「那古野神社」の西隣に「名古屋東照宮」がある。「三の丸天王社」(那古野神社)とともに、江戸時代は三の丸の中に建てられていたが、明治維新後に陸軍の「鎮台」設置とともに、「明倫堂」の跡地の現在地に移転した。
「名古屋東照宮」は、初代藩主義直が、父家康の三回忌にあたる元和4年(1618)に大祭を行ない、翌元和5年(1619)に現在の名古屋城内に社殿を建立した。これが「名古屋東照宮」の起源である。
後の「東照宮祭」に出る山車は、元和5年(1619)に大八車に「西行」の人形を乗せて出したのが始まりで、次第に城下の各町がたくさんの出し物を出すようになった。その中心となったのが「からくり人形」を持つ山車であり、宝永4年(1707)までに9輌の山車がそろった。
橋弁慶車(七間町)、林和靖車(伝馬町)、雷電車(和泉町)、二福神車(長者町)、湯取神子車(桑名町)、唐子車(宮町)、小鍛冶車(京町)、石橋車(中市場町)、猩々車(本町)の9台である。
その後「東照宮祭」は、江戸時代を通じて大いに栄え、天保年間(1830〜1844)には豪奢な祭行列となった。「東照宮祭」は、名古屋最大の祭りとなり、戦前まで「名古屋祭」と言えばこの祭りを指していた。例祭日は、4月16日・17日である。
東照宮社殿や山車は、太平洋戦争中の空襲ですべて焼失した。現在の本殿は、かつて「万松寺」にあった義直の正室「高原院」の霊廟である。大正3年(1914)に建中寺に移されたものを昭和29年にさらに移築したものである。昭和35年(1960)に県の重要文化財に指定されている。
【慶安4年(1651)建立。本殿は木造、方三間、寄棟造、桟瓦葺。門は平唐門、桟瓦葺。塀は透塀、桟瓦葺。】
山車は、桑名町で天保以前に使われていた旧車が東区筒井町に譲られた「湯取車」がただ1台現存する。

江戸時代の名古屋城内の図。「天王社」・「東照宮」と「明倫堂」。

現在の東照宮の鳥居。西側に向いている。

現在の東照宮社殿。県の重要文化財。

本殿。義直の「正室高原院」の霊廟を移築したもの。

焼失前の東照宮本殿

「名古屋東照宮神事山車引出し之図」

宮町の「唐子車」。