川崎銀行本店
【旧所在地】東京都中央区日本橋
【建設年代】昭和2年(1927)
明治村の「川崎銀行本店」は、明治31年(1898)に建てられた本店の建物を建て替えた昭和初期の建築物である。ルネッサンス様式の本格的銀行建築で、構造は鉄筋コンクリート(一部鉄骨)造、外壁は御影石積で地上3階、地下1階建、間口約38メートル、高さ約20メートルの建築であった。
関東大震災以前の大正10年(1921)に起工され、6年間の工期を費やして昭和2年(1927)に竣工した。設計者の矢部又吉は、ドイツのベルリン工科大学に学び、帰国後多くの銀行建築を設計したが、この建物はその代表作といえる。
昭和61年(1986)新ビル建替のため解体。平成元年(1989)明治村に正面左側外壁部分の復元工事を開始し、平成2年(1990) 「川崎銀行本店」建物正面外壁部分の復元工事が完成した。
川崎銀行を中核とする日本八大財閥の一つ川崎財閥のルーツは、常陸国鹿島郡沼前村海老沼(現在の茨城県東茨城郡茨城町)の大庄屋で水戸藩30石の郷士であった河崎家である。回漕問屋として東北諸藩の御用達も勤め、幕末頃、川崎八右衛門が、水戸藩為替御用達として、藩財政の改革にあたり、藩札の発行、通貨の鋳造を手がけ、鋳銭事業を手がけた。
川崎八右衛門は、明治7年(1874)東京に進出し為替取扱業の「川崎組」を創設した。「川崎組」は、警視庁・茨城県・千葉県など官庁の為替業務を取り扱った。翌明治8年(1875)安田善次郎と共に東京日本橋小舟町に「第三国立銀行」を開業する。明治13年(1880)には、日本橋檜物町に単独で「川崎銀行」を設立した。初代八右衛門のもと、この「川崎銀行」を中核企業として、保険・貿易・鉱業などに進出し、『川崎財閥』へと発展していく。その後、「川崎定徳合資会社」(明治39年)、「株式会社定徳会」(昭和11年)に統合される。
財閥本社の「定徳会」は、戦後の財閥解体で一旦解散したが、現在は不動産会社「川崎定徳株式会社」として東京都内を中心に事業を展開している。
その他流れをくむ企業として、第百銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)、常陽銀行、足利銀行、千葉銀行、東日本銀行、太陽銀行(現在の三井住友銀行)、日本信託銀行(救済合併により現在の三菱UFJ信託銀行)、日本火災(合併により現在の日本興亜損害保険)、第百生命(経営破綻後、現在のマニュライフ生命保険)や、富士火災(川崎財閥系の常盤簡易火災を合併)、横浜銀行(川崎財閥系の明和銀行・鎌倉銀行を合併)等がある。
※ 「八大財閥」; 三井、三菱、住友、安田、川崎、浅野、古河、大倉。
明治村公式HP
http://www.meijimura.com/visit/s57.asp
