名古屋の古名は那古野である。「ナゴヤ」と発音したのか、「ナゴノ」と発音したのかよくわからないのであるが、名古屋駅の東には「那古野(ナゴノ)」という町名が残っているし、名古屋城の南、本町橋の西南には「那古野(ナゴヤ)神社」がある(もともとは三の丸にあった)。どちらが先でしょう?
ところで名古屋城内には、二の丸広場の前に「那古野城址」の碑が残されている。表面は随分と磨耗していて「那古・・」までしか判読できないが、これは太平洋戦争時の空襲で削れてしまったもののようである。
そもそもの「那古野城」は、大永年間(1521〜1528)に、今川氏親(義元の父)が築いたものである。今川氏親は一族の氏豊を守将として入れていたが、天文元年(1532)、当時勝幡(しょばた)城にいた織田信秀が、奇策により奪取したといわれる。今川氏豊は、連歌に傾倒しており、信秀は氏豊と親交を結び連歌仲間となる。最初の頃は足繁く那古野城に通い、氏豊との連歌に興じたという。やがて夜になると自城に帰らなければならない信秀を慮り、氏豊は那古野城内に信秀のための館を建てた。信秀はこれ幸いとばかりにこの館に改造を施し、そこを足がかりにして那古野城を乗っ取ったというものだ。
その後、信秀はこの那古野城に移り、天文3年(1534)には、信長がこの城で生まれる(勝幡城で生まれたという説もある)。通説によれば、信秀は、信長の生まれた翌年すなわち天文4年(1535)、2歳になったばかりの信長を那古野城に置いて、みずからは居城を古渡城に移している。宿老の林新五郎・平手政秀・青山与三右衛門・内藤勝介らが付けられたが、形の上での城主はわずか2歳の信長であった。なお信長時代の那古野城は、近世名古屋城の二の丸に位置していたといわれるが、最近の三の丸の発掘調査では、中世の遺構も出てきており、三の丸にもおよんでいた可能性がある。
弘治元年(1555)、信長が清洲城の織田氏を滅ぼし本城を移すと、守山城から一族の信光(信秀の弟)が入城し守ったが、信光の死後林佐渡守らが守将となり、やがて廃城となった。
古渡城は、天文16年(1547)、信秀が大垣に出陣していた留守中に、清洲織田家の坂井大膳らにより焼き払われている。信秀は、翌17年(1548)、これを機に今川義元に備えるため末森城(名古屋市千種区)を築き、城を移したので僅か 14年間で廃城になった。古渡の地は、鎌倉街道が通り、熱田の港にも近いというように交通の要衝であるとともに、経済の中心となり得る場所であった。、東西140m、南北100mの平城で、周囲に二重の堀を巡らしていたと伝えられている。尾張名所図会「東本願寺掛所」によると、東本願寺別院周辺に「古渡古城天守臺址」との記述が見られる。平成3年からは本格的な発掘調査が始まり、堀の遺構とみられる溝などが発見されている。

名古屋城二の丸広場前の「那古野城跡」の石碑。

東別院境内にある「古渡城跡」の石碑。