小碓神明社から北へ向かってしばらく歩く。中川区の中島新町4丁目に入り1筋東側の南北の道沿いを行くと「空雲寺」という寺がある。この寺の由緒は、鬼頭勘兵衛景義という人物にある。
鬼頭勘兵衛景義は、熱田新田開拓後の新田開発において最も活躍した人物である。景義は、寛永8年(1631)から明暦3年(1657)までの27年間に、尾張の海東・海西・愛知・知多・春日井の5郡と美濃の安八郡にわたり、27ヶ所およそ3,800町歩、2万2,000石の新田を開発している。開発事業に投じられた費用は膨大であり、そのため祖先の遺産をすべて費やし、なお巨額の負債を抱えたといわれる。
当時の干拓工事の最難関は、堤防締め切り工事であり、完成目前で流壊する例も多く見られた。鬼頭景義は、現在の南陽町の東福田新田・西福田新田を開いた際に、観音様のお告げにより、困難を極めていた堤防の締め切り工事が成功したことを感謝し、現在の番割観音である一番から三十三番までの観音堂を建てたという。
こうした功績が高く評価され、藩主から苗字帯刀を許される。灌漑用の木津用水や萱津用水も、景義が資材を投じて掘削したものである。さらに景義は、福田新田(港区南陽町)を開拓後、この地に住居を移した。その遺跡が南陽町にあり、後日レポートする。
また景義は、寛文元年(1661)には、春日井郡大溜村の善源寺という廃寺を譲り受け、自らも出家して「空雲寺」を開基した。「空雲寺」には、大通快道大和尚(現在の熱田区「白鳥山法持寺」の9世住持であった)を初代住持に迎えている。
境内のクロマツは、樹高20.5m、幹まわり3.19mあり、市内最大のものである。幹が途中で2本に分かれ帆の形に似ていることや、地上2mの所から横枝が16mにも及び、船の舳先に見立てられるところから「船形造り」のクロマツと呼ばれている。

空雲寺門前。

「従五位 鬼頭景義 墓地」の碑。

空雲寺案内表示。

空雲寺山門。

空雲寺本堂。

鬼頭景義の墓所。

中央が鬼頭景義の墓。

名古屋市最大のクロマツ。

本堂の西側からクロマツを眺める。

御手洗は、天保15年(1844)の銘が入っている。

門前に、寛保元年(1741)の石碑が建てられている。

山門の横に地蔵堂が建てられている。