明治・大正期に活躍した作家に“渡辺霞亭(かてい)”がいる。碧瑠璃園(へきるりえん)などの筆名を持つ霞亭は、本名勝(まさる)。元治元年(1864)、名古屋の主税町に生まれた。父源吾は、先に記した青松葉事件で粛清された渡辺新左衛門の弟である。(霞亭は、実は新左衛門の子という説も有力である。)当初、医者を目指し名古屋好生館に学んだが、江戸戯作文学に傾倒し、自らも作品を書き、名古屋の地方新聞に寄稿するようになる。
明治20年(1887)、志を立て上京し、「東京朝日新聞」に勤め、明治23年(1890)年から「大阪朝日新聞」に転じた。『白真弓』を皮切りに、明治38年(1905)までに36篇の小説を連載した。明治40年(1907)以後は、“緑園生”“碧瑠璃園”の筆名で時代小説を書き始め、22篇の時代物を上梓している。大正2年(1913)から翌年まで連載された現代物『渦巻』は人気を博し、「渦巻型」という女性の化粧用品の流行となり、“渡辺霞亭”の名が一世に鳴り響いた。
大正時代に入り、無声映画が製作されるようになると『渦巻』や『春の海』『実録忠臣蔵』『山之内一豊の妻』『大楠公』など多くの霞亭の作品が、日本映画の父といわれるマキノ省三らによって映画化された。
霞亭は、生来、江戸文学書が好きで、浄瑠璃、西鶴本、洒落本、小咄本などの蒐集は群を抜いている。大正15年(1926)、霞亭が亡くなるとその蔵書は、東京大学が即刻購入した。関東大震災被災後の図書充実の目玉となった。現在、東京大学総合図書館に「霞亭文庫」として保存され、江戸時代の小説類と演劇書1,159点、2,032冊のコレクションとなっている。また、一般読者用に『マイクロフィルム版霞亭文庫』として販売もされている。
さて、青松葉事件の故に霞亭は、名古屋を敬遠して大阪で暮らしたといわれるが、明治35年(1902)『文芸倶楽部』に「名古屋武士」という一文を記し、青松葉事件の顛末を公表した。ついで明治38年(1905)には「大阪朝日新聞」紙上に『青松葉』と題する小説を連載し、事件の真相に迫っている。
大正15年(1926)、大阪で没した霞亭であるが、名古屋平和公園の守綱寺墓地内の、渡辺家「累代之墓」に葬られている。「大正十五年四月七日 渡邊勝 享年六十三歳」と刻されている。

渡辺霞亭

平和公園にある渡辺霞亭の墓

東京大学総合図書館「霞亭文庫」の蔵書

オークションに出されている霞亭の俳句の短冊
「秋潮や露私亜へつゝく浪の音」 霞亭