清水の大坂の手前、スギ薬局の北側に清瀧保育園がある。清瀧寺(せいりゅうじ)という真言宗の寺院が経営している。清瀧寺はもともとは岐阜県の兼山にあったが明治24年(1891)の濃尾大地震で被災に遭い、明治30年(1897)現在地に移転したという。さらに昭和20年(1945)の戦災で焼けてしまい本堂はない。玄関横に小さな祠があり、ここに古いお地蔵さんが六体祀られている。厄除地蔵だそうだ。
芥子川律治の「名古屋のお地蔵さま」には、江戸時代の延享年間(1744〜1748)、宝暦年間(1751〜1764)、安永年間(1772〜1781)のものと記されている。戦後、本堂の焼け跡の中から掘り出したものだという。竹藪地蔵と同じように明治初めの廃仏毀釈の折りにうち捨てられたもののようだ。台石に刻印が残されていて寄進者は武士ではないかと芥子川は推測している。残念ながら祠の扉に鍵がかかっており間近に確認することができなかった。
江戸時代の絵図を見ていたら「竹藪地蔵」の記事で記した長栄寺があった。場所は、現在の瀬戸電の清水駅の西南あたりである。「竹藪地蔵」は長栄寺の寺域の南に隣接しており、長栄寺の境内であったかもしれない。清水大坂の上の清瀧寺の地蔵は、長栄寺からは距離がある。上街道に面した路傍の石仏であったかもしれない。周囲は、武家屋敷地で、当時はこのあたりに寺院はない。誰が、何を祈念して造った地蔵なのだろう?庶民が詣り続けていれば廃棄されず残る可能性が強いと思うが、明治になって地蔵を祀り、管理する人もいなくなり、打ち捨てられたのだろうか?

六体の地蔵が祀られている。

扉には硝子が嵌められていてフラッシュが反射する。

地蔵菩薩の看板が掲げられている。

清瀧寺の門柱