りは、丁度天皇陵巡りで差し掛かってる鳥羽離宮があった所です。
 京都南ICを降りて帰ってきた時には、すぐに渡る写真の鳥羽大橋辺りは、鳥羽伏見の戦いで、私の曾祖父の兄が敗れた場所でもあります。
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 別の日、墓参りの帰りに清水寺から祇園まで、ブラブラしました。
新型コロナ感染者が最近また増え始めていて、良いのか悪いのか判りませんが、京都の観光客や修学旅行生は確実に増えています。
 以前バス観光で登った大雲院の祇園閣も、秋空に映えていました。
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 二寧坂にある竹下夢二下宿先の隣の甘党「かさぎ屋」で、家内はぜんざいですが、私はこの宇治金時(800円)。
食べ進めると、底から小豆と白玉が出てきます。
何故かキーンとはならないですが、少し冷えたので、熱いお茶をいただきます。
やっぱり氷は冬でも美味しい!!
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 別の日、大原の三千院ではなく、横の御陵を巡ってから、向かいの実光院(ジッコウイン)(500円)に入りました。
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 この庭を眺めながら、実光院限定の八つ橋饅頭でお抹茶(300円)をいただきます。
私たち以外はちょっとカッコよいアベックの二組だけで、その人たちを少し気にしながら、ゆったりした至福の時が流れます。
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 部屋の欄間には、江戸時代の狩野派絵師の「三十六詩仙」と、綺麗な胸をしている天女が描かれていました。
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 お庭の秋を、少し芸術的に撮ってみました。
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 少し分かりにくいですが、柿と紅葉と一緒に、白っぽい不断桜が咲いていました。
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        翁ひとり
      京都   大原実光院 
     コロナにつかれた  翁がひとり
     ユニクロのダウンに  手製のマスク
     意思の弱さに  ゆれていた
      京都   大原実光院  ♪
     コロナにつかれた  翁がひとり〜

2020/11/10

73⁻1堀河天皇  天皇陵巡り
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 第72代白河天皇の第1皇子は夭折、第2皇子は法親王に、賢子との間の第3皇子が善仁親王(タルヒトシンノウ)です。
 白河天皇の皇太子は異母弟実仁親王(サネヒト)(1071〜1085)で、2歳にして立太子してますが15才で没しました。
 すると白河天皇は8歳の善仁親王を立太子させ、即日自分は譲位して善仁親王を即位させて、第73代堀河天皇(ホリカワ)(1079〜1107)(在位1086〜1107)がうまれました。
  写真の堀河天皇陵、山の上に第66代一条天皇と一緒に葬られています
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 これは白河天皇の父後三条天皇の遺言で、立太子の約束をされていたもう一人の異母弟輔仁親王(スケヒト)(1073〜1119)を立てるのではなく、自分の直系に依る皇位継承を望んだからでした。
その為、堀河天皇即位後も皇子が産まれるまでの17年間は皇太子を置かずに、幼い堀河天皇に代わって父白河上皇が政治を執る院政が開始されました。
  一条天皇と同じ陵と言っても、それぞれの陵名は違っていました
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 堀河天皇は准母に前回の媞子内親王を迎え、中宮としては1091年に叔母にあたる30歳まじかで19歳も年上の篤子内親王(トクシ)(1060〜1114)が入内しています。
最後に入内し女御になった、はとこの藤原苡子(イシ)(1076〜1103)との間に第74代鳥羽天皇が産まれています。
  写真は、御陵の正面です
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 8歳で天皇に成った堀河天皇ですので、在位期間は20年以上と長く、長ずるに従い政務に励むようになり、賢王と言われるようにもなりましたが、父白河上皇の院政体制が強化されてくると、父上皇との対立を避けて風流の道を歩むようになりました。
  御陵の前からの眺めは最高です
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 堀河天皇在位期間の初めには、1087年後三年の役が、なんかあまり気持ち良くない結末で終息していますし、1099年康和荘園整理令(コウワノショウエンセイリレイ)も発令しています。(荘園制度と言うのも、私ははっきり理解はしていませんが)
  陵印も一条天皇と共通です
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 堀河天皇の発病から崩御に至る約1ヶ月を、お傍にいた公家の日記から読み取ることが出来るそうで、堀河天皇は暖かい人柄だったようです。
 火葬塚は北区等持院東町にあって、嵐電北野白梅町からすぐの線路沿いの見落としそうな、この狭い参道の脇から入っていきます。
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 垣根越しの正面から見ると、入り口に比べ塚自体は住宅には囲まれていますが広くありました。
 御陵は龍安寺の裏山の高い所で、一条天皇陵と共有している後圓教寺陵(ノチノエンキョウジノミササギ)(右京区竜安寺朱山)です。

         返事
花水木さん:京都の水道水は琵琶湖のたまり水、
    美味しくありませんので、他所の水道水のうまさにびっくりすることはありました。
    でも、どんな技術か知りませんが、
    最近の京都水道水は美味しくなったと思っています。
    単に私の舌が年とっただけかもしれませんが。

    

2020/11/8

72-6白河天皇皇女尊称皇后令子内親王  天皇陵巡り
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 第72代白河天皇は沢山の子供を作っていますし、一説には平清盛も崇徳天皇も白河の子だ、とも言われているぐらいです。
 皇后賢子との間だけで、第1皇子敦文親王(アツフミ)(2歳で夭折)・前回の第2皇女媞子内親王・第3皇子善仁親王(タルヒト)(後の第73代堀河天皇)・第4皇女禹卞眇堂ヲ(シンシ)と、今回の第3皇女令子内親王(レイシナイシンノウ)(1078〜1144)の5人の子供がいます。
  写真は、もう3回目の上醍醐陵です
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 令子内親王は1089年に1歳年下の同母弟堀河天皇の時に、第24代斎院に卜定(ボクジョウ)されましたが、1099年には病を理由に退下しています。
その後は甥にあたる第74代鳥羽天皇の准母となり、即位と共に皇后(尊称皇后)にもなりました。
 以後はのんびりと宮廷生活を楽しみ、父白河天皇崩御と共に52歳で出家し、67歳と比較的長生きして亡くなっています。
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 令子内親王が葬られている上醍醐陵(カミダイゴノミササギ)は、母親賢子や同母姉媞子内親王と同じですので、もう紹介はしていますが、しんどかったです!
 先ずは、昔は女人禁制で女はここまでだった麓の女人堂で、入山料600円を払います。
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 ここからひたすら登って登って喘ぎながらたどり着いた上醍醐寺内西国33カ所第11番札所准胝堂(ジュンデイドウ)は、昭和43年に再建されたのですが、最近(2008年)に落雷で焼失して、今はこんな原っぱです。
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 こんな山の上に国宝の薬師堂も立っていましたが、もう私も家内もふらふらでした。
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 醍醐水も湧いていて、少し口に含みましたが、醍醐味と言うほどでもありませんでした。
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 開山堂に向かう坂道に、やっと「白河天皇皇后外二方御陵」の石柱がありました。
ちょっと登るよ開山堂で、せっかく登ったのにその横から石段を降りると、上醍醐陵が見えてきました。
 しんどかったです!!

2020/11/8

72-6白河天皇皇女尊称皇后令子内親王  天皇陵巡り
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 第72代白河天皇は沢山の子供を作っていますし、一説には平清盛も崇徳天皇も白河の子だ、とも言われているぐらいです。
 皇后賢子との間だけで、第1皇子敦文親王(アツフミ)(2歳で夭折)・前回の第2皇女媞子内親王・第3皇子善仁親王(タルヒト)(後の第73代堀河天皇)・第4皇女禹卞眇堂

2020/11/6

72-5白河天皇皇女尊称皇后媞子内親王  天皇陵巡り
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 第72代白河天皇(1053〜1129)(在位1072〜1086)と賢子(1057〜1084)の間に最初に産まれた皇子は夭折、2番目に産まれたのが今回の第1皇女媞子内親王(テイシ・ヤスコナイシンノウ)(1076〜1096)です。
  上醍醐陵へは写真のような山道をひいこらひいこら登りましたが、秀吉の醍醐の花見もかなり上まで茶店を作っていたようです
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 3歳で斎宮となり、伊勢にも下向しましたが、母賢子が亡くなったので退下して京都に戻っています。
同母弟であった第3皇子が1086年に8歳で即位して第73代堀河天皇になったので、同母姉媞子はその准母として入内し、中宮にもなっています。
二人が異母姉弟ならば本当に結婚できたかもしれません。
  登る途中の滝でしばし休憩、登っても登っても着きませんが、途中何人かの人も登って行きました
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 それでも天皇の同母姉で非配偶の后(尊称皇后)には、反対する人もたくさんいましたが、これも父白河天皇が強引に推し進め、以後院政期にある准母立后の始まりとなったようです。
前例がない物はなかなか決まりませんが、先例さえつければ結果は付いてくる、今の日本もそうですよね。
 媞子は1093年には女院となり、郁芳門院(イクホウモンイン)と呼ばれています。
  なんとかたどり着いた、母賢子などの制札です
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 媞子内親王は母親似で、綺麗で優美であり、21歳で多分処女のまま没した時には、父白河天皇は悲しみのあまり出家したそうです。
 御陵は山の上ですが、火葬塚は北区紫野西野町の北大路に面した、今宮神社の前ぐらいの建物の間にあって、まあまあにぎやかですが通りすぎてしまいそうな所です。
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 一応皇后ですので、母賢子や妹令子内親王他と共に上醍醐陵(カミダイゴノミササギ)に葬られています。
山の上まで往復4時間の遠く長い道のりでしたが、合葬されているので、いっぺんに4人分の陵墓を廻ったことに成るので、良しとしました。

       返事
花水木さん:春よりは少ないですが、
    秋でも花粉症の処方はしていますよ。

2020/11/4

文化の秋  
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 今週は文化の秋
新装なった京都市京セラ美術館開館記念展「京都の美術250年の夢」(1600円)に予約して行ってきました。
平日なら予約なしでも入れそうです。
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 現代美術は伸び悩んでいますが、昭和初期ぐらいまでの京都関係の作者や作品はまあ立派ですね。
しかし1600円の値打ちはちょっとでしたし、館内のレストランに並んだのですが、手違い(こちらが悪いかもしれませんが)で飛ばされたので、ちょっとムッとしてやめました。
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 鷹ヶ峯光悦寺の秋の朝は、まだ少し紅葉には早いですが、さすが!
京都の秋、観光客も少しは増えてきています。
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 家内と孫V-1と、京都の北から京都駅まで市営バスの旅、バスは去年のようには混んではいませんが、京都駅にはそれなりの観光客。
それでも京都駅の上にあがると、ほとんど人はいません。
京都駅の上から、京都タワーを見下ろすというわけにはいきませんが、土台のビルよりは高いか。
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 京都駅屋上に続くエスカレーターは、朝早いせいかガラガラの独占状態。
孫V-1はバスも好きですが、それよりも好きなエスカレーターに、昇っては下りるのエンドレスでした。
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 文化の日は、同級生が出品している「創工会」の展覧会に出かけました。
今年は新型コロナの影響で規模は縮小されていますが、いつもの大きな展覧会場より、この銀閣寺南の実業家の邸宅跡「和中庵」の方が、場所も雰囲気も良かったような気がします。
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 「和中庵」渡り廊下から見下ろす秋も、少し早いが風情がありました。
帰りは、京都では30年以上前からあった長崎チャンポン・皿うどんの店で、チャンポンと皿うどんを二人でシェアして食べましたが、長崎や五島で食べてたチャンポン・皿うどんの味をまだ覚えてる私には、やや文化?の違いか、頼りなく思えました。

        返事
花水木さん:まあ昔は、
    兄嫁を弟が貰うこともよくあったようですし、
    お古やお下がりも悪くはないですかね。
     新型コロナで東京オリンピックは中止になっても、
    来年の今頃には、もう普通の疾患になっていると思っていますが、
    私の予想や診断はあてになりませんかね。
大雪男さん:老人施設で発生すると、
    私も死活問題になりますが、
    皆注意深くなってますので、
    注意しながら行動するで、私も良いと思っています。
     プロ野球の世界からは、なんか引き気味になっています。
    ドラフトは良かったのですが、果たして阪神が上手に育てられるのか、
    不安になっています。

2020/11/2

72-4白河天皇皇子覚法法親王  天皇陵巡り
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 覚法法親王(カクホウホッシンノウ)(1092〜1153)は第72代白河天皇(1053〜1129)第4皇子で、母は中宮賢子(1057〜1084)のひとまわり以上離れた同母妹源師子(ミナモトノシシ・モロコ)(1070〜1148)です。
 前回の第2皇子異母兄の覚行法親王も出家していますが、この頃から次期天皇に成る人以外の皇子は、権力争いをしないようにするためか、門跡を継ぐという天皇家自身の仏門への帰依のためか、出家して法親王になる人が増えています。
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 Go Toトラベル利用で高野山の宿坊に泊まったことは報告していますが、その泊まった宿坊は金剛峯寺横の総持院で、この裏山に墓があるので、到着後すぐに訪れました。
  宿坊裏から、写真の山道を少しだけ登ります
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 すぐに到着しました。
きれいに整備されてる、四角形の墓で、ぐるっと1周出来ました。
 白河上皇の皇子として産まれた覚法法親王は、異母兄覚行法親王の下で出家し、覚行に続いて仁和寺第4世門跡になっています。
真言宗のお坊さんなので、ここ高野山に葬られたようです。
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 覚法法親王の母師子は、なかなかおもしろい人生を過ごしています。
死んだ同母姉賢子を愛していた白河上皇の目にとまり(姉妹なので似てたのでしょうね)、寵愛を受けて産まれたのが今回の覚法法親王なのですが、女好きの白河上皇はすぐに師子のことは忘れてしまったようです。
ところが16代目の藤原北家氏長者忠実(タダザネ)(1078〜1162)がまだ10代の頃に、8歳年上の師子に一目ぼれしてしまい、白河天皇から師子を譲り受けています。
 師子は忠実との間に17代目藤原北家氏長者忠通(1097〜1164)などを産んでいます。
その後、白河上皇がお傍に置いていた藤原璋子(後の待賢門院です)を、忠通の嫁にするように忠実に求めた時は、忠実は璋子の素行が悪いと思い、息子の嫁にせよと言う白河上皇の申し込みを拒否したので、上皇の不興を買っています。
自分は白河上皇のお古を貰っても、親子二代にわたって息子にも上皇のお古かもしれない嫁を貰いたくなかったのかもしれません。(師子がこれをどう思っていたのかは知りませんが)
 死ぬ6年前から師子は仁和寺に住んで、結局ここで今回の息子寛法法親王の世話を受けて、心安らかに天寿(79歳)を全うしたそうです。
師子が亡くなってから、夫忠実と息子忠通が対立する保元の乱(1156年)が起こったので、これを見なかっただけでも幸せでしたね。

        返事
花水木さん:宝くじは選べません。
    ロト6や競馬は、当たらない方を選びがちですが、
    一応自分の意思が入るので、この方が宝くじより楽しいですよ。
     世間は新型コロナを過剰に心配する人と、
    気楽な人とに別れていますが、
    私はあえて危険をおかそうとは思いませんが、
    気楽な方に入りますかね。


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