巡見道
江戸幕府は、将軍の代替わりに際して、全国の村々に「巡見使」という役人を派遣し、土地や民衆を直接観察し、領主の政治の善し悪しを監督した。巡見使は、三人一組で行動し、お供の家来を含めると百人近い一行となった。
巡見使が尾張旭の地を訪れたのは、宝暦11年(1761)、天明8年(1788)、天保9年(1838)の3回であった。幕府は、巡見使を迎えるのに特別なことはしなくてよいとの御触書を出しているが、実際には、藩から事細かな準備を命じられ、庄屋などの村役人には想定問答で受け答えの練習をさせたようである。さらに、新居村は、一行の宿泊地になっていたので、その饗応には神経を使ったことであろう。
巡見道は、稲葉から新居を通り、洞光院の西を北上し、下志段味村へ抜けた。なお、東大道、西大道という地名は、巡見道を大道と呼んだことから名づけられている。
「巡見役人新居村へ宿泊の記録」 加藤庄三『旭町誌稿 古文書』所収
之は 宝暦十一年二月の記録である
*宝暦十一年は1762年
右に関し印場村庄屋浅見清助の手控帳にも次の通り記されている
三好勝之助様 *東光寺に御泊
*洞光院の誤り
松平與次右エ門様 *大陽寺に御泊
*退養寺の誤り
北條鉄五郎様 利平家に御泊
右三人
二月廿九日暮六ツ時に新居村へ御座被成 *午後6時頃 日没時
三月朔日朝五ツ時に御立有所に付 *午前4時頃 夜明け前
印場へ当る *印場村への割当
一 道作り人足 馬通は洞光院門前より五百五十間作る
道作り人足六拾人 巾一間に砂まく人馬え拾人 当る
一 馬 四疋 一 夜着 拾五 一 ふとん 五
一 据風呂 五 一 下げ提灯 弐 一 屏風 壱双

昭和23年の航空写真で確認できる巡見道

巡見道を挟んで、東大道・西大道という地名ができた。
また、瀬戸街道を挟んで上大道・下街道という地名も残っている。