末盛の城山八幡宮の南東に昭和塾堂がある。昭和3年(1928)愛知県が国威高揚と国民精神総動運動の中心として、当時盛んだった青年団活動の教化の場所として建築した建物である。4階建ての中央の塔を中心に、三方に2階建ての棟が広がった外観で、鉄筋コンクリート構造になっている。内部には300人収容の講堂や神殿、教室、食堂、図書室、寝室、浴室、貴賓室などが設けられてた。完成後は、愛知県下の各種の青年団が、3日から10日の日程で講習を行った。太平洋戦争が激化した昭和18年(1943)日本軍に押収され、いかり部隊や東海軍司令部が置かれた。
終戦後の昭和20年(1945)には、焼失した名古屋大学医学部として使用された後、教育文化研究所や県職員研修所、千種区役所の仮庁舎と、様々な形で利用された。その後、愛知県から城山八幡宮に払い下げられ、現在は愛知学院大学大学院歯学研究科の研究棟として利用されて現在に至っている。
昭和塾堂の東側に、城山八幡宮社務所による説明板には、【昭和三年、愛知県により青年教育・社会教育を目的とし、「人づくりの殿堂」として建設されたものである。四階建ての塔を中心に下部には二階建て鉄筋コンクリート造りの本館が三方に伸び、「人づくり」を表現するものとして、真上からも横からも「人」文字型に見えるように設計されている。】とある。
