奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2019/9/19

上高地へ2  
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 朝食前にホテルの周りを散歩、朝焼けの山も写真のように綺麗で、2日目も上天気です。
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 上高地にはチップ制のトイレが何ヶ所か有り、100円均一でした。
以前東京で一度有料トイレに入ったことがあるので、有料トイレ体験は2回目ですが、山の中、東京の有料トイレほどは豪華ではなく、まあまあと言うところでした。
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 朝の河童橋から岳沢(ダケサワ)と奥穂高岳などの山並み、これまた絵のように綺麗に見える日でした。
万年雪も少し残ってるように見えました。
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 この日は明神橋まで歩きましたが、ゆっくりゆっくり歩くので1時間以上かかりました。
朝一番ののためか、河童橋より人は少な目、橋の向こうにそびえるのが明神岳です。
ここから2時間ほど歩くと徳沢・横尾で、そこまで行くと有名な涸沢(カラサワ)や北穂高岳・槍ヶ岳が見えますが、これは無理なのでやめておきました。
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 奥穂高神社奥宮と明神池の拝観には300円いります。
鳥居には菊の紋が入っていましたが?
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 ひょうたん型の明神池は一之池・二之池と別れていましたが、どちらの明神池も眺めは最高、気持ちが良いです。
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 あまりにも透明なので、底が見えるのに深さが判りにくい明神池、写真に撮ったら、水面に明神岳と空が映って、肉眼で見てるより青く撮れました。
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 明神池横の嘉門次小屋で、蕎麦とお汁粉をシエアして休憩。
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 再び河童橋の上高地バスターミナルまで下りました。
途中は又湿地や梓川の支流が流れていて、「オフィーリア」の絵のような川がたくさん見られましたが、美女は浮かんではいませんでした。
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 河童橋の五千尺ホテルで、美味しいと評判のちょっと高いレアチーズケーキを食べて、食でも上高地に満腹。
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 上高地の満足度は、上天気のせいもありますが、かなり高かった旅でした。

      返事
大雪男さん:「藤木レリーフ」は奥穂高山頂ではなく、
    滝谷の登山口にあるようです。
     来年は、もう一度岡田に戻ってほしいのですが。
花水木さん:2008年なら、もうマイカー規制あったと思います。
     私の親戚だが私とは血がつながっていない人に、偉い人が多いです。
    私の血が入ってる私の子や孫が偉くなるとも思えませんが、
    人の迷惑にならず、お天道様の下で、元気に生きてくれたら、
    それでもう十分です。
和さん:山は綺麗で感激しましたが、
    五島の海は感激と共に心が洗われます。
    でも旅行はやはり天気ですね、
    五島に雨や嵐の時に来た人は、本当にかわいそうと思っていました。

2019/9/15

上高地へ1  
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 一度は行きたかった上高地、40年ほど前まだ安房トンネルが出来て無かった頃に、一度釜トンネルの前を通りすぎたのですが、行かなかった上高地。
 9月の週末金曜日の朝5時半に自宅を出発、写真のひるがの高原サービスエリアなどで何度も休憩しながら、比較的安全運転で、平湯温泉あかんだな駐車場(1日600円)に着いたのが昼前です。
天気は申し分なしでした。
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 マイカーでは上高地に入れませんので、路線バス(往復2050円)で上高地まで30分程、一番手前の大正池で降りました。
 1915年(大正4年)に焼岳の大噴火で梓川が堰き止められて出来た池ですが、流れ込む土砂でだいぶ小さくなり、有名な枯れ木も残りわずかになってるようです。
大正池の後ろに聳える、初めてじっくり目にした日本アルプスの山並みは、ちょっと感激するぐらいの景色でした。
 旅行の印象は、やっぱり天気に左右されますね!
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 梓川に沿って林の中を上がりましたが、途中梓川が何本も枝分かれして並行して流れるような小川がたくさん流れていて、快晴なのに全く暑くはありません。
水は綺麗で、奥入瀬渓流よりも私たちの評価は高かったです。
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 正面の六百山などからの伏流水が湧き出て、この田代池や湿原を作ってるそうです。
水は無いと思うぐらい透明です。
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 梓川の本流自体は結構大きく、流れも水量も思っていた以上にあります。
水の色も綺麗です。
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 1時間ちょっと歩いて、最初に見つけたホテルの食堂で遅めの昼ご飯。
再び歩き始めて、明治時代に日本アルプスに魅了され、その存在を世界に広めたウォルター・ウェストンの碑にたどり着きました。
ここを目標に歩いていたのに、写真を撮ってる人がいなかったら、危うく通り過ぎる所でした。
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 一度は行きたかった上高地、一度は泊まりたかった上高地帝国ホテルに、頑張って清水の舞台とまではいきませんが、2階から飛び降りるつもりで泊まりました。
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 夕食前の散歩で、ホテルの裏に廻ると、山は夕照?。
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 部屋はそれほど広くなく、山小屋風ですが、夕食はさすが帝国ホテル、非常に美味しかったです。
接客も丁寧ですし、他の泊り客も私たちより皆上品でした。
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 このメニューの中で、スープが珍しい味で濃厚で美味しかったです。
頑張って骨折もせずに2階から飛び降りて、泊まった甲斐はありました。
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 最後に親戚自慢を。
上高地帝国ホテル内の図書館に鍵のかかった本棚があって、その中に有名な深田久弥さんの古い本などに混じって、藤木九三さんの古い本も5冊ほど並んでいました。
藤木九三と言っても山男以外には馴染みはないと思いますが、北穂高岳滝谷の初登攀をしたり、甲子園のスタンドをアルプス席と名付けたりした、登山家兼新聞記者兼詩人です。
 九三さん、実は私の叔母の嫁ぎ先の舅にあたります。
60年程前小学生の頃、叔母の甲子園球場の裏にある家によく泊まりに行きました。
高校野球を一日中出たり入ったりして観たり、その頃はあったダブルヘッダー(1日2試合同じカードの阪神戦をやります)を観に行くと、途中で叔母が外野席まで弁当を届けてくれました。
又今では考えられませんが、7回を過ぎると甲子園球場の阪神戦も無料開放になるので、仕事から帰ってきた叔父に連れられて、ナイターの最後だけを観に行ってました。
その頃九三は丁度今の私ぐらいの年齢で、男の孫も少なかったのか、可愛がってくれましたので、私にとっては単なる好々爺、そんな偉い人とは思っていませんでした。
 奥穂高には「藤木レリーフ」と言うウェストン碑のような顕彰碑もあって、その除幕式に叔母は山男に背負われて出席したと話してくれていたのですが、私の今の足ではそこに行くのは無理なようです。

     返事
花水木さん:こんな芋あんは初めて食べましたが、
    流行してるのですね。
     関西では、スーパーの野菜売り場には、
    徳島産のいろんな野菜が並んでいますよ。
大雪男さん:五島にいた頃から、
    人口減少が少なくプロレスなど頑張ってるのは小値賀島だけと聞いていました。
    奈留島も合併せずの方が、町民の一体感は増したと思いますよ。
     首位巨人・5位阪神が今の実力ですかね?
    横浜になんとか日本シリーズに行ってほしいですが。
    来年はオリンピック年なので、阪神優勝の可能性はあります。
 

2019/9/12

13松茂係長芋どらやき  菓子たくさん
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 徳島県板野郡松茂町は、徳島県の北東部、徳島市と鳴門市に挟まれて、東側は海に面した、吉野川の三角州に出来た小さな町ですが、徳島阿波おどり空港がある為うるおっているのか、徳島市にも鳴門市にも合併されず、町として残っています。
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 松茂町のマスコットは「松茂係長」、8月1日生まれの男性で、
*品質が良いという大根の:耳
*品種名「ふゆわらべ」、大仁田ネギ×千住ネギ×九条ネギをかけ合わせて開発されたねぎを、ここでは「浜葱」と名前を付けています。その浜葱の:スマホ
*養殖もされてる海苔の:頭髪
*鳴門金時を松茂では「松茂美人」と呼んで、そのサツマイモの:スーツ
*白く品質がよく太白(タイハク)ちりめんと呼んでる、ちりめんじゃこの:ネクタイ
*徳島から鳴門への道沿いは蓮根畑だらけですが、れんこんの:バッグ
*徳島からよく送ってくれる「幸水」「豊水」の梨の:ストラップ
*松茂町の花である松葉菊の:バッチ
  で飾られている月うさぎです。
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 山丸昭月堂さんの「松茂係長芋どらやき」
松茂美人の入った芋あんのどら焼き、1個173円とリーズナブルです。
家内の実家から送られてきた「すだち」などの荷物の中に、これも数個入っていました。
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 これは初めて食べましたが、芋の餡もなかなか美味しかったです。
皮は少しパサパサしてましたが、荷物の隅に入っていたためかもしれません。
タグ: 徳島 松茂町

2019/9/9

12金長まんじゅう  菓子たくさん
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 家内が徳島出身なので、すだち・小男鹿(サオシカ)・鳴門わかめ・ぶどう饅頭・竹ちくわはよくお土産に貰います。
この金長まんじゅうも、徳島の定番のおみやげですし、株式会社ハレルヤが元々小松島市から出たのと、義母の里は小松島市に近い羽ノ浦町であることもあって、家内の実家には必ず金長まんじゅうがありました。
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 チョコ風味の皮と、内は白あんが詰まっていて、甘味も抑えられているので、息子たちも小さい時から好きでした。
 金長ゴールド・プレミアム金長まんじゅうも出来てるようですが、普通の金長まんじゅうが私は一番好きです。
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 阿波の狸合戦で、阿波方の総大将狸が金長たぬきなので、この名があるようです。
1個100円と、今も安いのでお値打ちです。
 久しぶりに家にあったのですが、これが昔よりかなり小さく平べったくなっていて、ミスタードーナツのオールドファッションだけでなく、「金長まんじゅう、お前もか!」という感じです。
 これなら5個ぐらいすぐ食べてしまいそうです。

     返事
花水木さん:この週末上高地に行ってきました、
    快晴で気持ち良かったのですが、帰った京都は暑い暑い!
     檀れいさんの金麦の宣伝は良いですね。
    宝塚スターなら、奈留島で泊まってくれた神保悟志さんの奥さん、
    鮎ゆうきさんも綺麗ですよ。

2019/9/4

天気おかしい  京都
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 今日の仕事は午前中のちょっとだけ、太陽の下、熱いぐらいの車に乗って帰ってきました。
午後はBSで古いSF映画「デユーン砂の惑星」を観てたら、急に辺りが真っ暗になり、黒い雲が走り、風が吹き、雷が鳴りだしました。
昔々、ピンクフロイドの「吹けよ風 呼べよ嵐」を何度も何度も聞いていたのを思い出させるような、ここは京都か!?と思うぐらいの天候。
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 携帯の天気予報を呼び出したら、「雷雨」雲の下から稲光が出てる印です。
なんでも携帯でわかる世の中なんですね。
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 窓の外で光る雷は、上手に撮れませんでしたが、携帯でもリアルに時々稲光が光るようになってました。
4回目でこれは撮ることが出来ましたよ、すごいですね!携帯がですよ!

     返事
花水木さん:私の父方祖母は4人、
    母方祖母は7人と、まあ100年前なら普通ですかね。
     雷が鳴って、風が雲を吹き飛ばしてる今、
    タイムリーなコメント返事ですが、
      天津風 雲のかよい路 吹き閉じよ
        乙女の姿 しばしとどめむ    の歌から、
    私でも知ってる宝塚大スター天津乙女さんの名は生れました。
    しかもその妹さんも宝塚スターで、
    雲野かよ子さんと言うらしいですよ。
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2019/8/31

50-6桓武天皇皇孫遍照  天皇陵巡り
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 京都市山科の西北の辺りに遍照墓(ヘンジョウノハカ)はあります。
通勤の帰り道に、天智天皇陵に近い地下鉄御陵(ミササギ)駅で降りて(地図上の方)、ブラブラと遍照墓(地図下の方)を訪ねました。
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 地図を見て探しているのにもかかわらず、一度は見落として通り過ぎた、狭い道の奥に墓らしき姿を見とめました。
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 ぐるっと回りを住宅に囲まれている、小さな円形の丘が遍照墓ですし、はっきりと宮内庁が管理してる制札がありました。
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 遍照(ヘンジョウ)と言われてもピンときませんが、遍照の意味は「あまねく世間を照らすこと」らしいです。
このありがたい名前の持ち主は、桓武天皇の孫にあたります。
すなわち父親が良岑安世(ヨシミネノヤスヨ)で、桓武天皇の息子なんですが、生母の身分が低いので親王宣下を受けられず、良岑姓を賜与されて臣籍降下しました。
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 この安世の八男として生まれた良岑宗貞(ヨシミネノムネサダ)(816〜890)は、850年に出家して遍照僧正(ヘンジョウソウジョウ)となりました。
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 なんといっても有名なのは、まだ出家する前の宮中に出入りしていた頃に作った小倉百人一首の11番目
   天津風 雲の通い路 吹きとじよ
      乙女のすがた しばしとどめむ
この和歌、昔ノック・フック・パンチのマンガトリオが、
  天津風 余った風は どこに行く
と、漫才の冒頭によく使っていたので、憶えました。
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 遍照も突然妻子を捨てて出家したのですが、その息子良岑玄利(ヨシミネノハルトシ)が父遍照を訪ねると、「お前もお坊さんになれ」と強引に11歳で出家させて、素性法師(ソセイホウシ)にさせられました。
まあそれでも、親子して小倉百人一首に載せてもらえるような歌人になったのですから、良しとしましょう。
 でも、臣籍降下した天皇の孫の墓まで宮内庁が管理してるのは、何故なんでしょうかね?

     返事
花水木さん:子供も多かったですが、妻も多いので、
    私たちの祖母年代が、一人でたくさん産んでる方が驚きですね。
     私の家族はAとBが結婚したので、
    子供はO・A・ABと一家で全て揃いました。
    どの型の子が産まれても、私の子だと言わなくてはならない、
    悲しい定めの私です。
    何だかなあ〜。(花水木さんから盗作)

2019/8/28

50-5桓武天皇皇子仲野親王  天皇陵巡り
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 第50代桓武天皇には35人の子供がいたそうですが、その第12皇子である仲野親王(ナカノシンノウ)(792〜867)と言われても、ピンときませんし今まで聞いたこともなかったです。
でも墓は、嵐電帷子ノ辻(カタビラノツジ)駅とJR山陰線太秦(ウズマサ)駅の間にあって、結構目立つ大きな墓でした。
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 藤原四家の中で一番目立たず人材も少なかった藤原京家の出の藤原大従(フジワラノオオツグ)の娘藤原河子(カワコ)が、桓武天皇の宮人(キュウジン)となり、5人の親王・内親王を産みましたが、その内の一人が仲野親王です。
 住宅街の中にある高い丘に木々が生い茂り、森のようになった高畠墓(タカバタケノハカ)、参道も非常階段のように細く伸びていました。
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 仲野親王は歴史の中で特に何かしたと言うわけではないようですが、垂箕山古墳(タルミヤマコフン)と言われるこの大きな前方後円墳に葬られているのは、少し不思議です。
まあ、治定されたのが明治になってからですから・・・・。
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 空濠のなってるような墓外周の道を、丁度掃除中の職員に咎められないように一周巡りました。
 仲野親王にも17人の子供がいましたし、75歳と長生きです。
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 仲野親王の沢山の子供のうちの一人班子女王(ハンシジョオウ)が、親王時代からの第55代光孝天皇の妃となっていて、源定省(ミナモトノサダミ)を産んでいます。
この一時は臣籍降下していた定省が、第56代宇多天皇になってしまったので、仲野親王は死後20年経ってから、天皇の外祖父として一品太政大臣を追贈されています。

     返事
花水木さん:今や私のブログは、
    半分は花水木さんのコメントを期待してる読者で成立っていますので、
    面倒ですが一行でもコメントお願いいたします。
     京都は大文字がすむと、秋になりました。
    今年も半分以上が過ぎ、月日は巡りますが、
    目標無く生きるのはしんどいです。

2019/8/24

50-4桓武天皇皇子伊予親王  天皇陵巡り
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 木曜日の午後の仕事を辞めたので、午前中の仕事を終えて山の上の施設から、いつもの帰りとは逆の方向に降りて行き、色々訪問すること(道草です)が増えました。
山から降りた所が、写真の奥に見えてる六地蔵方面、京アニの放火殺人事件のあった所です。
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 降りて行く途中を少し外れて、住宅街の中を探していると、なんの目印も無くなかなか見つからなかった伊予親王(イヨシンノウ)(783?〜807)の巨幡墓(コハタハカ)(京都市伏見区)を、この奥に見つけました。
正式には黄金塚2号墳と言う、元々は120mもあった前方後円墳らしいです。
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 第50代桓武天皇は26人の女性を娶り、35人の子供をもうけていますし、この内の3人が天皇になりました。
 この伊予親王も、藤原南家の恵美押勝の乱を起こした仲麻呂の甥である藤原是公(フジワラノコレキミ)の娘で、桓武天皇夫人の藤原吉子(キッシ)から産まれていますので、天皇になっても不思議はなかったようです。
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 父の桓武天皇には愛されていたようですが、桓武の次の天皇になったのは、異母兄の第1皇子である第51代平城天皇です。
 兄の平城天皇に疎まれていた可能性もあるし、藤原四家の間の権力争いもあって、伊予親王が謀反の首謀者だと言われ、母吉子と共に捕縛幽閉されました。「伊予親王の変(807年)」
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 「伊予親王の変」を日本史で学んだ記臆が全く無く、その墓が勤務地の近くにある自覚も、残念ながら私には全くありませんでした。
 この不幸な母子は、幽閉後1ヶ月ほどして、二人とも毒を仰いで自害したそうです。
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 恵美押勝の乱でボロボロになっていた藤原南家は、これでとどめを刺されたようですが、後に伊予親王は無実とされ、母と共に復号・復位されました。
こんなこともあってかどうか知りませんが、墓の中央には石の宝塔が立っていました。

2019/8/21

50-3桓武天皇夫人藤原旅子  天皇陵巡り
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 藤原式家の百川(モモカワ)とその姪にあたる藤原諸姉(モロネ)【良継の娘で、前回の乙牟漏の姉になります】との間に、長女として産まれたのが藤原旅子(フジワラノタビコ)(757〜788)です。
 この陵の訪問も一度失敗してたどり着けずに、再挑戦です。
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 父の百川と、伯父でもあり祖父でもある良継が推した山部親王が第50代桓武天皇になったので、旅人の1歳下ですが叔母にあたる乙牟漏が皇后とはなっていましたが、更に785年に旅子自身も26歳で桓武天皇の後宮に入りました。
 竹林の間の道を少し登っただけで、たどり着けます。
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 786年には大伴親王(オオトモシンノウ)(後の第53代淳和天皇)を産みましたが、788年には30歳で亡くなっています。
 妻の乙牟漏・旅子を次々と若くして死なせ、母の高野新笠も亡くなったので、桓武天皇はより一層早良親王(崇道天皇)の霊を畏れたようです。
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 こうして宇合(ウマカイ)から始まった藤原式家は、武智麻呂から始まった藤原南家の仲麻呂が恵美押勝の乱を起こして滅びたので、桓武・平城天皇の時代には種継や薬子(クスコ)等を擁して、藤原四家の中で一番栄えました。
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 旅子が若くして亡くなった時にはまだ2歳だった大伴親王が、37歳で即位して第53代淳和天皇になったので、旅子は皇太后を贈られて、洛西の丘陵地にあるこの宇波多陵(ウハタノミササギ)(京都市西京区大枝)に葬られました。

2019/8/17

大文字  京都
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 また大文字が巡ってきました。
自宅が「妙」の前にあるので、島から帰って4年連続の鑑賞です。(と言うことは、4年連続同じようなブログです)
今年は京都市の半地下状の体育館が前に建ったので、少し景色は変わっています。
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 昨日の台風も過ぎ去ってくれて、夕方には火床周囲の草に水を撒くぐらいになっています。
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 今年はお客さんはなしで、その替わり家族12人全員集合です。
いつも知り合いから料理を少しとってるのですが、今年はなんと清水六兵衛さんのお皿に盛って来てくれました。
料理より皿の方が100倍高価でしょうね。
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 8時過ぎ「妙」に点火、少しばらついたので、あとで怒られてるかもしれません。
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 それでも今年は綺麗に安定して「妙」は燃えていました。
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 我が家からは「大文字」の上ちょっとと、「船形」も見えます。
子供の時は、大文字が終わると夏休みが終わると、悲しくなっていましたが、今年は人生を感じて悲しくなっています。

      返事
大雪男さん:若い時は、ラグビーのヘッドギアも、
    全共闘の赤ヘルも、それなりに似あっていると思っていましたが、
    額が無いせいか、帽子はまったく似合いません。
    火野正平さんが被っていたような布製の自転車ヘルメットも買いましたが、
    全くダメです。
花水木さん:「漏」確かにあまり漏れると、
    仕事にも差障りが出るかもしれないので、
    これで仕事をやめるかもしれないですね。


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