露座の大仏に別れを告げ、再び長谷駅に向かう。若者向けのアクセサリーショップなどはできているがこの通りは昔のままだ。再び江ノ電に乗り、鎌倉まで行く。間違えて西口に出てしまい、大回りして線路を越えた。にぎやかな小町通商店街を抜けて、鶴岡八幡宮に向かう。
源平池を越えて境内に入ると朱塗りの舞殿の前に出る。
吉野で捕らえられた義経の愛妾静御前が、義経を慕う歌を唄い舞った場所だ。時は、文治2年(1186)4月8日のことである。
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
舞殿を過ぎると本宮に向かう大石段だ。その袂に樹齢千年の大銀杏が聳え立つ。
三代将軍源実朝が甥の公暁(二代将軍頼家の子、頼家は祖父北条時政により伊豆修善寺で暗殺される)に暗殺された場所だ。時は、建保7年(1219)1月27日。夜に右大臣拝賀の儀式が行われ、夜半に式が終わり、実朝がこの石段を下りて来た時、大銀杏の陰に隠れ襲撃の機を待っていた公暁によって殺害された。実朝は、28年の短い生涯をは閉じ、源氏の将軍は三代で滅んでしまった。
大石段を上り、八幡宮本宮に詣でる。現在の本宮は、文政11年(1828)、江戸幕府11代将軍徳川家斉の造営したものである。
鶴岡八幡宮は、前九年の役で奥州の安倍氏を平定した源頼義が、康平6年(1063)、京の岩清水八幡宮を鎌倉由比ガ浜に勧請し社殿を創建したのが始まりである。その後、治承4年(1180)、源頼朝が鎌倉入りすると由比ガ浜の八幡宮(元八幡)をこの地に移した。建久2年(1191)には武士の守護神の宗社に相応しく上下両宮の現在の姿に整えられた。
鶴岡八幡宮を後にして、若宮大路の「段葛(だんかずら)」の中を歩く。正月に向けて献納された提灯が段葛の両側に延々と並んでいる。(「段葛」とは、寺社の参道を一段高くしたものをいう。鶴岡八幡の「段葛」がもっとも有名である。)
若宮大路は、養和2年(1182)、京の朱雀大路に倣って築造が開始され、由比ガ浜の一の鳥居まで、1800mに渡って続いている。その年、北条政子が頼家を懐妊し、安産を祈って築かれたのが鶴岡八幡宮の「段葛」である。
鎌倉駅に戻り、大船で東海道線に乗り換え、茅ヶ崎に到着する。駅前の「里芋」という料理店で新鮮な刺身をいただく。田村正和と成城大学で同窓であったという常連客と一緒になり、田村正和のエピソードを聴きながら飲んだ。(ところが数日前にその人が急逝されたとの報せがあった。人の運命とはわからぬものである。)
その日の宿は、小津安二郎ゆかりの茅ヶ崎館だ。宿に到着すると大広間がにぎやかである。中学校のバレー部の女生徒が数十名食事をしている。荷物を置いてから再び、茅ヶ崎駅前まで出かけ、今度は、「淡島」というなじみのスナックでカラオケ三昧であった。居合わせた客と大いに盛り上がり、茅ヶ崎の夜を満喫して宿に戻った。

鶴岡八幡宮舞殿。

大銀杏と石段。

鶴岡八幡宮本宮。

本宮前から舞殿を見下ろす。

源平池に架かる石橋。

若宮大通の段葛。

JR鎌倉駅。