「血の池公園」から200m程西に向かい右折した住宅地の一角に「長久手城址」がある。
30年以上前、長久手高校で教えていた時に訪れた事がある。その当時は周囲に緑が生い茂っていたが、現在は区画整理で全く景観が変わってしまった。所在地名は、長久手町大字長湫字城屋敷であり、「城屋敷」という字の名に、わずかに「長久手城」の名残を残している。
「長久手城址」は、永享年間(1429〜1441)頃は、左近太郎家忠・左衛門次郎国守の居城となり、享禄年間(1528〜1532)頃からは斉藤平左衛門尉・同民部丞らの居城となった。
弘治年間(1555〜1558)頃に瀬戸の馬ヶ城を落ちてきた加藤太郎右衛門忠景が城を修築して移り住んだ。その後、1584年の長久手の合戦の際に加藤忠景は、岩崎城(日進市)で丹羽氏次の弟氏重(忠景の義弟)に加勢したが、秀吉方の池田恒興軍の攻撃で討ち死にした。丹羽氏次は、岩崎城に籠城して池田軍と戦い討ち死にしている。長久手城は、この長久手の合戦の際に焼失した。
長久手の戦い後、城址の一角に観音堂が建てられ、戦死者の冥福が祈られてきた。また、区画整理後には、地蔵尊が建立され厚く祀られている。

「長久手城址」石碑。

城主「加藤太郎右衛門忠景宅址」の石柱。

「長久手城址」の案内表示。

長久手観音堂。

長久手観音堂の由緒。

新たに建てられた地蔵尊。