2021/2/23
82-1後鳥羽天皇 天皇陵巡り

今日は令和の天皇誕生日、まだピンと来ない祝日ですが、
天皇陵巡りを書くには絶好の日ですね。
尊成親王(タカヒラシンノウ)は第80代高倉天皇(1161〜1181)の第4皇子で、母は修理大夫坊門信隆(ボウモンノブタカ)娘の殖子(ショクシ)(1157〜1181)ですので、後白河天皇の孫・安徳天皇の異母弟になります。

1183年都落ちに伴い、高倉天皇第1皇子安徳天皇(1178〜1185)や第2皇子守貞親王(モリサダ)を連れて、平氏一門は三種の神器と共に西国へ逃げました。
第3皇子惟明親王(コレアキラ)や以仁王の遺児北陸宮(ホクロクノミヤ)とは争いましたが、結局(後白河の前でむずかしがった6歳の惟明より、ニコニコしてた4歳の尊成の方が気に入られた)、わずか4歳の尊成親王が三種の神器も無く即位し、第82代後鳥羽天皇(ゴトバ)(1180〜1239)(在位1183〜1198)となりました。
写真は秋の大原三千院前です

したがって、第81代安徳天皇が壇ノ浦の露と消えるまでの1年半ぐらいは、同時に二人の天皇(両人ともに幼稚園児ぐらいですが)が並び立ったことになります。
三千院には入らず、その少し奥の勝林院の手前に御陵は有りました

1190年11歳で元服した後鳥羽天皇は、10人以上の女に20人以上の子を産ませていますが、皇后九条任子(タエコ・ニンシ)には内親王しか産まれませんでした。
しかし2人の皇妃から、第1皇子の第83代土御門天皇や第3皇子の第84代順徳天皇が産まれています。

治天の君であった祖父後白河法皇も亡くなり、19歳の後鳥羽天皇は4歳の第1皇子土御門に譲位して院政を敷き、多芸多才ぶりを発揮して「新古今和歌集」も編纂しましたし、鎌倉幕府とも渡り合っていきましたが、自身の三種の神器無き即位に対する屈辱感と自己嫌悪からか専制的になり、とうとう承久の乱(1221年、はからずも今年は丁度乱後800年にあたります)を起こし、北条家鎌倉幕府と対峙しました。
陵の前一段低い所にある法華堂の屋根が見えます

しかし、結束した鎌倉武士団にわずか1ヶ月にして敗れて、後鳥羽上皇は隠岐の島に、土御門上皇は土佐に順徳上皇は佐渡島に配流されました。
御陵横の法華堂、陵の鳥居が少し見えます。第10皇子の尊快法親王が遺骨をここに安置したそうです

18年に及ぶ隠岐での寂しい生活のまま、後鳥羽上皇は60歳で亡くなり、隠岐の島で火葬されましたが、残念ながら私は今回火葬塚は行けてません。
この大原陵(オオハラノミササギ)(左京区大原勝林院町)には、息子で佐渡で亡くなった順徳上皇と共に眠っていますが、陵の形はそれぞれ違って、写真右に写ってる十三重塔が後鳥羽の陵です。

小倉百人一首は、天智・持統の親子天皇から始まり、後鳥羽・順徳の親子天皇で終わっていますが、編者藤原定家は後鳥羽上皇を慕っていたようです。
返事
花水木さん:白蜜と黒蜜が有るので、
三密の3番目は何蜜ですかね??
2021/2/26 15:45
投稿者:花水木
2021/2/25 23:18
投稿者:Toy
20人!んまあ、10人!韓ドラだと、正室に変なお茶を飲ませたり、呪術かけたりして子供ができなかったりするんですが…。だいたいトップ(王位)に立つと、疑心暗鬼になっておかしな方向に行くんですよね。…知らんけど。
個人的には蜂蜜ですね。
まあ、毎回思うのは、古の世界は節操がないと言うか・・・今時の不倫の比ではありませんね。
現世はSNSなどで、直ぐ炎上しちゃうネタばかり。
でもある意味、本能の赴くままで人間らしいのかも。
今を生きる私達は、人の目を気にしすぎてますね。
そんな事柄も断捨離したいです。