若き日に山本梅逸が影響を受け、その名の由来となった「王冕(おうべん)」の「墨梅図」に興味を抱き調べてみた。まず、梅逸が見た絵は、織田信秀から名古屋の万松寺に寄進した「墨梅図」であることがわかった。その後、明治13年(1880)に皇室に献上されて今日まで伝世している。
王冕(おうべん:1287-1359)は、中国の征服王朝である元の時代末期の文人画家である。浙江省諸曁(しょき)の生まれで、字を元章という。煮石山農、竹斎、飯牛翁、会稽外史、梅花屋主などと号した。貧農に生まれた王冕は、苦学精励して儒者となったが、科挙試験に失敗した後は、各地を游歴し、のちには山中に隠棲し、梅竹を友として売画等で生計を立てながら、処士(民間にあって、仕官しない人)として貧困に充ちた生活を送ったといわれる。
そういった生活の中で、王冕は、「墨梅」を得意とし、千花万蕊≠ニ評される壮麗な様式を作り上げ、明代「墨梅」の先駆となった。王冕描く墨梅は、梅樹の枝の構成が、複雑かつ巧妙でありそこから伸びる小枝も細かく生い茂った。それは、伝統的な宋代の簡素さを讃えた疎枝浅蕊≠ニ呼ばれる墨梅と対比され高い評価を与えられ、後世に大きな影響を与えた。王冕の画は、非常に多作だったためか現存するものは多いが、日本に伝わったのは、『梅花図』と『墨梅図』の2図のみである。

絹本墨画 145.0x97.0 中国・元時代 14世紀 三の丸尚蔵館。
織田信秀が万松寺に寄進し、明治13年(1880)に皇室に献上された。

左 且看王冕墨梅。一枝梅花,横斜在画幅的中,枝干一拉数尺,出很有,枝的梢,露出了的尖,更突出了它的清高拔俗,十数梅花,含苞欲放地洋溢着蓬勃的生气,令人感到醒目清新。
右 《南枝春早》 (台北故宮博物院藏)

王冕像 《墨梅》(大阪正木美術館蔵)

山本梅逸「墨梅図屏風」島根県立美術館蔵
1819(文政2)年 紙本銀地墨画 六曲一双 各163.3×344.0cm
解説
山本梅逸が王冕の画風に影響を受けながら、文政2年(1819)梅逸36歳の修養期に描いた大作「墨梅図屏風」である。敷きつめられた銀箔の渋く冴えた輝きは、月光に照らされた夜の空間を想起させ、左右に対照させた清香漂う紅白梅の姿を象徴的に浮かび上がらせる。筆力雄渾で巧妙な溌墨の濃淡を生命とする梅逸の運筆が冴えわたっている。激しく屈曲する枝葉の形態には、従来の墨梅図にはない破天荒な激しさがうかがわれ、のちに数多く制作した華やかで優美な花鳥画との作風の違いが注目される。