奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2018/11/17

孫の誕生日  
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 私には男の子ばかり4人の孫がいますが、上の2人は小学3年生、4月生まれの方には今年の誕生日に阪神タイガースの野球盤を贈りました。
11月生まれのもう一人の孫は、テニススクールから少年野球教室に鞍替えするそうなので、祖父の私に似て、物事をすぐに極めてしまう性格が心配です。
    余の辞書によると、
物事を極める;進歩しないし、上手にならないので、嫌になる。
         すぐに飽きて、退屈する。
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 誕生日プレゼントの希望は、野球教室で使うバットだそうで、少年野球用の金属バットを買いに行きました。
バットを買うのは初体験ですが、店員さんは丁寧に説明してくれます。
軽いですが、少年用でも高いのは2万円以上するのでびっくりです。
伝説のバットメーカー、掛布も使っていた「虎印バット」です、に心動かされ、2〜3千円ぐらいと思っていた予算はオーバー(もちろん定価2万もしませんし、1万円以上もしない品です)で買いました。
しかしお金を払った家内は、値札よりもずっと安くなっていたと、更に2〜3千円に近くなっていましたので、孫の買い物で得した気分です。
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 「虎印バット」はグリップエンドの形がよく、握りやすいです。
店員さんが、握り方も丁寧に教えてくれました。
孫がいると、色々新しい知識も入ってきて楽しいですが、これで私を殴ったりしないように育ってくれよと願っています。

    返事
花水木さん:草壁皇子のことも知っておられたとは、
    花水木さんをみくびっていましたよ。
     孫たちをみていると、
    女親と男親は微妙に違うことをあらためて知ることもあります。
タグ: 虎印バット

2018/11/13

41−1持統天皇  天皇陵巡り
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 鸕野讃良皇女(ウノノサララノヒメミコ)は、父38−1天智天皇で母は遠智媛(オチノイラツメ)ですので、前回の40−2大田皇女の同母妹になります。
 姉の大田皇女と一緒に、叔父にあたる大海人皇子の妃に13歳でなり、草壁皇子(クサカベノミコ)を産んでいます。
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 姉の大田皇女は早くに亡くなっているので、壬申の乱後に夫の大海人皇子が第40代天武天皇になった時に皇后になり、夫の皇親政治を助けると共に、自分の病弱な息子草壁皇子をなんとか次期天皇にしようと努力しました。
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 夫天武天皇の崩御(686年)後は、皇后のまま称制を敷いて政治にあたり、姉大田皇女の優秀な息子大津皇子を、謀反の疑いで抹殺してまで、我が息子草壁皇子を天皇にしようと思っていましたが、689年息子草壁皇子が27歳で亡くなった為、皇后は即位して第41代持統天皇(ジトウ)(645〜702)(在位690〜697)になりました。
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 もちろんこれは、最愛の息子草壁皇子の忘れ形見、すなわち我が直系の孫である軽皇子(カルノミコ)を次の天皇にするための繋ぎ役をしようとしたのであって、少々目の上のたんこぶであった夫天武天皇の息子高市皇子(タケチノミコ)が薨去した後は、速やかに若き孫軽皇子を15才で第42代文武天皇として即位させました。
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 持統天皇は藤原京(奈良県橿原市と明日香村)を造営し、この大和三山(耳成山・畝傍山・天香久山)に囲まれた都は、平城京や平安京よりも大きく、一代の天皇の宮ではなく、三代の天皇に続けて使用されました。
 小倉百人一首の2番目は、持統天皇の
      春すぎて  夏きにけらし  白妙の
               衣ほすてふ  天の香久山
藤原京にいる時に詠んだのですかね。
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 持統天皇陵はこの檜隈大内陵(ヒノクマノオオウチノミササギ)(奈良県明日香村)で、夫である先代の第40代天武天皇と共に葬られています。
持統天皇は天皇としては初めて火葬された人で、銀の骨壺に遺骨は納められていたそうです。
 1235年盗掘にあって、この骨壺がさらわれてしまった事は、藤原定家の「明月記」にちゃんと書かれていますが、それでもこの陵は真陵ではないという説も有力です。
 この持統天皇記で日本書紀は終わっています。
高校日本史で学んだように、次の日本の歴史書は「続日本紀(ショクニホンキ)」になります。

     返事
花水木さん:忙しい時には、読んでもらっているだけで充分ですよ!
     私はどっちかと言うとシンプルに生きてる気はします。
タグ: 天皇陵

2018/11/10

40−2天武天皇皇妃大田皇女  天皇陵巡り
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 37−1斉明天皇と36−2孝徳天皇皇后間人皇女の越智崗上陵と38−3天智天皇皇子建王墓に登っていく200段ほどの写真右の石段、その途中に天武天皇皇妃大田皇女墓(オオタノヒメミコノハカ)はあります。
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 40−2大田皇女(オオタノヒメミコ)(〜667年20代で没だろう)、父は38−1天智天皇で、母は遠智媛(オチノイラツメ)です。
同母妹の鸕野讃良皇女と共に、大海人皇子の妃となり、大来(大伯)皇女(オオクノヒメミコ)と大津皇子(オオツオウジ)を産むが、大津皇子がまだ5歳の時にもう亡くなりました。
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 大海人皇子が40⁻1天武天皇になった時に妹の鸕野讃良皇女が皇后になったのですから、亡くなってなかったら当然姉の大田皇女が皇后になったと思います。
そうなれば、息子の大津皇子は立派な皇子だったので、謀反の疑いで殺されることもなく、すんなりと天武天皇の次期天皇になって、歴史はまた少し変わったかもしれません
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 同母弟の建王(禁断の恋が正しければ異母弟かもしれませんが)が658年に夭折し、父方祖母の37−1斉明天皇が661年に亡くなり、叔母(父の妹)の36−2間人皇女(禁断の恋なら建王の母に成る)が665年亡くなり、667年にやっと斉明天皇の葬儀が行われ、上記3人が同じ陵に合葬された時、同じく667年に没した大田皇女もこの陵の下近く越智崗上墓(オチノオカノエノハカ)に葬られたようです。
 
タグ: 天皇陵

2018/11/7

談山神社  
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 紅葉で有名な、奈良県にある談山神社に初めて行ってきました。
藤原鎌足が祭神の、山の上の方にある神社です。
 1ヶ月ぐらい前の天皇陵巡り番外編で紹介した、鎌足の正妻鏡女王関連の恋神社もありました。
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 拝殿からの眺め。
何度憶えても読むときに詰まってしまう、多武峰(トウノミネ)にある談山神社(タンザンジンジャ)です。
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 長男ですが11歳で遣唐使として唐に渡った定慧和尚(ジョウエオショウ)、歴史的にはこちらの方が有名な次男の不比等(フヒト)、この鎌足の二人の息子が、以前にも紹介した大阪府高槻市にある鎌足の墓から遺骨を一部ここに移し、写真の十三重塔と共に建立した談山神社です。
 でもこの二人の息子、共に鎌足の実際の子ではないという説もありますが、まあこんな立派な神社を山の中に建てるのだから、やっぱり実の子?
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 ここは大化の改新(乙巳の変)発祥の地と言われていて、飛鳥の蹴鞠会で出あった、中大兄皇子と中臣鎌足が、この山中で蘇我入鹿を討つ作戦を談合した、すなわち談い山(カタライヤマ)から、この談山神社と言う名がついたようです。
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 678年創建されたこの十三重塔、今のは1532年の再建ですが、木造十三重塔としては世界唯一のもので、高さ17ⅿあります。
 談山神社と言えば、この十三重塔を入れた紅葉写真を誰もが一度は見たことがあるぐらい有名ですが、今日は紅葉までもう少しですかね。
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 11月3日は知らなかったですが丁度けまり祭、うまく蹴鞠会(ケマリエ)に遭遇で来ました。
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 もっともっと混んでいて、駐車にも困るし、人混みを分けて紅葉見物と思っていましたが、奈良の山奥、京都のような混み具合でなくて良かったです。
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 神社の真向かいにある、いかにも観光施設の門前ホテルのような多武峰観光ホテルで、こんな昼定食を食べたのもご愛敬です。
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 ホテル5階の食堂の窓からのこの写真、神社に入山料を払って入らなくても良いのではと思ったぐらいです。
 今日も一番の目的は、早朝出発で家内に付いて来てもらった、奈良県五条市にある御陵二つ巡りです。

    返事
商家の嫁さん:道の駅のもう少し小浜寄りですね。
    でも、そこに買い物は行かないと思いますよ。
花水木さん:今年は高足蟹パーテイはないのですか?

2018/11/4

カニがふぐに  
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 11月になりました。
今年の紅葉は、台風の影響でも一つとも聞いています。
 帰りに寄った、名田庄村の茅葺き民家周囲の紅葉はもう少し。
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 11月になったので、蟹が解禁と思って小浜に行ってきました。
カニの解禁は来週らしく、かわりに河豚定食を食べて我慢します。
 小浜の市場で買って帰った、イカはバター炒めでまずまず、鯵はフライでたくさん食べて、
赤エビなどはPC不具合を診てもらった次男の孫の胃の中に、かんぱちは五島よりも味が薄い気もしますが、それが上品な味と言えばそうなので、美味しくいただきました。
若狭カレイの一夜干しは、もうじき食卓に上がると思います。
 魚は頑張って買いに行くと美味しい!!
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 小浜のケーキ屋さん、一度行って美味しかったので、今回もここで休憩。
ほうじ茶のショートケーキ、甘さ抑えて美味しい! もう一個ぐらいはいけそうな軽い味です。


       返事
花水木さん:癌や老衰を、本人が受け入れるのは難しい時がありますが、
    家族が受け入れてくれるとやりやすいです。
    まあこれは医者の我が儘かもしれませんが。

2018/11/2

日日是好日  趣味
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 久しぶりの映画鑑賞。
「日々是好日」(ひびこれこうじつ)と読んでいましたが、(にちにちこれこうじつ)が正しいのか。
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 樹木希林さんが亡くなったこともあってか、平日朝一番にしては、我々の様な人がそれなりに入っていました。
黒木華さんも最近よく見かけますが、名前は(ハナ)ではなく(はる)と読むんですね。
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 なにも知らないお茶の勉強にもなりましたが、話はなんと言うこともなく終わりました。
なにも起こらないこういうことが茶道の神髄ですよ、と教えてる映画なのか?

    返事
花水木さん:ゴマ豆腐の写真は、
    上からでも下からでも7枚目です。
     和菓子の方が綺麗で安いと思いますが、
    私はどっちも好きです。
和さん:南禅寺の八千代の方が、
    老舗で値段も高く、予約も取りにくいのでは?

2018/10/29

日本料理藤井  
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 次男の同級生で、私たちとも一家そろってスキーやキャンプや旅行にも行っていた子供、と言ってももう40歳ですが、今年の2月に日本料理「藤井」を、京都銀閣寺の少し南に開業しました。
 いわゆるオーナーシェフです。
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 この半年で何度も足を運びましたが、「藤井」は最初にいつも今日の一番出汁を出すのですが、それを撮るのは忘れました。
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 よく雑誌にも掲載されましたが、この9月開店半年ぐらいでなんとミシュラン一つ星を貰いました。
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 この子の両親や親戚も知っていますが、料理人の血はどこにもないようですし、料理を始めたのも早くはなかったですが、料理のセンスはあるようで、よく考えていて美味しいです!
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 ゴマ豆腐の天婦羅はここの名物料理だと思います。
隣に座った友人の冷酒を少しいただきましたが、最近の日本酒はフルーティーで飲みやすく美味しいですね。
でも、即後頭部が痛くなりました。
私はビールと焼酎でいいです。
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 友人達と昔話などで盛り上がりながら完食ですが、肝心の新メニューで家で食べるのとはちょっと違った、ぶり大根を写すのを完全に忘れていました。
今日は全部写真に撮るよと宣言していたのに、日本酒の影響もあるのかもしれません。
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 ミシュラン一つ星の日本料理「藤井」です。
機会があればぜひお越しください!
 このブログ名を言って、見たと言ったら、特典があるか高くなるかは不明です。
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 最後のフルーツも、日本酒のために忘れて、皿だけになりました。
 ちょっと贅沢したい時には、「藤井」をどうかよろしくお願いします!

     返事
大雪男さん:広島負けた方が、
    丸がFA行かなくて良いかもですが、
    広島に戻るの確定で、勝ってしまいますね!
     織田信長も最初の桶狭間では先頭でしたし、
    頼朝・秀吉・家康も最初は最前線ですよ。
    壬申の乱の天武は勝つか死ぬか、
    前線で自分が戦って勝利する必要があったのでは。
花水木さん:安定政権の大将は指図だけで、
    変な危険は犯さないと思いますが、
    乾坤一擲の大勝負は先頭で戦ってほしいですし、
    そうでないと勝った後も、家来も付いてこないのでは。

2018/10/26

40-1天武天皇  天皇陵巡り
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 飛鳥の岡の上にある天武・持統天皇陵、この夫婦の天皇陵はよく目立ちます。
40-1天武天皇は武力によって政権を奪い、皇族中心の皇親政治を行い、律令政治の基礎を築いた、強い天皇のイメージですし、そもそも今まで私が書いてきた文章の根拠となってる「日本書紀」の編纂を命じた人ですが、分からない点がたくさん有ります。
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 父は34−1舒明天皇で、母は35−1宝皇女(後の皇極・斉明天皇)なので、38−1天智天皇の同母弟になる大海人皇子(オオアマノオウジ)は高貴な出のはずなんですが、生まれ年は不明です。(まあこれは日本書紀では普通らしいですが)
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 成人するまでははっきりしたことが分からないため、大海人皇子は新羅の皇族だったという説や、母の宝皇女が舒明天皇の皇后になる前に結婚していた前夫高向王(タカムコノオウキミ)(31−1用明天皇の孫です)との間の子漢皇子(アヤノミコ)である、すなわち天武は天智の異父兄であるという説もあります。
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 いずれにしても、(兄)天智天皇の娘、すなわち姪にあたる皇女4人を娶っています。
大海人皇子は、大田皇女との間に大来皇女(オオク)と大津皇子、鸕野讃良皇女との間には草壁皇子、新田部皇女(ニイタベ)との間には舎人親王、大江皇女との間には長皇子(ナガ)と弓削皇子(ユゲ)をもうけています。
他にも天智天皇の娘さん以外も娶り、十市皇女(トオチ)・高市皇子・忍壁皇子(オサカベ)・磯城皇子(シキ)など、多数の子供がいました。
これらの中から、また天智天皇の息子や娘と結婚した人がいたので、天智・天武間の血の濃さはかなりのものです。
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 大海人皇子は、兄天智天皇から皇位を譲ってもらえるチャンスもあったのですが、協力することを嫌って吉野に出家隠遁しました。
 そして近江朝廷にすぐに反旗を翻し、武力で持って1ヶ月ほどで近江朝を倒しました。
しかしこの有名な壬申の乱(672年)で、天武天皇は全く戦闘場面に出てくることはなく、後方で座っていただけですのに、そんな大将を実際に戦った豪族が天皇として担ぐ不思議さが、私にはちょっと納得しにくいです。
 私が納得しようがしまいが、奈良の岡本宮→飛鳥浄御原宮(アスカキヨミハラノミヤ)で即位し第40代天武天皇(テンム)(〜686)(在位673〜686)となりました。
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 ここから9代にわたり、いわゆる天武天皇の血が続き、藤原京→平城京と律令政治が始まり、東大寺大仏などの天平文化が花開くことになります。

    返事
花水木さん:60過ぎたら思い込みで、
    自然に文字を間違って読んでしまうのですかね。
    若い時は意図的でしたね、
    全国共通オコメ券をオ○▽券と読むと教えられ、
    全国共通のこの券ほしいと思ってました。
大雪男さん:春は広島と西武が圧倒的に強かったですが、
    秋はやっぱりソフトバンク。
    でもそれになんとか抵抗できるセのチームは広島だけ。
    面白いシリーズになりそうですね。
タグ: 天皇陵

2018/10/20

アホのうた  
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 奈良市の北の方で天皇陵巡りをした後、近くのスーパの中にあるミスタードーナツでコーヒーを飲んでいる時です。
変な看板が目に付きました。
   ドラッグストア「アホのうた」??
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 おかしな名前の店があるなあと、心で思っておいただけなら良かったのですが、向かいに座ってる家内に、「大阪の店か?『アホのうた』なんて、ふざけた名前のドラッグストアがあるか?」と聞いてしまいました。
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 「どこにアが二つ付いてるの、『木のうた』やん。」と、思い切り笑われてしまいました。
 ドラッグストアの「ア」を2回読んで、漢字の「木」を「ホ」と読み間違えて、「ドラッグストア・木のうた」を「ドラッグストア・アホのうた」と読んでしまったのです。
「木のうた」の店の皆さま、「ごめんなさい!」

     返事
花水木さん:天皇陵巡りの写真には、
    これでも苦労してるのですが、
    同じような写真になってしまいます。
     なるべくこんな話のブログにしたいのですが・・・。

2018/10/17

39⁻1弘文天皇  天皇陵巡り
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 38-1天智天皇はたくさんの妻を持っていましたが、あまり皇子には恵まれず、身分の高くない伊賀采女宅子娘(イガノウネメヤカコノイラツメ)との間に産まれた、大友皇子(オオトモノオウジ)(伊賀皇子とも)に後を譲りました。
 大友皇子が即位して天皇になったかどうか、もちろん敵方の正史である「日本書紀」には大友皇子の巻もなく、即位もさしていません。
即位はしてないが天皇代理として統治した称制説、即位したのは天智天皇皇后38-2倭姫王だった説など有ります。
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 明治政府は即位説をとって、明治3年(1870年)に39‐1弘文天皇(コウブン)(648〜672)(在位672年1月〜8月)と諡号しました。
24歳で近江宮(滋賀県大津市)で即位し、わずか半年後に自害に追い込まれたことになります。
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 妃は叔父40⁻1天武天皇の娘十市皇女(トオチノヒメミコ)で、葛野王(カドノオウ)を産んでいます。
 日本史で学ぶ有名な壬申の乱(672年)がなぜ起こったのか、先代天智天皇の敵をせん滅するような数々の強引な改革に対する不満、後継ぎ弘文天皇は身分の低い側室の子ではないか、白村江の大敗戦や対唐政策などで近江宮に遷都したことへの不満、額田王をめぐる天智・天武の恋のさや当て説まで、色々あるようです。
仮にも出家した男天武が、兄の子でありわが娘も嫁ぎ孫も出来てる甥を、滅ぼそうと思い、それに同調した豪族が沢山いたことがもひとつ理解できません。
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 乱の総指揮官、大将である天武天皇は、全く戦闘には参加することなく、わずか1ヶ月で近江朝廷軍は大敗、弘文天皇は一人山中で首を吊って自害したと、日本書紀は記しています。
一応この長等山前陵(ナガラノヤマサキノミササギ)(滋賀県大津市)が大津市役所(左の建物)の裏、近江宮跡に近い所に、明治政府によって定められていますが、園城寺亀山古墳を明治政府が陵にしようと思っただけの場所だと思います。
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 壬申の乱後、弘文天皇の忘れ形見葛野王は、父を殺した母方の祖父40⁻1天武天皇や父方の叔母である41−1持統天皇にも、殺されることなく仕えられたのも不思議です。
皮肉にも持統天皇には、皇位継承は直系に限ると、42−2文武天皇にするように進言までして、称賛されています。(これでいったら弘文の次の天皇は自分に成るのですがね)
また、弘文天皇の曽孫は淡海三船(オウミノミフネ)という、ちょっと偉い文人で、天皇の和風諡号を作った人です。
タグ: 天皇陵


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