大明寺聖パウロ教会堂
【旧所在地】長崎県西彼杵郡伊王島
【建設年代】明治12年(1879)
幕末の安政5年(1858)日米修好通商条約に引き続き、蘭・露・英・仏の五カ国と通商条約を締結した。横浜、長崎、箱館(函館の用字は明治以後)、兵庫(1867年開港)と開港され、外国人居留地が造られ貿易が開始された。
同時に外国人のための聖堂建立も認められ、慶応元年(1865)には、長崎に大浦天主堂が建てられ、フランスからプチジャン神父も来日した。
ところが、この浦上天主堂に浦上地区の日本人の潜伏キリシタンが訪れ、プチジャン神父に信仰告白をし、続々と信者が表に出てきたのである。
この浦上の日本人キリシタンの動きに対して、奉行所は慶応3年(1867)信徒68人を捕らえ、牢に入れた。明治新政府も旧幕府の宗教政策を継承して「切支丹禁制」とした。そして、浦上のキリスト教信徒に対して、彼らの生まれ育った土地から根こそぎ引き離して各地に分散留置することにした。
第1次流配(1868年)では山口・津和野・福山の3藩へ114名、第2次の流配(1869年)では富山・金沢・大聖寺・名古屋・津など20藩あまりに3300名を流配した。これが「浦上崩れ」〈浦上信徒事件〉と呼ばれるものである。名古屋では東別院がその収容施設にあてられたという。
この信仰弾圧に対して外国公使団が、幕府さらに明治新政府に抗議して外交問題化した。明治4年(1871)米欧に向かった岩倉全権大使らは各国で信仰弾圧の非を説かれ、明治6年(1873)ようやくキリシタン禁制の高札を撤去した。信徒も釈放され事件は落着した。
さて、晴れて信仰の自由を認められた長崎・天草地区には、この後次々と教会が設立されていく。その一つが「大明寺聖パウロ教会堂」である。
この建物は明治12年(1879)頃、長崎湾の伊王島にフランス人宣教師ブレル神父の指導のもとに創建された。木造瓦葺、真壁造、腰板張で、地元農家風の外観とは対照的に、内部は「コウモリ天井」と呼ばれる交差リブヴォールトで覆われたゴシック様式を受け継いでおり、キリスト教禁制の時代から解放された初期教会堂の数少ない貴重な遺構である。また正面には昭和20年代の増築と思われる鐘楼が設けられている
明治村公式HP
http://www.meijimura.com/visit/s56.asp#a01

外見は、日本の民家の「大明寺聖パウロ教会堂」。

鐘楼は、昭和20年代の増築。

横から見た「大明寺聖パウロ教会堂」。

内部は荘厳なゴシック様式。こうもり天井。

支柱を細い円柱で取り巻いている。

祭壇。

「ルルドの洞窟」が祭壇の脇にしつらえられ、中央にマリア像が飾られている。