奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2009/9/25

奈留島121ヶ所ゴミ箱霊場観光巡り 83  奈留島121ヶ所ゴミ箱霊場観光巡り
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 永這からは山の道をクネクネと南下します。
東風泊が見え始める手前に、バスの待合所とそこから左に入る道が見えてきました。
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 この坂道を海岸の方へと下がっていくと、切り通しの様に、周囲の木々でトンネル状態になった、額縁の向こうに、桃源郷ならぬ椿源郷と言うか、椿原の部落が広がっていました。
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 今降りてきた一本の道だけで外の世界に繫がっている椿原地区も、多い時は200人近く住んでいましたが、今は20戸30人位。
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 小さな港になった海岸のそばに、
  第83番霊場椿原海岸降り口付近のゴミ箱は風雪に耐えて鎮座していました。
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 壇ノ浦で敗れた平家の残党 平修盛公 が1186年7月、この椿原海岸に漂着。
海岸に一人住んでいた村娘 小泰 と夫婦になり、磯で鮑・さざえ・伊勢海老を採り、沖で鯛・鯵・かますを釣ってかろうじて?飢えをしのぎ、上陸時鎧の袖からこぼれ落ちた椿の実が育った後は、その油を生活の糧にしたと言う、椿原地区の伝説が今・・・、作りました。

   返事
花水木さん:時を数えて咲く、彼岸花。
   ばあちゃんも、TVの知識とはいえ、やりますね!
やまももさん:私は、結局綺麗に咲かないまま茶色く枯れていってます。

2009/9/27  17:06

投稿者:喜珍
昭和30年代から40年代初旬にかけて、「煮干(いりこ)」が奈留島の重要な収入源でした。
煮干の製造・・・ということなのだろうと僕は思っているのですが、「せいぞ」と呼んでいました。
昭和30年代末頃が、奈留島の最盛期で、住民基本台帳上は1万人に届かなかったものの、実質は1万人を超えていただろうと言われています。
要は、近隣の島から「せいぞ」の人夫として出稼ぎに来ていた人達がたくさん居たということです。

今は逆で、住民基本台帳上は、どうにかかろうじて3千人を越えているものの、学生や出稼ぎの人を除けば、実際には、3千人いないのだろうと思います。

なぜ、こんな話を書き込んだかと言うと・・・
以前は、「せいぞ」でいわしを煮るための燃料として、また、自家用の燃料として薪が使われていたので、山の手入れも行き届いていましたが、最近は、だれも薪にするために山の木を切ったりしないので、成長が早い雑木に覆われてしまって分かりにくいのですが、椿原は「椿原」の名が示すように、道路脇の雑木の中を良く見ると、椿の木が多いことに気がつくと思います。
恐らく、以前は、「椿原」の名に相応しい光景が広がっていたのだろうと思います。
・・・ということを説明しようと思ったのでした。

長崎に2泊していたので書き込みが遅くなりましたが、「彼岸花」は名前のとおり、お彼岸になると咲きます。
夏場の昼間の方が長い日照時間が、昼間が短い冬の季節に向けて、だんだん日照時間が短くなり、昼と夜の時間が同じになるのが開花のスウィッチになっているようです。

大抵の植物は、まず葉っぱが伸びて、光合成で栄養を蓄えてから花が咲くのが普通ですが、彼岸花はいきなり茎が伸びて花が咲き、花の季節が終わってから葉っぱが芽吹いてきて球根に栄養を蓄えます。
そのため「葉あり花なし、花なし葉あり」と言われます。

今年は、春先に、彼岸花の球根を掘ってある場所に埋めたのですが、全く芽を出してくれませんでした。
何が悪かったのかよくわかりませんが、来年、もう一度、挑戦しようと思っています。

2009/9/26  14:09

投稿者:花水木
椿原伝説、素晴らしいです。
先生、奈留島の森とかって小説書いて
印税生活もいいかも。

日中暑く、フークちゃんもややお疲れ気味ですか?
なんだか遠くをみているような・・・・

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