昨日は、学校の日直当番と学校祭の生徒活動の追い出し当番であった。
朝から図書館に詰めて、現在、全県で進められている情報保護のための対策を行った。図書館の5台のコンピューターにウィルス対策ソフトをインストゥ−ルしようとしたのだが、結果的に5台中1台が対策できたのみであった。OSがWindows Meのものは基本的に×であった。マイクロソフト社がすでにサポートをうち切っているのでウィルス対策の対象外であるということがわかった。OSがXPのものも、図書情報取得のために使用している「携速」というソフトが邪魔をしてインストゥ−ル不可能であった。また、一から対応策を練り直してみなければならない。
さて、昨日の八幡園の続きである。坂種病院の南の東西の通りは、金山の南から尾頭橋を経て、五女子から長良橋へと抜ける。この道は、かっての佐屋街道である。新幹線のガードを潜ったすぐのところにある「唯然寺」という浄土真宗の寺の通りに面した庭の一角に、「津島街道一里塚」の碑が建てられている。「五女子の一里塚」というのが昔ながら呼称である。
「五女子」という地名については、「昔愛知郡片端の里に尾張の大領何某とかやいふ人あり。この人七人の女をもちて七所へ嫁娶に各其地を領せしむ。それより村名と為す。其時片端を一女子村と改む今の古渡村是なり云々」(「中川区史」)というように、五人目の娘を嫁がせた場所という由来がある。すぐ西には、二女子という地名が残っている。
佐屋街道は、寛永3年(1626)と11年(1634)の3代将軍家光の通行をきっかけに整備が進められ、寛文6年(1666)には幕府の道中奉行が管理する官道に指定された。熱田(宮)宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しの風雨による欠航や、船酔いを嫌う多くの旅人が行き交い、東海道の脇往還として賑わった。商用や社寺参りの人々、参勤交代の大名行列、さらにはオランダ商館のシーボルトや14代将軍家茂、明治天皇もこの道を通行している。
*佐屋路道標
http://white.ap.teacup.com/syumoku/208.html

「津島一里塚」の標識。

「津島一里塚」の標識がある「唯然寺」。

坂種病院。

金山西の佐屋路道標。