江戸時代、名古屋城東大手門(現在の名鉄東大手駅南)から東に向かう長塀町筋を現在の清水口の一本手前で左(北)に折れて北上していくのが上街道である。現在の幹線道路41号線は戦後の都市計画で造られたもので、それ以前は、南北の善光寺筋(善光寺街道とは別)は長塀町筋で行き止まりであった。北へ抜けるには上街道を利用した。上街道は、尾張藩の公用道路で、中山道へ通じ木曽へ抜けたため木曽街道とも呼ばれる。また家老成瀬家の居城犬山城(稲置と呼ばれた)へ分岐していたので稲置(いなぎ)街道とも呼ばれる。
中山道に抜けるのに多くの庶民は、鍋屋町を経て赤塚から大曽根を通る善光寺街道を利用した。こちらは下街道と呼ばれ、上街道より木曽までの距離が短かく、藩の規制が少なかったため利用者が多かったのである。藩士や公用の場合は、上街道を通行することを義務づけられていたようだ。
さて、上街道を北に向かうとまず清水の大坂と呼ばれる下り坂である。途中、クランク状に曲がった道を東に向かい、現在の41号線を越えたところで再び北上する。清水の大坂の下(現在は41号線沿い)に石仏の祠があり「竹藪地蔵」と呼ばれる地蔵と馬頭観音が祀られている。伝承によると明治の初めの廃仏毀釈で打ち捨てられた地蔵が、ある老婆の夢の中に何度も現れ、「私を竹藪から掘り出しておくれ」と頼んだそうだ。その通り竹藪から地蔵を見つけ出したので「竹藪地蔵」と呼ばれ、この地域の人に厚く祀られてきたということだ。祠の横に僧侶の墓石である卵塔が残されている。かつてここに長栄寺という寺があり廃寺となった。そのゆかりの墓石と推測される。江碕公朗「山吹の歩み」によれば、寛文3年(1663)に開基。長久寺の末寺で真言宗の寺。本尊十一面観音、名古屋西国三十三所第十札所であったという。
霊仏をここに居ながら拝めとて 写す清水の観自在尊
と唱われたそうだ。

竹藪地蔵の祠

これが竹藪地蔵

こちらは馬頭観音

この像は何でしょう?右側は弘法大師のようです。

これが祠の外にある卵塔。